論壇

冷戦下での文部省体制の確立

戦後教育を問う(その3)

前こども教育宝仙大学学長 池田 祥子

はじめに

わたしは、「戦後教育を問う」(その1)(その2)では、戦前の「教育勅語」下の臣民教育の主導者であった文部省が、なぜ無傷で戦後も居残ることができたのか、しかも時を経ずして、戦後の「民主主義教育」の統括者に納まっていったのか、それらを簡単に跡付けることを試みた。

結論だけをいえば、日本の戦後の占領体制がアメリカを中心に牛耳られたこと、そして、アメリカの民主主義的教育行政のモデルが「各自治体に根差す教育委員会」として提示されたこと、さらに、文部省はそのアメリカ的民主主義的教育委員会制度の導入に基本的に賛同し協力した(せざるをえなかった)こと、それらの経緯のなかで文部省は、戦後まもなく日本の教育(制度・内容ともに)を統括する立場を堅固にしえたのである。

しかし、今から思えば(!)、戦後、アメリカの絶対的な占領体制下で強制された「民主主義」とは、そもそも矛盾的なものではあるが、それでも、「民主主義」とはどういうものなのか、じっくり考える時間が必要だったはずである。たとえ、「自由民権運動」や「大正デモクラシー」の歴史的な経験をもっていたにしても、多くの日本人にとってはなお曖昧な政治様式・思想であったにちがいない。そうであれば、「教育の地方自治・民衆統制(レイマン・コントロール)」や「教育の専門性」という内容も、実はよく理解されないまま、また両者の矛盾的なあり様にも気づかれないまま、文部省自身も、基本的には自己保存のために受容したといえるだろう。同じことは、政治の場でも(国会や政党、さらには運動のあり方)、企業の中でも、また、個々の家族の場でもいえる。日本では、「民主主義」とは今もって十分に掘り下げられ、実感されることなく、それゆえに定着も覚束ないのであろうか。

いま一つ、日本の戦後を当初から左右することになった「冷戦体制」の影響は絶対的である。アメリカから移入された民主主義が、日本の土壌でこれからの根付きを求められていくまさにその時に、これまた強圧的に「反共民主主義」としての軌道修正が強いられていくのである。

社会主義(共産主義)と資本主義とのイデオロギー対立は、「東と西」という国家間連合においても、国家と国家、あるいは国内の政党、運動団体、さらには個人のレベルにおいても、きわめて排他的・暴力的な対立を生み出した。

したがって、これから辿ってみようと思う日本の占領期から講和条約締結後の独立以降、「教育の政治的中立」をめぐる凄まじい抗争は、このイデオロギー対立の赤裸々な現われであり、共産党や日教組を狙う、相も変らぬアメリカ軍政部の後ろ盾の下での政府と文部省のなりふり構わぬ権力行使であったと思う。

しかし、ソ連崩壊後の現在、20世紀を覆ったあのイデオロギー対立はなんだったのか、社会主義(共産主義)・資本主義の双方とも、真に問い返し乗り越える作業はなしえていない。日本の教育もまた、戦後70年の重みに耐えつつ、そこからの出直しを始めなければならない。

占領政策の転換-政令201号とレッド・パージ

占領初期の民主化政策によって、労働組合の組織化が急速に進められ、生活の疲弊状態ということもあり、労働運動が飛躍的に高揚していた時期、教員組合も、1945年10月頃からすでに準備され始めた。2,3の先駆的な支部が結成され、それらが連携し、都道府県単位の組合が結成され、それに並行して、一気に全国組織が結成される。

ほぼ同時期の12月に、全日本教員組合(全教)、ついで日本教育者組合(日教)が結成された。前者は天皇制反対の共産党系、後者は天皇制擁護(ないしは現状追認、棚上げ)の社会党系といわれる。教員組合の内部でも、共産党、社会党のセクト性は当初より際立っていたことが分かる。

