特集●闘いは続く安保―沖縄

国連憲章からみた憲法と「安保法制」

人類史に逆行する強行採決の蛮行

活水女子大学准教授 渡邊 弘

はじめに

いわゆる安保法制が「成立」した。

この法律群(ないし、法律案群)の問題点や違憲性については、憲法研究者の多くが様々な角度から指摘してきた(1)。加えて、①この法律(案)群の内容そのものに関わる問題点、違憲性だけではなく、②この法律(案)群の扱い方や「成立」までの手続に関する問題点、違憲性、さらには、③この法律(案)群を巡る動きが照射した、立憲主義そのもの(ないし、その破壊)に関する課題も議論されてきている。

以上のような状況をふまえると、本稿執筆時点(2015年10月初旬)で考え得る今後の焦点は、以下の二点にあるように思われる。

第一に求められているのは、安保法制を廃止するとりくみを強める今後のプロセスにおいて、日本国憲法の平和主義の理念と具体的な規定の意味をあらためて明らかにすること、それによって、たんにこれら法律群を廃止することだけにとどまらず、日本国憲法に則った新しい平和法制・平和政策を市民の側から提起していくことである。そして第二に、立憲主義そのものの破壊に抗して、市民の力によって立憲主義を立て直し、日本の政治社会において、その実質化を進めていくことが求められている。

残念ながら本稿では、上記の焦点を十分に解明することはできず、せいぜい、そのための端緒を述べたにすぎない。その点を断りつつ、本稿をいわば序論として、他の機会も捉えて検討をさらに進めていくことをあらかじめ述べておく。

1.日本国憲法と、国連憲章という条約

安保法制の制定を推進する側からは、その「必要性」について多様な事柄が語られ、また、この法律(案)群がいかに法的正当性を持つものであるかという点についても様々に主張がなされた。後者において推進側がよく参照したのが、国連憲章、とりわけその第51条である。

国連憲章は我が国の法体系のなかにおいては、明らかに条約に区分されるものである。この点からすれば、第一に、いかにも教科書的な論点ではあるが、憲法と条約の関係の問題が生じることとなる。

管見の限りでは、憲法研究者のなかで憲法よりも条約を上位とする者はすでに存在しない。それは、①日本国憲法第98条第1項が日本国憲法の最高法規性を定めており、この点は条約の国内法的側面に対しても及ぶこと、②同第99条が公務員に憲法尊重擁護義務を課していること、③同第73条三号が条約の締結権を内閣に与え、その上で、事前ないしは事後に国会の承認を経なければならないことを定めていること、④前記③の手続において、内閣および国会には、その全過程において条約の内容の合憲性を確保する(違憲の内容をもつ条約を締結しない、あるいは、承認しない)義務、および、その手続の全過程そのものの合憲性を確保する義務が、前記②の規定により課されていることなどによる。加えて、⑤同第61条では、条約の締結に必要な国会の承認については、予算と同等の手続によるものとされており、この点、明らかに憲法改正手続(同第96条)に比して簡易な手続によって条約が効力を持つことになることが定められていること(いいかえれば、日本国憲法自体が予定する憲法改正の手続よりも簡易な手続によって日本国憲法の内容に反する効力を持つ条約を成立させうると日本国憲法が定めていると考えるのは矛盾であること)も指摘されるべきだろう。

2.国連憲章の基本的構造――「戦争」をどう捉えているのか

第二点として、国連憲章そのものの基本的性格をどう見るか、という論点が挙げられる。

そもそも戦争については、いわゆる不戦条約(戰爭抛棄に關する條約)第1条において禁止されている。もっとも、この条約で禁止されている「戦争」とはどのようなものであるのか、また、この条約そのものが現在においても法的拘束力をもっているのかといった諸点については議論がありうる。しかしながら、少なくとも不戦条約の理念は、現在では国連憲章に具体化されているといってよかろう。

このような理解をふまえたうえで国連憲章の各規定を見れば、第2条および第6章の諸規定により、国連憲章は戦争を禁止していると解することができる。ここでも、国連憲章が禁止する「戦争」とはいかなるものなのか、という点は再び議論にならざるを得ない。

その点に関わって、安保法制推進論者からは、国連憲章第51条の条文がもち出される。同第51条はいう。「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」。なるほどこの条文のみを見れば、個別的自衛権・集団的自衛権の発動たる戦争(2)を国連憲章は容認していると解しうる(3)

