特集●戦後70年が問うもの Ⅱ

戦後補償法-「人権の感覚」に基づく解決を

条理にかなう歴史認識が必要

弁護士 今村 嗣夫さんに聞く

聞き手 本誌編集委員・黒田貴史

戦後補償裁判で示された事実認定

黒田 貴史――1990年代に、韓国人BC級戦犯にしろ、慰安婦にしろ、日本の裁判所で戦後補償訴訟がおこされたときに、裁判所はその被害があまりにひどかったために、現在の法律上、判決で補償すべきだという判決を書けなかったとしても、真摯な事実認定をおこなったうえで、立法によって救済すべきだという付言をつけた判決があいついで下されました。

今村 嗣夫多くの裁判官がきちんとした事実認定をしています。

戦後補償の裁判がつぎつぎにおこされたのは冷戦が終わってからです。冷戦時代はアジア各国は日本から経済援助を受けていた。それと日本の戦争責任を相殺するような考え方がありました。さらには言論も自由ではなかった。そういうなかで冷戦が終わり、民主的な社会が実現しはじめると、それまで声を上げられなかった被害者個人が発言可能になり、裁判が起こされるようになりました。

弁護士・今村 嗣夫 氏

BC級戦犯裁判では、文泰福(ムンテボク)さんが原告団長でした。彼は、この裁判の目的をこう言っていました。自分たちの人権がないがしろにされたことを日本の裁判所の公文書に残すということ、そういう裁判をやることで孫たちに自分たちのことを理解してもらうこと、戦犯になったといっても悪いことをしたわけではないという名誉回復をしたかった。日本の裁判官は、自分たちの請求を認めることはまずないだろう、しかし、被害状況を知れば、付言で立法をうながすような判決を出すかもしれない。それで政治が動くだろう。文さんは廃棄物処理の事業をやっていたせいか、物事の見方がひじょうにシビアな人でした。そういって裁判を起こしました。裁判官は被害事実について、入念に調べて被害の重さを認定してくれました。

同じころ、下関で慰安婦の人たちが起こした裁判の判決がありました。「従軍慰安婦制度は……徹底した女性差別・民族差別思想の現れであり、女性の人権を根底から侵し、民族の誇りを踏みにじるものであって、しかも、決して過去の問題ではなく、現在においても克服すべき根源的人権問題である」「帝国日本は、旧軍隊のみならず、政府自らも事実上これに荷担し、その結果として重大な人権侵害と深刻な被害をもたらしたばかりか、慰安婦原告らをはじめ、慰安婦とされた多くの女性のその後の人生までも変え、第二次世界大戦終了後もなお屈辱の半生を余儀なくさせたものであって、日本国憲法制定後50年余を経た今日まで同女らを際限のない苦しみに陥れている」とそこまで認定しました。しかしいま、70年たってもその状況が変わっていません。彼女たちの際限のない苦しみは癒やされていません。

裁判官の認定は、こうした一連の戦後補償訴訟のなかでとても真摯におこなわれていました。BC級裁判の最高裁判決(平成11年12月20日)も次のような認定をしています。「上告人らはいずれも我が国の統治下にあった朝鮮の出身者であり、昭和17年頃、半ば強制的に俘虜監視員に応募させられ、日本軍の軍属として採用された後、タイ俘虜収容所、マレー俘虜収容所等において俘虜の監視員に従事した」「第二次世界大戦後、上記俘虜の監視等に従事中に俘虜に対し、虐待等の行為をした戦犯として連合国による裁判を受け、その結果、3名の者が死刑をその余の者は拘禁10年ないし20年を宣告された。死刑宣告を受けた3人のうち2人は死刑の執行を受け、その余の者は長期間にわたって拘禁されるなど深刻かつ甚大な犠牲ないし損害を被った」と認定しています。各自が受けた刑まで判示して深刻で甚大な被害を受けたと認定したのです。「これに対する補償を可能とする立法措置が講じられていない」。そこまで判決は踏みこんでいるのです。