それでも、この両者が相寄って、1947年6月、日教組(日本教職員組合)の結成となった。

もっとも、この1947年は、すでに東西冷戦が顕著になり、占領政策も大きく転換する時期である。まずその年3月、いわゆる「反ソ・反共政策、原爆生産設備の増強、軍事政策の強化」を謳うトルーマン・ドクトリンが出され、6月マーシャル・プランによって、アメリカは西ヨーロッパ諸国への経済援助に乗り出し、ついで反ソ・反共基地化を進める。

もちろん、「東」でも、ソ連を中心にした「コミンフォルム」が10月に結成される。

政令201号

社会主義・共産主義の立場からは、資本主義とは地球資源や人間を「資本の利潤」のために濫費しモノ(商品)として酷使する非人間的な体制と見なされ、打倒・革命の対象となる。

他方の資本主義(アメリカ)側からすれば、社会主義・共産主義こそ、私的所有を認めず、自由のない全体主義的独裁体制であり、自らとは相容れない体制とされる。こうして、1950年前後を覆う熾烈な冷戦体制下では、相互に打倒(=革命)=戦争こそ、両者の偽らぬ政治的野望であり、いずれもむき出しの暴力的体質であったということもできる。  

明けて1948年1月、アメリカのロイヤル陸軍長官は、トルーマン・ドクトリンを受けてサンフランシスコで次のような演説を行っている。

― 対日占領政策の目標は日本自身を自立させるばかりでなく、今後極東におこるかもしれない新たな全体主義の脅威にたいし、その防壁の役目を果たすに十分なほどの強力、かつ安定したデモクラシーを日本にきずきあげる(ことである)。(望月宗明『日教組とともに』三一書房、1980、p46)

こうして、冷戦体制下では、日本に強いられるアメリカ的民主主義(デモクラシー)は、どこまでも「反共」というイデオロギーをまとい、そこに戦闘的なキナ臭さを増していく。

すでに、1947年に「2・1ゼネスト」中止命令を出したマッカーサーは、この1948年7月、重ねて、国家公務員、地方公務員、公共企業体労働者の争議行為を一切禁止するよう日本政府に書簡をもって要請している。つまりは「命令」である。

― 雇用もしくは任命により日本政府機関もしくはその従属団体に地位を有するものは、何人といえども争議行為もしくは政府運営の能率を阻害する遅延戦術その他の紛争戦術に訴えてはならない。

この「マッカーサー書簡」を受けて、時の芦田内閣は、公務員から団体交渉権、同盟罷業、怠業行為を禁止する「政令201号」を公布した(7月31日)。

当然、これに対して日教組もまた「非常事態宣言」を出して反対行動に出ている。しかし、この時期、共産党の、「アメリカ軍は“解放軍”=民主主義の旗手」という一面的な状況認識に影響されていたのか、この日教組の反対宣言には、アメリカ占領政策の変質を見抜き、それを鋭く批判する視点は見られない。どこまでも、時の芦田内閣批判に終始している。ポツダム宣言や、アメリカの占領初期の「民主主義」も、いずれも政治的な背景や力関係と無縁ではなく、冷戦体制下では、きわめてイデオロギー的、戦闘的「反共民主主義」と化すことには留意されてもいない。占領期初期の「民主主義」が、ここでは逆に、抽象的・主観的に、ある種価値化されているのである。

― 芦田内閣は、マ元帥書簡を一方的に解釈し、いまやわれわれ全官公庁労働組合を一挙に圧殺せんとしている。かかる政府の態度はわれわれの基本的人権を保証し、豊かな民主国家への光明を与えたポツダム宣言を無視し、憲法をじゅうりんし、国会の権威を否定するものであって、独占金融資本に奉仕せんとする意図は明白である。・・・ここにおいてわれわれは現政府の陰謀を破砕すべく、全組織をあげてたたかいぬくことを厳粛に宣言する。(望月宗明、前掲書、p52)

教育におけるレッド・パージ

冷戦体制は、ソ連や東欧との対峙に加えて、1949年10月、中華人民共和国の成立によって、東アジアにさらなる緊張を一気に高めることになった。中国の内乱が激しくなっていた1948年頃から、たとえば福井市などで、戦後初の公安条例が公布され共産党への弾圧が表立ってきている。レッド・パージ序曲である。

