特集●戦後70年が問うもの Ⅱ
沖縄から見た戦後70年を語る
人として尊厳かけた新基地拒否の今
琉球新報編集局次長兼報道本部長 松元 剛
沖縄の尊厳守るリーダーの誕生
ハイサイ。沖縄の言葉で「こんにちは、ご機嫌いかがですか」という挨拶の言葉です。2014年11月の沖縄県知事選挙で元那覇市長の翁長雄志さんが当選し、県知事となりました。その翁長さんが市長時代、市民対応の窓口の全ての職員が来客者に対してハイサイ、女性にはハイタイとしっかり挨拶したうえで業務をしようと、琉球沖縄の島言葉であるウチナー口をしっかり後世に残していこうという提案をし、実行に移しました。翁長知事は、そのような沖縄の言葉を若い世代に継承していくことが、沖縄の尊厳や自らのことを自ら決めていく自己決定権の考え方を育む上で大切なことだと考える運動を、行政側から最初に取り組み、継続してきたリーダーでもあった方です。
この翁長新知事の誕生後も、普天間飛行場の代替施設として辺野古における新基地建設を日米両政府は強力に推し進めています。それに対して沖縄社会が必死に抗っている現状をご報告しながら、戦後70年を迎える今年、沖縄から見た日本という国の姿を明らかにし、この沖縄の基地問題は人権問題そのものであるということをお話したいと思います。
そのような課題を前にすると、往々にして「本土と沖縄の溝」という言葉で片付けてしまいがちになりますが、決してそうではなく、沖縄に関心を持ち、思いを寄せる方々が一人でも増えてくれることが沖縄の声を全国に、そして世界に届ける大きな足掛かりになると信じています。
私は平成元年に琉球新報社に入社し、27年の記者生活の振り出しの社会部で警察司法を長く担当し、中部支社といって極東最大の米空軍拠点嘉手納基地の門前町沖縄市を3年間担当し、それから政経部に1998年に異動しました。その頃、大田昌秀知事の最後の8ヶ月間は現在のように日本政府と沖縄県が辺野古移設に関して対立する状況となっていました。当時の自民党政府からかなりの働きかけがあったものの、結局太田知事が辺野古移設ノーを決断した結果、政府と沖縄県の間で厳しい対立状況が続いた8ヶ月間を取材いたしました。それから稲嶺知事が誕生し、その時期も含め基地担当を4年、編集委員を3年、そしてまた政経部の基地担当に復帰し、基地問題の激動期を足掛け9年ほど担当しました。その間に琉球新報労組の委員長を3年務めました。基地担当記者と労組委員長を兼務するのはとんでもないとの声もありましたが、なんとか両立できたと思います。
「平時の安保」と「有事の安保」
私自身の経験から沖縄の基地問題を振り返りますと、1960年代後半からのベトナム戦争において沖縄からB52戦略爆撃機が数多く飛び立ち、多数のベトナム民衆の命を奪いました。沖縄の施政権が1972年に返還され日本に復帰しますが、その後も東西冷戦の中で、本土の主要な米軍基地は6割ほど減少した一方で、沖縄の基地は16%しか減少しておりません。結局、国土のわずか0.6%に過ぎない沖縄の土地に、排他的な基地管理権を有し、日本の法律の拘束を受けずに米軍が自由に建物を造り、自由に訓練することが可能な米軍専用基地が、全国の73.8%も集中している状況が続いています。そういう中で、1990年のクウェート危機、湾岸戦争、そして2001年の9・11同時多発テロとその後のアフガニスタン戦争、イラク戦争など大きな紛争にはすべて、沖縄から多くの空軍や海兵隊の要員が戦地に派遣されてきました。
日本は戦後70年間、一度も他国と戦火を交えたことはありません。その日本にとっての安全保障を考える際には、東西冷戦下のソ連侵攻や北朝鮮からの核攻撃、中国の南下政策による東アジア情勢の緊迫などの有事が想定されてきました。現在では、尖閣諸島領有をめぐる問題も、基本的には有事における安保をどうするかという課題として、安倍政権を含めた日本の政権の中で位置づけられているといえます。沖縄ではそうした本土での空気感とはかなり異なり、日本が戦争状態ではないにもかかわらず、アメリカの戦争状態のもとに組み込まれてしまう状況があります。その中で米軍の日常的な基地運用、そしてベトナム戦争や湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争へと派遣され、神経が刺々しい状態で帰還した兵士による強姦事件や強盗事件など、全く戦争と関係ない沖縄県民が被害に遭うことが続いているわけです。
戦時ではなく平時であるにもかかわらず、沖縄は在日米軍基地と兵士を多く抱えることによって、様々な人権侵害・犯罪被害を受けて続けてきました。そういう意味では、もちろん有事の安保問題として沖縄の基地がどのように使われるのかという課題はありますが、沖縄では平時でありながら基地を抱え続けていることによってこれほどの弊害が横たわっているということが常に大きな課題として存在してきたわけです。沖縄では平時であるにもかかわらず、米軍の紛争地への出動にともなって準戦時状態へと近づき、それが県民の被害に直結するという意味で、沖縄は平時の安保を問い続けなければなりません。