また、強制労働については、富山地裁判決がありました。女子勤労挺身隊の裁判です。「原告らは研磨、旋盤などの作業に従事し、勤務は昼夜二交代制で、日勤と夜勤は、一週間交替で行われた。自由な外出は認められなかった。原告らは被告の寄宿舎で生活をしたが、狭い部屋で多くの人と寝泊まりし、暖房施設などはなかった」。挺身隊募集の際、「お花やタイプなどが習えると言われたが、これらのことは実行されなかった。また、原告崔は19年秋頃、旋盤作業中に右手の人差し指を負傷しその一部を切断するに至った」「原告らは、被告工場で働いている間、一度も賃金を受け取ったことはなかった」。このような事実認定をしています。

慰安婦、BC級戦犯、強制労働、いずれも多くの裁判官が被害を克明に認定しました。オランダの慰安婦の補償請求裁判もありましたが、この訴訟の裁判官も克明に事実認定をしました。このオランダの慰安婦訴訟の原告たちは裁判官の事実認定のおかげでとても癒やされたといわれています。

註―BC級戦犯とは  A級戦犯は第二次大戦後、連合国が戦争指導者を訴追し処罰するための東京裁判で侵略戦争を計画・実行したとして「平和に対する罪」などに問われた政治・軍事指導者らを指す。28人が起訴され、25人が有罪(東条英機ら7人が死刑、16人が終身刑)判決。BC級戦犯は、捕虜虐待や住民虐殺といった「通例の戦争犯罪」を裁く軍事法廷がアジア各地で開かれ、約5700人が「BC級戦犯」として裁かれ、約1000人が死刑判決を受けた。朝鮮人・台湾人は計321人が有罪となり、49人が死刑となった。

黒田 ――たしかあの判決はハーグ条約の適応をぎりぎりまで認めようと努力した東京地裁の判決だったと思います。補償請求は退けましたが、あと一歩で個人が戦争被害を直接請求できると解釈可能だとかなり踏みこんだ法律解釈をしていました。

かたくなな日本政府の態度

今村このように日本の裁判所は、日本の戦争犯罪の具体的な事実をかなりのところまで認定しました。裁判官たちはかなりの努力をしていたにもかかわらず、国会が動かなかった。

政治の立場は、「諸外国に対する戦後補償は諸条約によって、すでに“解決済み”である」と言いつづけています。しかし、個人の請求権について政府がどう抗弁してきたかを追いかけてみるとかなりの変遷があります。

1991年8月28日参議院予算委員会では外務省の柳井俊二条約局長は、日韓請求権協定について外交保護権を放棄したものであって個人の請求権を消滅させたものではないといっていました。外交保護権というのは、自国民が外国で損害を被ったときに、その国の法的手続きによって救済されない場合、本国がその国に対して、適切な救済をするよう請求する国際法上の権利のことです。つまり、日韓協定で放棄されたのは国家間のこの外交保護権の放棄であり、被害者個人の請求権までは放棄されていないということです。

ところが、その後、2001年3月22日になって海老原紳外務省条約局長は解釈を変えて「外交保護権を放棄した場合には、その効果として個人からの請求についてもこれに応ずべき法律上の義務が消滅する」と参議院の外交防衛委員会で答えています。

どうして変わったのか。アメリカの捕虜たちが日本政府や企業に対しいろいろな裁判を起こしました。そのとき日本政府や企業は、サンフランシスコ条約で個人の請求権は放棄されたと解釈しています。日本の捕虜になった人たちが訴訟をおこし始めたときにアメリカ政府はわざわざ日本政府に有利になるような個人の請求はサ条約で放棄されたという見解を発表しています。このアメリカ政府の見解にそって条約局長の答弁が突然変わりました。政治の立場からすると日本の戦争被害者の個人請求権は喪失したということを言いだしたわけです。

「条理」による裁判とは何か

今村私がBC級戦犯の補償裁判の代理人を引き受けたときに、まず入り口のところで大問題がありました。法律がないのです。補償法がないのにどうやって裁判を起こすのか。NHKのプロデューサーからも電話があって、どうするのかと聞いてきました。いろいろ考えた結果、法律がないのだから条理でやるしかないと思いました。明治8年の太政官布告第103号に裁判官事務心得というのがありました。裁判官は成文の法律に則って裁判をすべく、成文の法律がなければ、慣習によって、慣習がない場合は条理を推考して裁判をすべしと書いてある。たしかに法律もなければ、慣習もない。それで条理で訴えを構成していきました。そのおかげで「条理裁判」というあだ名までもらうことになりました。