本格化するのは、1950年6月6日、マッカーサーによる共産党中央委員会の解散と全中央委員24名の公職追放が断行される。さらに、6月25日朝鮮戦争が勃発するや、このレッド・パージは赤裸々に、全産業部門に拡大され、日経連もまた、10月2日、「赤色分子排除対策について」を出し、その対象を、共産党員、秘密党員さらに「その者の言動から共産主義の同調者とみられるもの」にまで広げている。(日経連事務局『レッドパージの経過並に関係資料』1957年、鈴木英一『教育行政』東大出版会、1970、p72参照)

教育に限ってのレッド・パージは、まず東京都多田小学校において始まる。1949年2月2日、東京都軍政部が都教育庁に調査と報告を命じたことによって公になったものであるが、それは、3人の共産党教員が「入党にさいしてのご挨拶」というビラを、各担任生徒の家庭をまわって撒いたというものである。共産党員であった堀江邑一東京都教育委員から、「民主的教育に対する責任感の強い教員」の行為であるという肯定的な意見も出されはしたが、彼ら教員の行為がやや直情的かつ無防備な振る舞いだったために、それ以降のレッド・パージへの格好の「口実」をつくらせたと言えなくもない。

― 入党に際してのご挨拶:父兄の皆様教員同僚の皆様、新しい日本の再建の望みをひたすらいとしい児童の教育にのみ求めて私たちは日々微力を捧げてまいりました。破れたガラス窓から寒風の吹き込む教室で学ぶ児童の姿を見て、しみじみ思うことは、政府の教育に対する無責任であります。・・・(東京都教育庁「多田小学校事件調書」、鈴木英一、前掲書p92)

1949年9月、文部省は全国教育長会議を開いた際に、「各県教委(教育委員会)の責任において、文部省との連絡のうえで赤色教員の追放を行うこと」という要請をしている。教員に対する全国的なレッド・パージの展開である。この時すでに、各都道府県の教育委員会が、それぞれ管轄地方の教員チェックに協力的であったことが分かる。

たとえば、東京都では、次のような「教員整理基準案」というものが示されていた。

1.校長の教育方針に非協力のもの 2.生徒及び父兄に甚だしく信用のないもの 3.勤務成績の著しく不良なもの 4.教育基本法第8条に違反するもの 5.極端な反民主的思想で生徒にその影響を及ぼすもの 6.特定の政党に入党し、その党活動の顕著なもの  7.老朽者 (『日教組十年史』1958年、宮原誠一『教育史』東洋経済新報社、1963、p343)

ここまで露骨な教員摘発は、当然、反発も呼ぶであろうし、日教組もそれなりの反対活動を行ってきたものの、仲間を「赤い教員」として見捨てた教組も少なくはなかったようだ。上から一挙につくられた教員組合の弱さが露呈された結果だともいわれる。(宮原誠一、前掲書、p343)

こうして、49年から50年にかけての教員のレッド・パージは、全国の、小・中・高で、1700名に及んだという。(法務府特別審査局「教育界の動向」『特審資料』、鈴木英一、前掲書、p79)

なお、大学におけるレッド・パージは、1949年7月19日、CIE顧問イールズが新潟大学で「共産主義教授の追放勧告」を行ったのを皮切りに、全国30か所、138の大学で演説を行ったのは有名である。しかし、大学に関しては、大学人の反対は強く、学生たちも全国的に組織的な反対運動を展開した。

しかしながら、1951年6月27日、政治家、経済界に次いで、教育界でも軍国主義者、超国家主義者として追放されていた教員2万人が、ついに「追放解除」になって現場に戻ってきた。敗戦からほぼ6年。戦後の日本は、講和条約を控えて、一つの新しい局面に至ったといえるだろう。

「教育の政治的中立」というイデオロギー支配と「偏向教育」の摘発

1951年9月、サンフランシスコ講和条約、そして日米安全保障条約が締結される。そして、翌1952年4月に発効され、日本の国家的独立がなされたことになる。しかし、アメリカ軍の在留はそのままだし、本土の基地や沖縄についての日米行政協定(60年以降は日米地位協定)は国民には秘密のままであった。