ただしこの点については、そもそもここで引用した条文から明らかなように、国連憲章は、個別的自衛権・集団的自衛権の発動たる戦争を、あくまでも例外的な事態と考えている。個別的自衛権・集団的自衛権の発動たる戦争は、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」においてのみ認められるもの(すなわち、国連憲章で原則とされている集団安全保障システムの例外)に過ぎない。また、先の引用に続いて国連憲章は「この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない」と定めており、あくまでも安全保障理事会を中心とする国連が、国際紛争全体を統制する意思を示している。

以上の点からすれば、国連憲章は、いかなる戦争をも禁止することを原則とした思想的基盤のうえに成り立っていると考えざるを得ないのであり、そのうえで、ごくまれな例外として、非常に厳格な制約を課したうえで、個別的自衛権・集団的自衛権を認めているという構造になっているといわなければならない。

3.国連憲章と日本国憲法――継承と断絶

第三に、とはいうものの、例外とはいえ戦争の存在を容認するかのごとき規定を置いていると解さざるを得ない国連憲章と、「戦争」・「武力による威嚇」・「武力の行使」を放棄し、また、それら行為のための道具であるところの「陸海空軍その他の戦力」の不保持を定め、前文および第1条から第103条に至るまで一貫して平和そのものを国家の最大の運営原理の一つとした日本国憲法との関係は、改めて検討せざるを得ない。

この論点に関わってさしあたり検討すべきは以下の四点である。①日本国憲法の定めが具体的には何を政府に命じているのか、とりわけ、日本国憲法は、侵略行為を受けたときに自衛(個別的自衛権の行使)を認める余地をもった憲法なのか否か。②加えて、日本国憲法が、集団的自衛権の行使を認める余地をもった憲法なのか否か。③上記①②の検討の結果、国連憲章と日本国憲法とのあいだに矛盾が生じている場合に、その関係性をどう見るか。④その矛盾が、いかなる歴史的・思想的文脈によって形作られてきたものなのか。

①について結論からいえば、日本国憲法は個別的自衛権の所持およびその行使を容認しているとみることはできない。第一に、ここでいう自衛権は「『陸海空軍その他の戦力』を用いて侵略を排除するための権限」であると考えざるを得ないが(この点、後述)、そもそも「陸海空軍その他の戦力」の保持自体を日本国憲法は禁じており、その点からすれば、用いる「道具」がないのに「権限」を行使することはできない。なるほど一部の論者は、「陸海空軍その他の戦力」を用いないで(いいかえれば、他の「道具」、たとえば警察力の発動、市民の実力による蜂起、外交交渉による侵略行為の排除などを用いることによって)自衛権を行使をすることができると主張する。しかしながら、警察力の発動は警察権、市民の実力による蜂起は抵抗権、外交交渉は外交権という、自衛権とはまったく別の概念に基づくものなのであって、これらを自衛権という概念と混淆させて議論することはできない。

第二に、日本国憲法が仮に個別的自衛権の所持を容認しているとすれば、そして、なんらかの理屈によって日本国憲法が個別的自衛権の行使のために有用な範囲に限って「陸海空軍その他の戦力」の所持を容認しているという「ミラクル」な論理を立てうるとすれば、前記の通り、個別的自衛権が「陸海空軍その他の戦力」を用いることによって発動されるものである以上、当然、立憲主義の憲法である日本国憲法には、その発動の要件(すなわち、開戦の宣言を行ったり、「陸海空軍その他の戦力」に対して侵略への抵抗を命じたりする権限を有する主体およびその手続)が定められているはずである。しかしながら、日本国憲法にはそのような規定は存在しない。

そもそも、個別的自衛権が実効的なものであるためには、その発動の「道具」である「陸海空軍その他の戦力」は、侵略行為を排除するだけの強力なものである必要があるが(そうでなければ、そのような弱小な「道具」をもつ意味がない)、そのようなものは通常、日本国内最大の武装をもつ組織とならざるを得ず、そのような強力な組織を統制する規定が日本国憲法にないということは、立憲主義の考え方からして、日本国憲法はそのような「道具」をもつことを容認していないのだ、と解すよりない。