戦争被害は特定の人だけが被害を受けるわけではなく国民全体が受けるわけですから憲法でも補償する必要はないという結論になります。たとえば、道路をつくるときに特定の人が公共のために損失を受ける場合、これは補償します。国民全体が受ける戦争被害には補償しないという判例が固まっていました。つまり憲法に基づく請求は困難です。そこで条理に基づく請求をしました。最高裁でも条理に基づいて裁判をした先例はありました。

条理とは要するに正義公平の原理、ものの道理です。それが成文の法律と同様に使えるということですが、条理はもちろん、裁判官の主観のなかにあるものではない。客観的に社会のなかの人びとの思想のなかに存在しているもの、経験的に探求しうるものという学者の意見もあります。そうすると、これが条理だというものをこちらは立証しなければなりません。

そこで出てくるものがアメリカやカナダの先例です。アメリカは1942年、日系アメリカ人約11万人を敵性人種として強制収容しました。この日系アメリカ人に対する人権侵害に、1988年になってから謝罪して一人2万ドルの個人補償をおこないました。それは法律(市民的自由法)を作って実行しました。カナダ政府も同様の補償をおこないました。カナダ政府による首相名の謝罪の手紙があります。そのなかで「当時、軍事的に必要と考えられたことであったとしても……今日理解されている人権の原則を侵害するものであったことを承認する」といっています。この歴史観が重要です。

この二つの例をあげると、東京高裁は、1998年7月13日の判決で、戦争被害者に対して補償するのは国際社会においては条理にかなったことになりつつあると認定しました。「我が国および諸外国において戦後補償に関する立法が人道的ないし国家補償的な配慮に基づくものであること」を認め、「第二次世界大戦において国家の権力により犠牲を強いられ、被害を受けたものたち、特に違法な権力の行使によって犠牲・被害を被ったものたちについて一定の補償をなすべきであるという認識が次第に我が国を含めた世界の主要国の共通の認識としてたかまりつつある」と判示しています。そのためには立法が必要であり、「国政関与者において早期解決を図る立法措置を講じることが期待される」と判示しています。そういう経過で立法解決をうながす判決が出されたわけです。それは原告団が望んでいた内容の判決でした。

立法については象徴的補償がキーワードになります。慰安婦で一番はじめに名乗りをあげた金学順(キムハクスン)さんは、「私が望むのは、日本政府の謝罪と国家による賠償です」といっています。日本の戦犯とされた李鶴来(イハンネ)さんが同じようなことをいっています。高裁の最後の本人尋問で、「謝罪と補償はまったく一体のものでございます。謝罪だけでもだめです。また、お金をもらったというだけでは意味がございません」といっています。日本の戦争被害者が望んでいるのは、それほどの多額の金額でなくても、人間としての尊厳の侵害にたいする謝罪のしるしとしての象徴的補償です。立法に反対する人たちは、補償を求める日本の戦争被害者はずっと並んでいるのだから、いくらお金があっても足りないという。ところが、アメリカは象徴的補償をおこなったときは、不況のまっただなかでした。それなのに法律を作って実行しました。

黒田――しかし、いくらお金があっても足りないという言い方は、被害者が多数いるということを自ら認めているようなものです。

今村そこで私は、立法案をつくり、発表しました。「旧植民地出身者である『BC級戦犯者』の遺族等に対する措置に関する法律(今村私案)」です。(韓国・朝鮮人「BC級戦犯者」の補償立法をすすめる会『立法ニュース』第2・3号)。

私案第2条で基本的な考えを出しました。「政府は、旧植民地出身者で『BC級戦犯者』として刑死した者の遺族又は拘禁された者若しくはその遺族に対して、補償支給金を支給することにより謝罪の意を明らかにするものとする」。ここに国家補償としての意味をこめました。