国家的独立がなされたにもかかわらず、占領下でつくられた日本国憲法の位置づけ直しも、問い直しもなく、ずるずると占領期から独立期を迎えていくことになる。しかも、占領期の途中から、アメリカ側の、冷戦体制の激化に応じた「反共」路線への露骨な切り替えにも、日本政府は積極的に従い、かつ独立以降もその自発的な従順は続行していくのである。また、すぐ目の前で繰り広げられていた「朝鮮戦争」に対しては、当時の日本は、政府も国民もあまりに無頓着であった。(経済復興の恩恵だけは受けながら・・・)

講和条約締結の直前、1951年4月、マッカーサーの後任・リッジウェイ連合国最高司令官は、「占領下の行き過ぎを是正し再検討すること」を吉田茂内閣に促している。それに応じて設置された政令改正諮問委員会は、51年11月、「教育制度の改革に関する答申」を報告した。そこでの主な内容は、次の項目である。

・中・高での普通課程と職業課程
・職業教育重視の高校および専修大学(後の「高専」、すなわち高等専門学校)
・教科書:検定制度および国定制度の検討
・地方教育行政(教育委員会制度):都道府県および人口15万程度の市に設置、教育委員は任命制

教科書および教育委員会制度についての文部省の統制力強化に向けての改革や、職業教育の重視など、これ以降の文部省の教育改革の方向性を見事に示したものになっている。いわば、独立後の教育政策を進めるための現実的な設計図である。

ただし、この答申には出されていないが、いま一つ、大きなテーマがある。それは、冷戦体制下での日本の自衛力増強、およびそれに向けての「愛国心教育」、さらには、それを妨害する教員(教員組合)の徹底的な摘発、排除という課題である。そして、それを推進していくために、「教育の政治的中立」というイデオロギーが存分に活用される。

「国民形成」のための公教育―日本の再軍備と愛国心教育

教育は、政治的に偏ってはならない、という、至極当たり前の教育への注文や要請が、日本ではなぜ、「教育の政治的中立」という教員へのイデオロギー統制として権力的に機能するのであろうか。

それを考えていくためには、日本の戦前の教育、および「教官」(国家の教育官僚)として位置づけられていた教員のあり様を、改めて検討する必要がある。ただ、それをひとまず措くとしても、戦後の民主主義教育を基礎づけたと言われる「教育基本法」それ自体もまた、きわめて「両義的」であったことに留意されなければならないだろう。

すでに(その1)でも触れたように、教育基本法を中心的に構想した文相田中耕太郎自身、戦前の「教育勅語」の基本精神を継承し、戦後の「民主的・文化的国家」にふさわしいもの、それに代わりうるものを、と考えていたからでもある。

したがって、教育基本法(現在時点では「旧教育基本法」)を丁寧に読めば、まず「前文」では、「民主的・文化的な国家の建設」の決意が示され、次に、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と述べられている。まずは、国家ありき。そして、その国家建設の根本を支えるものとしての教育。その構図は「教育勅語」と変わらない。

第1条の「教育の目的」も、「国民の育成を期す」となっている。さらに、第8条「政治教育」では、わざわざ第2項に、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」という規定が置かれている。最後にもう一つだけ挙げれば、第10条「教育行政」の第1項である。「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負っておこなわれるべきものである。」

不用意にも、「支配に服する」という用語が使われているが、「国民全体に対し直接に責任を負う」ということは、一体どういうことなのだろう。教育勅語の「億兆心を一にして」をつい連想してしまうが、この教育基本法でも、国民とは個々の多様な国民=人々(ピープル)ではなく、「国民全体」という「矛盾のないひとかたまり=同質の単体」になっている。

つまり、日本の戦後教育は、もちろんさまざまな近代的権利(教育の機会均等など)も導入されてはいるが、基本において、教育とはどこまでも国民形成を目的とする公教育であり、したがって、(公立学校)教員は、当然のように「公務員」であるとして、疑われることなく継承され、「教育公務員特例法」として規定されたのである。(1949年1月13日制定)