この点は、これまで日本政府がとってきた「自衛隊は、日本国憲法が保持を禁ずるところの『戦力』ではなく『必要最小限度の実力』」論を採用した場合でも同様である。政府のいうところの「必要最小限度の実力」とは、やはり、外国からの侵略を排除しうるだけの強力な「実力」なのであって、それは日本国内最大の「実力」組織にほかならず、これに関する統制主体、統制内容、統制方法を日本国憲法が明示していない以上、「必要最小限度の実力」の保持をも日本国憲法は容認していないといわざるを得ない。

仮に万一、個別的自衛権の保持およびその行使、ならびにそれに必要とされる「道具」の保持やその運用については、日本国憲法は全面的に国家権力に裁量を与えているのであって、だからこそ、それらの統制に関する規定が日本国憲法にはないのだ、という主張があるとすれば、それは明らかに立憲主義の概念に反する荒唐無稽な珍論である。

立憲主義の憲法の最大の任務は、簡潔にいってしまえば、国家権力を拘束することによって個人の尊厳を実現するというところにある。国家権力に対する拘束機能と権利保障機能を欠いている憲法は、そもそも憲法とはいえない(フランス人権宣言第16条)。そして、国家権力のなかでも最大の力をもつものが、軍隊をはじめとする実力組織である。したがって、立憲主義の憲法が最も拘束するのに苦労してきた(そしてその拘束にほぼ失敗してきた)対象が、軍隊である。この点は、立憲主義の歴史を見れば明らかであろう。

近代国家は当初、戦争や軍隊を民主主義的な原理と制度でもって拘束しようとしたが、この試みはあえなく失敗に終わった。なぜなら、民主主義的な原理と制度による拘束は、民主主義的な正当性が付与された別の決定によって乗り越えられ得るからである。民主主義的正当性を与えられてしまえば、軍隊は存在(拡大)しうるし、戦争も行いうる。

この失敗を克服するために、立憲主義の憲法は、憲法の定める条件を満たしていない軍隊と戦争を違憲とし、存在を許さないこととした。さらに人類は、憲法の定めるその条件を徐々に厳格化していった。しかしながらなお、この方向性での拘束の試みは成功しておらず、人類は軍隊と戦争を根絶できていない。なぜなら、憲法典そのものは紙に書かれた文字に過ぎないし、また、憲法の正当性の根拠となる国民は、通常、丸腰であるか、あるいは軍隊よりも弱小な実力しか持っていないからである。また、軍隊の存在とそこへの様々なリソースの投入・消費というプロセスが、平和的な社会・経済構造をゆがめ(ないしは、破壊し)、むき出しの暴力としてだけではなく、社会的・経済的権力となって市民の生活と意識に深く食いこむからである(たとえば、沖縄や長崎における軍事基地依存や軍需産業依存のありようを見よ)。

そうであるとすれば、軍隊をはじめとする実力組織を拘束する最も効果的な方法は、その廃絶しか残っていない。日本国憲法は、この歴史的・画期的転換を実現した憲法なのである。

さて、先を急ごう。以上の検討の結果、すなわち、日本国憲法は個別的自衛権の保持とその行使を認めていない、ということからすれば、②日本国憲法が、集団的自衛権の行使を認める余地をもった憲法なのか否か、という点については、否、という答えしかない。そして、③国連憲章と日本国憲法とのあいだに矛盾が生じている場合にその関係性をどう見るか、という点について言えば、法論理的には、前記1で既に決着がついている。

そのうえで、真に明らかにしておくべきは、④日本国憲法と国連憲章とのあいだに存在する相違・矛盾が、いかなる歴史的・思想的文脈によって形作られてきたものなのか、という課題である。

実際の制定過程に関する詳細な検証は他日を期すよりないが、この二者の相違・矛盾を解く鍵の一つは、両者の制定時期にある。国連憲章が作られたのは1945年6月26日、日本国憲法が公布されたのは1946年11月3日である。