また、立法案では、順次支給方式を定めました。自動的にすべての被害者に直ちに補償金を支払うのではなく、「違法性の程度と被害の重大性および救済の緊急性並びに実際の支給手続における難易度などを勘案」して類型化することを提案しています。アメリカの例では、最初は強制収容所に拘束された期間、一日いくらで計算しました。ところが、ものすごく大きな金額になってしまいます。それを後に「謝罪のしるしとしての補償」として当時のレートで200万円にとどめました。李鶴来さんたちも一審では、ものすごい金額を出しました。それを後に象徴的補償に変えました。

ですから先ほどあったようないくらあっても足りないという批判はあたりません。いま、被害者たちが望んでいるのは国家による公的な謝罪であることとそれにともなういくばくかの金銭的補償です。けっしていくらあっても足りないような補償を望んでいるわけではないのです。

条理にかなった歴史認識

今村国際社会で生きていくうえの条理にかなった歴史認識、残念なことですが、日本の政治家たちにはそれが欠落しているとしかいえません。立法が可能になるためには歴史をどう見るかの軸が定まっていなければならない。

黒田――ドイツのメルケル首相が来日したときに言わんとしていたことはそのことでしょう。先に開かれた国連の核拡散防止条約の会議で、指導的人間は広島・長崎を訪問すべきだという日本政府の提案はそれ自体は悪くないと思います。しかし、中国が抵抗した理由もよくわかります。日本は先の戦争での加害責任を果たしていない、それどころか否定しようとしているのではないか、というのでしょう。あの場で、日本が戦争被害者に対してこれだけの謝罪と補償をしましたと堂々と言えません。

今村付言判決が出たときに立法解決していれば、そんなことはなかったはずです。

黒田――付言判決が出たときには自民党のなかにも理解者が複数いたはずですが、残念ながらそういう人たちは、いまでは引退したり、落選したりしています。むしろそのころに台頭してきたイデオロギー的に右翼政治家が自民党の中枢を握っている状態ではないでしょうか。

今村多くの政治家たちは、被害者にむかって「お気の毒でした」ということばをかける。民主党の議員がBC級戦犯に対する補償について質問したときに岸田外務大臣は「我が国はかつて多くの国々、とりわけアジア諸国の人びとに対しまして、多大な損害と苦痛を与えました。その認識において安倍内閣としても同じであり、これまで歴代内閣の立場全体として引き継いでいくという考えを表明してきましたが、その痛切な反省のうえにたって、自由で民主的な基本的な人権の尊重、法の支配、こうした普遍的な立場を尊ぶ国作りを進め、戦後70年間にわたり、平和国家として歩んできました」といいながら、「まず指摘の点でありますが、ご指摘の点を含め、日韓間の請求権に関わる問題については、1965年の日韓請求権協定により、完全かつ最終的に解決済みであります。しかしながらこうしたBC級戦犯の方々につきましては、今日まで道義的見地から1953年4月以降日本人と同様の帰還手当が支給されたほか、1958年までに見舞金、生活資金の一時支給が行われ、また生業の確保、あるいは公営住宅への入居について好意的な措置がとられました。またこうした取り組みは重大であると認識しています。今回のこのBC級戦犯の方々につきましては今日まで様々なご苦労をさせてきましたことについては、私自身も大変心の痛む思いがします」という答弁です。

このような道義的見地からの社会保障的諸策は、まったく謝罪とはいえない。質問者も、そこまで追及していない。戦後補償の意味がわかっていません。

黒田――アメリカの例だったでしょうか。国会に被害者を呼んで公聴会を開きました。日本も同様のことをおこなって、慰安婦被害者、BC級戦犯被害者など、日本の戦争被害者を呼んで国会で証言していただき、それを国会の記録に残して、謝罪のしるしとして残す、そして補償をおこなう。そこまでできれば、ひとつのかたちが整うといえるのではないかと思います。

今村そのとおりです。とにかく被害者の高齢化が大問題で、どんどん亡くなっています。まるで被害者がこの世からいなくなるのを待っているかのようです。以前、雑誌に書いたことがありました。「自然死という時効を待っているのではないか」。まさにそうです。