朝鮮戦争が始まってまもなくの1950年8月、警察予備隊が登場し、それは52年10月保安隊に改組される(54年7月には自衛隊に)。それら、日本の再軍備の進行を自ら担いつつ、吉田茂首相は1952年9月2日、自由党議員総会で、次のように述べている。

― 物心両面から再軍備の基礎を固めるべきである。そこで精神的には教育の面で万国に冠たる歴史、美しい国土などの地理、歴史の教育により軍備の根底たる愛国心を養わなければならない。(「朝日新聞」)

さらに1年先のことだが、1953年10月 MSA協定(日本とアメリカとの相互防衛援助協定)の受け入れ折衝をおこなった「池田・ロバートソン会談」(池田勇人首相特使と国務次官補ロバートソン)では、日本側から、「政治的社会的制約」として、次のような問題点が提示されている。

― 占領軍によって行われた平和教育が非常に徹底しているということで、“国民よ銃をとるな”という気持ちは日本人によく行き渡っている。殊に、そういう教育の中に幼少時を育った人々が正に現在適齢に達しているのである。(宮沢喜一『東京―ワシントンの密談』1956年、鈴木英一、前掲書、p107)

さらに、10月30日 共同声明が出されているが、教育問題に関して、次のようなことが確認されたと言われる。(当時は秘密裡に取り決められた。)

― 会談当事者は日本国民の防衛に対する責任感を増大させるような日本の空気を助長することがもっとも重要であることに同意した。日本政府は教育および広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである(「朝日新聞」53年10月25日、鈴木英一、前掲書、p108)

第5次吉田内閣における「教育二法」の成立

ここでいう「教育二法」とは、1953年5月に成立した第五次吉田内閣、文相大達茂雄の下で、1954年6月3日成立した「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」と「教育公務員特例法の一部改正法」の二つの法律のことである。

長々しい法律名からは、何が争われたのかよくは分からないが、簡単にいえば、教育公務員(公立学校教員)の「政治的中立」違反の場合の罰則が規定されたのである。後者の「一部改正法」では、地方公務員でありながら、政治活動の中立違反は、国家公務員並みに全国どこでも適用される、ということが改めて規定された。

ただし、当初の法案提出時では、通常の「法」案であったものが、審議の過程で「臨時措置法」に限定され、「刑事罰」に処せられるよう規定されていたものが、「行政罰」(懲戒処分)に修正されている。

「違反の場合、1年以上の懲役または3万円以下の罰金(刑事罰ではなく行政罰)」とされ「国家公務員並みに、全国どこでも制限される」ことになった。

この「教育二法」の制定は、この後の任命制教育委員会への改組、勤務評定の実施へと続く教員管理強化の流れの中で、いつしか日本の教員たちの間に「教育におけるタブー」を出来させているとも言われている。つまり、教壇で教えてはならないことの上位5位は、「共産主義、天皇制批判、安保問題、資本主義批判、憲法第9条」という。(大橋幸「教員層の意識構造」『思想』1961.4 鈴木英一、前掲書、p408)

「政治」がテーマになる時に限らず、教育=学習とは、最大限の信頼感の下で、思考の自由、表現の自由、「誤ること、間違うこと」への自由が相互に保障されるなかで、初めて一人ひとりの身についたものとして成り立つものであり、教員たちへの知的活動へのタブーは、そのためにもできるかぎり最小であるべきだと思われるのだが・・・。

「教育二法」成立過程

吉田茂首相による講和条約締結から、1955年の与党・野党それぞれの大同団結、さらに共産党の路線変更などによって、いわゆる「55年体制」といわれる時期までの間、実は、日本共産党は、レッド・パージでほぼ非合法状態に置かれた上に、1950年、アメリカ占領軍や占領体制についての現状分析・評価について、コミンフォルムからの批判を受けるのである。その後、党内では、「所感派」と「国際派」に分かれ、非合法活動に従事した党員たちは、反米武装闘争を展開し、山村工作隊を組織し、火炎びん闘争も頻発した。

1952年のメーデーは、警官の暴行や労働者・党員たちからの火炎びんや硫酸びんも飛び交い、「血のメーデー」と言われている。この騒然とした状況下で、破壊活動防止法(破防法)が1952年7月21日公布されている。

