論壇
なぜ日本社会は殺伐化しているのか
市場主義の罪と罰?
早稲田大学非常勤講師 宮崎 徹
経済の現実と思考、ともに行き詰まり
21世紀の日本経済は成熟段階に入り、青年期のような高い成長はもう望めない。それなりに豊かな社会に達したあとではかつてのような旺盛な需要に牽引される高成長はありえない。低い成長がノーマルであり、これを前提として経済社会の運営がなされねばならない。近年の不適切な経済政策によって増幅されている景気停滞の背後にはこうした構造問題があるのだ。
それなのに経済成長を前提とした運営から抜け出せないできた。バブル崩壊以後の20数年、その与件がないのにいつも成長戦略を求めてきたのだ。浅知恵の及ぶ範囲は限られていて、福祉という重荷を取り払って経済本来のバイタリティを取り戻すこと、すなわち市場化が錦の御旗となったのである。市場化によって生産性が高まれば成長がもたらされ、それによって従前のような運営ができるという前例踏襲の思考回路である。そうはいっても需要が伸びないのに、生産性を上げてもモノは売れ残る。生産性だけが上がれれば、一定の分量を作るための必要労働力は減っていく。新しいニーズが開拓されない限り、傾向的に雇用には減少圧力がかかる。雇用が減れば消費が弱まり、すなわち需要が伸び悩む。
これでは雇用の奪いあいになる。そのとき市場化だけが煽られれば、切磋琢磨どころでではなく弱肉強食の競争社会となっていく。そこから格差と貧困、そして社会の分断が進む。日々の生活のなかで市場における優勝劣敗の影響が大きくなるにつれて、市場的な評価基準が社会全体に広がっていく。経済の現実過程の行き詰まりは、このような過度な経済主義という思考のバイアスと表裏の関係にある。ここで経済とは経世済民であるといった、そもそも論をはじめるわけにはいかない。けれども、「すべては市場に聞け」というイデオロギーないし社会観は、自ら考えること、価値を定立するのを放棄した一種のニヒリズムであるといわねばならないだろう。経済成長を想定しているから明るいニヒリズムというべきか。もっとも、市場の本来的な意義と限界については別途原理的な検討がなされねばならない。以下では、いつから、どのような過程を経て多くの日本人がこのような俗流的な市場主義的思考に取り込まれたのか。ポイントと思われるテーマや出来事を振り返って反省のよすがとしたい。
日本型福祉国家の罪
戦後の政治経済過程は高度成長によって増大するパイをいかに分配するかということを軸にしてきた。具体的には階層間と地域間への利益の再配分である。その手法はよく知られているように主に公共事業であった。もうひとつ、あまり指摘されないが重要なのは、毎年のように繰り返された減税である。これは高成長で所得が伸びていくなかで都市中間層に恩恵をもたらし、公共事業による地方への再配分に対して寛容な姿勢を保たせるに足るものであった。金持ち喧嘩せずというところだろう。しかし時代は流れて利益の分配から犠牲の分配へと転変した。
思い起こせば、かつての日本は一億総中流社会と自他ともに認めていた。そして端的には、社会を安定化させるこの分厚い中間層が崩壊しつつあることが今の困難を象徴的に示している。中流から脱落していく過程で、人々はしだいに所得の再配分に不寛容になっていく。地方に重点的に配分されていく公共事業や地方交付税さらには生活保護など福祉への違和感が強まっていく。税の負担を軽くして生活を防衛したいという意識がもたらすものだ。その先には生活不安がある。
その過程を振り返ると、問題はその時々の経済成長の果実を人々の厚生(well being)にどういかすかというところにあったのだろう。いうまでもなく第2次大戦後には先進諸国では福祉国家がめざされた。しかし、敗戦国日本ではまず何より経済復興が求められ、その成功に連接して高度成長がもたらされた。1960年代には国民皆保険など社会保障制度は整備されていくものの、それらは経済復興に組み込まれる形、経済成長に付随的なものであった。
とはいえ1970年前後には日本でもその経済力を本格的な福祉国家化にどういかすかが問われていたのだろう。そのとき本来ならば、潤沢な税収をさまざまな対人社会サービス、現物支給(福祉の本格的な制度と政策)に活用すべきであった。けれどもそういう道は選択されなかった。多くの社会的サービスは市場を通じて購入されるべきものとされた。