長崎の朝鮮人被爆者で帰国後、日本に密入国して知事に対して被爆者健康手帳の交付請求の裁判を起こして勝訴した人がいます。そのときに最高裁がいっていたのは、原爆医療法による医療給付は社会保障の面はあるとしても、日本の戦争が原因になった被害だから、人道問題からしても知事は密入国者に対しても被爆者手帳を交付すべきだと認めました。社会保障と戦後補償とに明確な一線を引いているのです。従軍慰安婦に対する補償を行なおうとした民間基金はその大事な一線を外してしまったためにうまくいかなかったのではないか。

今、民主党が法案をつくっていますが、その内容では象徴的補償の意味合いはありません。まずは、超党派の議員グループがゆるやかな集まりで意見交換する機会をつくらないとならないだろうと思います。

黒田――残された現実的な解決策は、ほぼ立法だけといっていいように思います。裁判も全部終わっている。日韓協定などの条約による制約もありますから、政府に働きかけてもすぐに動くわけではない。立法によって新しく権利を創設して謝罪と補償、国会の記録に公式に被害者のことばを残す。

今村なにも前進しないから慰霊碑を建てさせようという話もあるのですが、それは靖国と同じようなものと言えなくもない。精神的な部分でなだめるだけというのは解決にならないだろうと思います。何もないからせめてそれくらいとなってしまうのですが、そこは原則を貫くべきです。

最終的には歴史認識と人権の感覚の問題に行きつく問題です。歴史の見方の軸を定めなければなりません。「新しい歴史教科書をつくる会」などがよく言うことがあります。歴史をみるときに、いまの時代の人権や正義の原則ではなく、その時代の正義に照らしてどうかというのが歴史の学び方だという。韓国の超党派の国会議員たちが扶桑社の教科書の発行差し止めを求める仮処分を東京地裁に申し立てました。裁判官に、日本の弁護士を代理人につけなさいといわれ、私のところにやってきました。そのおかげで「つくる会」の人たちが書いたものをまとめて読んだのです。

「歴史を学ぶとは」という巻頭言でこんなことを言っています。「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう」。

しかし、今の時代の人権の原則からみてその時代がどうだったのかを考えることに歴史を学ぶ意義があるのではないでしょうか。アメリカやカナダの事例をみてみましょう。アメリカやカナダは第二次大戦中の日系人の強制的な収容についてどちらも国家による謝罪と補償を行いました。当時の政策としては、真珠湾攻撃を行った国・敵性国出身の人びと、日系人を強制収容することは正しかったかもしれない。しかし、それは今の人権の原則からすれば、まったくの誤りである、ということから謝罪と補償を行ったのです。歴史をどうとらえるかということが戦後補償をどう考えるかにあたって重要な指標になります。

戦後を代表する憲法学者・宮澤俊義さんは「人権の感覚」として次のように書き残しています。

「自分や、自分の家族が人権じゅうりん的扱いを受けて、憤激することではない。自分となんのかかわりもない、赤の他人がそういう取り扱いを受けたことについて、本能的にいわば肉体的に、憤激をおぼえることである」。

戦後補償立法を促した判決の根底には司法の「人権の感覚」がうかがえました。日本政府にはこの「人権の感覚」があまりに欠落しているとしか考えられません。被害者たちの自然死という時効を許してはなりません。

最後に立法運動のなかで浮かんだ詩を紹介します。

戦争責任
他から問われて感ずるものではない、
自らに問うて意識すべき罪。
忘れてあげようといってくれても、
時効にしてはならないもの。
信頼の源。

いまむら・つぐお

1932年生まれ。弁護士。韓国・朝鮮人元BC級戦犯者の戦後補償裁判、津地鎮祭違憲訴訟、自衛官「合祀」拒否訴訟、定住外国人の指紋押捺拒否裁判など国家と宗教、少数者の人権、外国人と憲法に関わる裁判を多数担当。主な著書に、『象徴天皇制と人権を考える』(日本キリスト教団出版局、2005)、『一匹の羊の教え―いま問われる少数者の人権』 (共著・日本基督教団出版局、2000)、『戦後補償法―その思想と立法』(共著、明石書店、1999)、『アイデンティティーへの侵略―いま高校生と語る戦後補償・人権』(共著・新教出版社 、1995)、『こわされた小さな願い―自衛官〈合祀〉拒否訴訟』(キリスト新聞社 、1989)などがある。

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