それでも、日教組は、吉田内閣の反動攻勢を「逆コース」路線と称し、執拗な反対闘争を展開している。1951年1月、第18回中央委員会で、「教え子を再び戦場に送るな!」のスローガンを、戦前の反省と自戒も込めて採択している。

また、共産党の低迷期ではあるが、1952年6月、日教組は、第9回定期大会において、教育研究集会の講師陣の協力の下、「教師の倫理綱領」を定めている。10項目の倫理綱領の中に、「教師は労働者である、教師は生活権を守る、教師は団結する」の3項目を組み込んだことは、教員を「公務員」として、政治活動や労働争議権を禁止する政府へのはっきりとした抗議であり、反対の態度表明ではあった。しかし、そこには、「労働者階級」という革命主体に近づこうという社会主義・共産主義への傾きも見られ、また、他方では、戦後の学校や教員を、まずは、地域の、目の前の子どもたちへの教育のために再編成するには、どのような「学校論」「教師論」が必要だったのか、時代の混迷のなか、その検討はなされていない。   

先に見たとおり、吉田茂首相は、「再軍備のための教育」を目標として掲げ、さらにそれに抵抗する共産党および日教組を抑え込むことに全力を注ぐ。

まず、第3次吉田内閣は、教員たちの処遇を安定させることで、不満や抵抗を鎮めようと1952年8月、「義務教育費国庫負担法」を成立させる。これは、1948年の市町村立学校職員給与負担法で、都道府県負担となっていたものを、一部(半額)国庫負担とするものである。ついで、この国会では、52年10月市町村全面設置のための教育委員会公選を前にして、市町村の財政事情も考慮し、これを取りやめ、広域設置を規定する教育委員会法改正法案も提出されていた。しかし、この国会は吉田首相の「抜き打ち解散」で、教育委員会法改正法案は廃案となり、何と、市町村の選挙は実施される。ここでの政治的な激しい攻防もあり、やがて、1956年の「地方教育行政法」(教育委員の任命制など)の強行成立につながっていく。

第4次吉田内閣成立時(1952年10月)、共産党の22議席はゼロとなるが、左右社会党は健闘し、日教組系議員が38人当選となった。これをみた吉田首相は、「教職員の政治活動禁止」に本格的に乗り出すことになる。

具体的には、1953年1月「公立義務教育諸学校職員の身分及び給与の負担の特例に関す る法律案」を提出し、教員の給与をさらに全額国庫負担にすることで、教員を「国家公務員」として位置づけ、現行の地方公務員以上に政治活動の全面的禁止をねらったものであった。

ところが、今回もまた、審議中の吉田首相の「バカヤロー」発言で、結局は衆議院解散となり、上記法案は廃案となってしまう。

したがって、1953年5月成立の第五次吉田内閣にとって、すでに上記した「教育二法案」提出は、二度目、三度目の挑戦であったことになる。

そのための布陣の要は、大達茂雄の文相就任である。大達文相は、内務官僚出身、元昭南(シンガポール)特別市長であり、戦争犯罪人容疑者として巣鴨刑務所に拘置され、52年まで公職追放されていた。

この大達文相は、さらに初等・中等教育局長であった田中義男を文部次官に登用し、緒方信一をその初・中教育局長に据えた。大達・田中・緒方はいずれも内務省関連ということで、「完全な内務トリオ」と評されたようである。(鈴木英一、前掲書、p391、p487)

「義務教育を日教組の手から奪還して、正常な姿に戻さねばならぬ」と確信していた大達文相がまずやったことは、中教審に対する「教員の政治的中立維持に関する」諮問であった。

1954年1月18日に出されたその中教審答申の内容は、次のようなものである。

― 高等学校以下の生徒・児童は、あえて説くまでもなく心身未成熟の理由から・・・その政治意識においても、正確な判断をするにいまだ十分に発達をしていないのであるから、教育のいかんによっては、容易に右とも左ともなりうるものである。しかるにかれらに対して、強い指導力・感化力を有する教員が、自己の信奉する特定の政治思想を鼓吹したり、または反対の考え方を否認攻撃したりするがごときは、いかなる理由によるも許さるべきことでない。(新藤宗幸『教育委員会』岩波新書、p116)