この二つの日付のあいだに人類はなにを経験したのか。それは、広島・長崎への原爆投下とその惨禍である。核兵器の登場は、「軍事力による平和」という考え方を完全に否定しさるだけのインパクトをもったものとして捉えられなければならない。核兵器登場以前の兵器は、いかに強力なものであったとしても、人類そのものを完全に滅亡させるだけの力をもったことは事実としてなかった。しかしながら核兵器は、現実に、人類の存在をまるごと否定するだけの力をもっている(4)。このインパクトを経験していない人類が作った国連憲章が、集団安全保障(=国連軍という軍隊の活動)という原則と、その例外的措置たる個別的自衛権・集団的自衛権(=加盟国がそれぞれに軍隊を保持していることが前提となる権限)の発動、すなわち、「軍事力による平和」という幻想から逃れられていないのは、ある意味では当然であろう。そしてその一方で、核兵器のインパクトを直接に経験した日本が、一切の戦争・武力を否定し、「諸国民の公正と信義に信頼」することによって平和を実現する日本国憲法、いいかえれば、「軍事力による平和」に頼らない日本国憲法をもったということの意義は、正当な形で人類史に位置づけられるべきである。

おわりに

前項末尾で記したことに従えば、安保法制の「成立」は、①日本国憲法に違反し、②日本における立憲主義を破壊しただけではなく、③人類史に逆行する暴挙であったといわざるを得ない。いまだカウントし終わっていない広島・長崎における被爆者の命や長年にわたる苦難と引き替えに得た教訓の憲法典化が日本国憲法であった(5)ことを否定したのが、安保法制の「成立」だったのである。

さて、それではその日本国憲法の再生の道はどこにあるか。

この点については、抽象的には既に本稿冒頭に記した。具体的には、①安保法制に賛成した議員の落選運動(6)、②違憲審査制を活用した憲法訴訟の提起、③それらを推進するための市民による不断の研究活動と実践活動などを早急に展開しなければならない。

安保法制は「成立」した。しかしながら、安保法制を推進した側はその過程で致命的なミスを犯している。それは、安保法制を提起することにより、日本社会において、個人の確立を引き起こしたということである。樋口陽一の分析を引くまでもなく、近代国家の成立は個人と国家の二極体制の成立を画期とする。我々はいま、日本における近代社会の確立に参加しているのである。

注―

(1)インターネット上で簡便に見ることができるものとして、たとえば、「安保関連法案に反対する憲法研究者」ブログの声明(http://anpohousei.blog.fc2.com/blog-entry-8.html)2015年10月9日付投稿など。

(2)集団的自衛権の発動たる戦争を、「自衛戦争」と呼ぶことはできない。集団的自衛権の発動は、自国が攻撃されていないときに行われるものであり、これを「自衛」というのは矛盾であり、本来は「他衛」と呼ぶべきものである。この点については石埼学から教示を受けた。記して感謝する。筆者は石埼から直接に教示を受けたが、同趣旨の動画を以下で見ることができる。IWJ Independent Web Journa(http://iwj.co.jp/wj/open/archives/247087)2015年5月18日付投稿。

(3)そもそも、国家が「固有の権利」なるものを持っているのかどうか、という論点、そしてここでいう「固有の権利」という概念と自然権概念との異同については、本来検討すべきであったが、本稿では果たせなかった。他日を期したい。

(4)長崎大学核兵器廃絶研究センターが公表しているデータによれば、人類が所有している核弾頭の数は、2015年6月15日現在で、約15700発であるという。
(http://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/datebase/nuclear0/nuclear/nuclear_list_201506)

(5)この部分の記述は、当然ながら、日本の侵略による犠牲者や原爆被爆者以外の戦争被災者の命や苦難を軽視するものではない。この点を含めた分析と検討は、別稿にて行うこととする。

(6)長崎県議会は、都道府県議会レベルにおいて全国で最も早く、安保法案の制定を求める決議を採択した。この種の決議に賛成した地方議員を、落選運動の対象から外すことはできない。

※注におけるウェブサイトの記載については、いずれも、2015年10月10日時点で最終確認した。

わたなべ・ひろし

活水女子大学文学部現代日本学科准教授。1968年生まれ。専攻は憲法学、法教育論、教育法学、司法制度論。【論文】「法教育をめぐる論争点」(2012)、「法教育推進の方向性」(2011)、「『国民の司法参加』『裁判員制度』の教育をめぐる課題」(2011)【著書】『プロジェクト・シチズン 子どもたちの挑戦』(共訳)(現代人文社 2003)、『高校生が考える「少年法」』(共編著)(明石書店 2002)、『法教育の可能性』(共編著)(現代人文社 2001)。

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