つまり、日本の福祉国家化は市場社会ないし企業社会の枠の中でのものとされたのである。実際、生活に欠かせないサービスは賃金で購入するほかなかった。たとえば、住宅政策は貧しく、大企業の場合にはそこに勤めることで社宅などの福利厚生を得られたが、中小企業では賃金から家賃を払わねばならない。教育など子育てにかかわるサービスについても対価を払って入手する割合が、ヨーロッパ諸国などに比べてずっと多い。医療や年金の個人負担もそれなりのものだ。つまり、公的な社会サービスが直接的に供給される割合は小さく、企業による雇用と賃金によって生活保障の大部分が担われている。
このような日本的な福祉国家のもとでは、お金を持っていなければ生活に必要なサービスも入手できない。賃金をくれる企業に雇用されることが命の綱である。先に触れたように雇用が伸び悩み、特に良い条件のものが減っていくとき、争奪戦は熾烈なものとなるだろう。社会の空気は不寛容になり、殺伐としてくる。そして、経済成長だけが救いの神としてひたすら待望されることになる。人々が過度に経済主義的な価値観に陥る背景には市場に依存しすぎた日本型福祉国家の欠陥があったのだ。実際、日本の社会保障費の対GDP比は90年代まで先進諸国では最低であり、2005年にようやくアメリカを上回って18.6%となった。ヨーロッパ諸国はおおむね25%前後だという。公共事業が実は福祉政策だったのだという見方もあるが、これで日本は福祉国家といえるのかどうか。
さらなる土建国家への道
本格的な福祉国家への最後の分岐点であった70年前後に、ニクソン・ショック(変動相場制への移行と円高)や石油危機を契機として、経済成長は屈折しはじめた。成長鈍化によって税収が減っているにもかかわらず、たびたび大規模な景気対策が求められた。そのため急速に財政収支はきつくなり、76年にははじめて赤字公債が発行されるに至る。またこの時期、国際的には米独日が世界景気を牽引すべきだという共同機関車論がカーター政権によって喧伝され、日本に財政出動が強要された。内外からの公共事業拡大への期待によって財政赤字は増える一方で、旧大蔵省をはじめとして危機感が深まっていく。この時、大平政権によって財政再建のための消費税の導入が模索されたが、挫折した。
増税ができないなかで財政再建は屈折したものとなり、小さな政府と行政改革に偏っていく。1981年に発足した第2次臨時行政調査会がその旗振り役であった。ここで非効率の象徴とされた国鉄など3公社の民営化が図られた。これが政府の役割の見直しと市場化推進の突破口となった。会長であった土光がめざしを食べる質素な暮らし(実は高級なめざしは贅沢品であったとの説あり)をする85歳、硬骨の明治人としてテレビでイメージアップされたこともあって行革は一種のブームとなった。臨調のあとは行政改革審議会が引き継ぎ、いわばこの臨調・行革路線が世論を小さな政府と行革、すなわち新自由主義の方へと大きく旋回させることになったとみなせるだろう。
この流れに拍車をかけたのがアメリカのインパクトである。80年代に激化した日米貿易摩擦に際して、アメリカは内政干渉と疑われるような形で日本の経済社会のアメリカ的な改造を迫った。すなわち、自動車や半導体といった個別分野の摩擦解消をめざすだけではなく、日本の政策、制度全体を問題視した。それは定期化された日米構造協議となり、グローバル・スタンダードという名のアメリカン・スタンダードへの再編を求められたのである。それは企業のアメリカ的な組織再編や株主主権論にまで及んだ。その一方で、10年で450兆円にものぼる公共事業も約束させられている。その後も毎年アメリカ政府から改善要望書なるものが突きつけられた。こうした官民によるアメリカ的な政策思想、経済学や経営学の処方箋は、転換期に明瞭なビジョンを持たない日本の官民の議論や世論に大きな方向付けを与えることになった。いわば頭の中までアメリカ的改造がなされつつあったというべきだろう。