この答申を受けて、教育二法案が策定され、国会に提出されるが、その審議の過程で、いわゆる「偏向教育」の摘発が進む。たとえば「山口日記事件」や「京都の旭丘中学事件」などの事例である。山口、岩国の基地の実態を元に、いかに平和が必要であるかを、教師が生徒の日記の欄外に記した、ということや、旭丘中学の教師の実践をめぐっての保護者有志からの抗議など、日教組批判のキャンペーンとして取り上げられている。

また、「内務トリオ」の一人、初中局長・緒方信一名での通達が、1953年12月23日、 次に見るような内容で出されている。

― 「特定の立場に偏した内容を有する教材資料を使用している事例、特定政党の政治的主張を移して、児童・生徒の脳裏に印しようとしている事例、その他一部の利害関係や特定の政治的立場によって教育を利用し、歪曲している事例」を報告せよと。(望月、前掲書、p136)

しかも、文部省は、これで集めた全国からの事例を「二十四の偏向教育の事例」として、54年3月3日の文教委員会で配布している。政治的効果をねらってのことであろう。

もっとも、これも大達文相の「党人文相」としての確信あってのことであった。大達文相は、今回の内閣の法案強行は、それ自体が自由党という政党の横暴、すなわち「政治的偏向」ではないか、という批判に対して、次のように堂々と(?)切り返している。 

― 政党政治である限り、政局を担当する政党が、その信ずるところに文教政策を推進することは当然であります。・・・いわゆる教育の中立性とは別箇の問題であります。(1954年3月17日第19国会衆議院文教委員会・労働委員会連合審査会、鈴木英一、前掲書、p406)

このような経緯を辿る時、日本の政権党および文部省は、「国民全体」とは、政権をとった多数派こそ、それを代弁しうると考え、次々と法定する「法律」こそ、(どのような決められ方をしようと)多数はすなわち合法的な支配の権限を保証する、と確信しているようである。

今回、1950年代前半の歴史を辿ってみても、ここからは、「選挙」を重視しつつも絶対視せず、反対や問題はその都度明らかにし、審議し、具体的な事例や、状況の変化に柔軟に対応するという、「民主主義」の深化への構えはゼロに近い。それはまた、いま現在においても変わらないのかもしれないが。

最後に、この教育二法案の前に廃案になった「公立義務教育諸学校職員の身分及び給与の負担の特例に関する法案」の審議中に来日したICFTU(国際自由教員連盟)委員長とAFT(アメリカ教員組合)書記長の二人の言動に触れておこう。彼らは、その時の文相岡野清豪と会見し、この法案の撤回を求めている。その際、AFTの書記長ケンズリーは、「教師が政治に参加するのは当然で、これを禁止するのは独裁への第一歩だ」と抗議したそうである。(望月宗明、前掲書、pp120-121)

アメリカのもう一つの、自由に息をしている「民主主義」、あるいはアメリカの複層性がうかがえる話である。しかし、会見相手の岡野文相は、「わたしは日本の大臣の中でも天皇にもっとも近い立場に置かれている。つまり、内閣が決めたことを実施するだけで、天皇と同様に自分の意見で行動できないのだ」と応じたという。(同前、p120)

ケンズリーたちは、この岡野文相の返答をどのように感じただろうか。岡野文相と大達文相、剛軟の違いはあれ両者とも、恥じることなくその主体性のなさを晒している。今も続く、日本の政治や官僚組織の「無責任性」にもつながる問題であろう。

今回は、1956年の地方教育行政法によって、日本的すなわち文部省を司令塔とする教育委員会制度を確立させる前夜ともいえる時代を追ってみた。細々とした、あるいは長々とした引用を多用したが、その当時のそれぞれの「言葉」を忠実に再現したかったという思いからである。読みづらいところはご勘弁ください。

次回は、1955年から56年、保守合同をはたした鳩山一郎内閣(第三次)における「教育三法」をとりあげる予定である。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、歌集『三匹の羊』(稲妻社)など。

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