高度成長が終わって安定成長という停滞がしばらく続いた後、90年代になると低成長が常態であることが誰の目にも明らかになった。そこで政府がこれまでにもまして成長を牽引しなければならなくなってきた。公共事業の大盤振る舞いがはじまる。この時には地方だけではなく都市部の再開発やインフラ整備も展開された。しかし、90年代半ばになると、都市部を中心に公共投資へのニーズは充足されてしまった。その一方で、財政危機で70年代後半から停止されていた減税への要求が無視できないほど強まってきた。これ以降ふたたび大規模な減税が繰り返されるようになる。こうして公共投資と減税がセットになった、いわゆる土建国家レジームは極大化していく。だが、その原資は経済成長に由来する税収ではなく、公債発行であった。
膨大化する財政赤字に直面して、小泉政権ではさしもの公共投資の削減と郵政民営化など小さな政府への再編が加速された。市場化を軸とする新自由主義的な政策が広く受け入れられ、この時期にあるピークに達したともいえる。自己責任という言葉が決め台詞として多用された。小泉政権は5年の長期にわたり、この間に規制緩和をはじめ市場化が進展するとともに経済格差や貧困問題が発生してきた。同時に、その政策は従来の自民党の支持基盤を空洞化させることになった。
新たな社会の回し方
新自由主義的な政策の弊害が広がるなかで、迷走を続けたその後の自民党政権に変わって2009年には民主党が政権についた。まだ記憶に新しいこの政権の問題点はいろいろ指摘されているが、ここまでの文脈のなかで最大の問題はいかにして土建国家レジームから転換できるかであった。「コンクリートから人へ」というスローガンは、それをめざしたものであったはずだ。こども手当てなど個別的には注目される政策を生み出したが、全体として公共投資に替えて経済社会を回していく主要な方法は何なのかというところまでは進めなかった。
ただ公共投資を減らし、その財源を人に関わるさまざまな補助金に回すだけではもうひとつのバラマキになってしまう。そうではなく体系的な社会保障、生活保障が政策展開の軸でなければならない。たとえば政府が直接的に社会サービスを供給する分野を広げていくべきだろう。介護や保育に際してもサービスや施設など現物支給が望ましい。そうすればそこに雇用が生まれ、経済効果も大きくなる。ただお金を配るだけでは所得の再配分がなされるだけで、これから必要なサービスも新たな雇用も生まれない。
今の日本では高齢者を中心に資産だけが蓄蔵され(1700兆円!)、社会として必要なところにお金が使われていない。老後が不安なので貯金だけが増えていく。福祉のサービスや施設が十分に保証されていれば、老人も無理にお金をためる必要はない。お金を楽しく有効に使えるようになる。福祉が充実して安心社会になれば、消費も少しは伸びるだろう。文化やレジャーなど新しいサービス需要も生まれる。福祉や教育に多くの人を雇用すれば、彼らが税金を払うようにもなる。やがては経済も好転する。政府はこうした方向へ道筋をつけるべきだ。
要するに、政府としては公共投資に替えて社会的サービスの充実を経済運営の基本とすべきである。財政への期待も少子高齢化など社会が成熟化するなかで大きく変化している。社会が作りあげている富を福祉、すなわち良い暮らしのために活用することである。本来は70年前後になされるべきであった経済社会の作り替えがいまのっぴきならなくなっている。あまりに遅ればせの福祉国家といわれてもしかたがない(新版福祉国家あるいは環境福祉国家)。しかし、それはヨーロッパの経験も踏まえた現代的なものであるべきだ。しばしば指摘される公共的なものの不効率(政府の失敗)を克服したものでなければならない。また、炭素税によって環境と福祉を結びつける(税収を福祉目的に使う)など新しいアプローチも必要だ。この辺が知恵の絞りどころだろう。
いうまでもなく、経済は目的ではなく手段である。幸福な生活のための基盤であるが、社会の中に正しく位置づけられ、ポランニーがいうように社会の中にふたたび埋め込まれなければならない。経済だけが肥大化して、それが社会を振り回すのは本末転倒だ。
みやざき・とおる
1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」常務理事。
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