2012年は沖縄が本土復帰を果たした40年目の節目に当たる年でした。その年の10月に沖縄本島中部で米軍兵士2名が仕事帰りの女性を強姦するという事件が起きました。弱い立場にある女性が襲われる事件は沖縄社会の激しい反発を巻き起こします。その事件の際も県市町村議会のほとんどが抗議決議をし、県知事、市町村長が沖縄防衛局や外務省沖縄事務所に抗議を繰り返しました。復帰40年という節目の年にそのような事件が起こり、特に2人の兵士がグアムから嘉手納に出張に来た海軍の兵士で、飲酒後に集団暴行におよぶ事件であったため、大変な問題となりました。その際、沖縄県警本部長が米軍兵士の強姦事件についての統計を発表したのですが、本土復帰から40年間で米軍兵と基地関係の米国人軍属が起こした強姦事件は121件ありました。
私が驚いたのは事件に伴う逮捕者が137人という点でした。それは10件程度が集団暴行であったという事実を意味します。世界中に米軍駐留地域がありますが、ドイツやイタリアその他の地域で、これほどの強姦事件が発生しているのは沖縄と韓国しかありません。これは、黄色人種に対する白色人種を中心とした米軍の差別意識があるのではないかと思います。沖縄では統計上、1972年の施政権返還以来、平均すると年間3人の女性が襲われている。そんな米軍駐屯地が世界のどこにあるのかということがその時強く感じたことです。法の下の平等、基本的人権の尊重という概念に加え、沖縄では平和的な生存権、静かに穏やかに暮らすという当たり前の権利をどれだけ確保できるのかということが、常に市町村の基地行政の課題であり、沖縄弁護士会などの人権を守る取り組みの大きな課題となっています。
米兵事件が後を絶たない中、普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設に対する沖縄県民世論調査を行うと、「最低でも県外」を掲げた鳩山民主党政権が誕生して以来、どの調査でも7割~9割の反対が出ます。その数字が高止まりしたまま下がらない、このような沖縄の民意を無視する形で新基地建設作業が進められている現実は、不平等、不公正という言葉の範囲を超えて、もはや不正義、平和学でいうところの「構造的暴力」という域に達しているのではないかと、ここ数年間の取材で感じざるを得ないわけです。
本土は憲法9条のもとで、沖縄が米軍統治下に差し出されていた27年間の間に高度経済成長を成し遂げました。平和憲法の陰で日本から封印された沖縄は次々と米軍基地を押し付けられてきた。在沖海兵隊が在日米軍兵士の6割を抱えており、アメリカ本国から高校を卒業したばかりの若い兵士が毎年6000~7000人やってきます。彼らは訓練が厳しいため週末は羽を伸ばしたい。給料日にはお金をもって飲みに行き、そこでいろいろな事件を起こす。若い兵士が多いということもあり、海兵隊の集中度というものが沖縄の基地負担の大きな源になっているということです。
その海兵隊も、元をただせば1950年代に山梨や岐阜を中心に駐屯していた第3海兵師団でした。朝鮮戦争が終わり、朝鮮半島に駐留する兵士の削減にともなって、日本の岐阜と山梨に引き上げさせたのですが、そこで日本全体の反基地闘争が激化し、そのまま本土に駐留し続けると日本の反基地・反安保世論がさらに高まり制御できなくなってしまう。そのような状況への対策として、米軍がやりたい放題の統治をしていた沖縄に移せばよいではないかと日本政府が進言したわけです。沖縄の海兵隊は当初から沖縄に配備されたわけではなく、その主力部隊の大半が本土に配備されていたという歴史にも注目していただきたいのです。
5月15日には沖縄施政権復帰記念日がめぐってきますが、「基地のない平和な沖縄」という43年前の沖縄県民の悲願はいまだ実現せず、平和憲法のもとへの復帰が形骸化したまま現在に至っているという状況です。
命の二重基準と沖縄
私には忘れられない取材が2つほどあり、そのうちの1つが1994年2月に一審判決があった嘉手納基地爆音訴訟という裁判をめぐる取材です。その際に司法担当として那覇地裁沖縄支部が下した判決を担当しましたが、そもそも司法担当の仕事は、裁判の争点整理や判決の意味を軍需基地担当と読み解いていくものなのですが、そのような硬派の記事を書くためだけでなく、軟派の取材、騒音にさらされた原告や地域住民がどのような生活を送っているのかというような取材にも自ら志願して参加しました。
嘉手納基地は嘉手納町、北谷町、沖縄市の3市町にまたがる約2000ヘクタールの基地です。100機近くの常駐機があり、F15主力戦闘機が48機配備されています。それらが年中凄まじい騒音を立てて訓練しています。そのような場所での生活とはどのようなものだろうと考えながら取材をすすめました。嘉手納基地周辺の騒音は那覇市に住む私自身にはなかなか想像できるものではなく、沖縄の基地被害の実態を東京や大阪の方がなかなか想像できないといった構造が、じつは沖縄県内にも存在しているのです。
取材で伺ったのは62歳のご夫婦のお宅で、60歳まで嘉手納基地で従業員として勤めた後、定年退職されたご夫婦でした。そのご夫婦が結婚した長男夫婦のために自宅の敷地に家を建ててあげたところ、長男の妻が日に日に体調がおかしくなっていきました。長男の妻は沖縄南部の出身で騒音には慣れておらず、着陸する軍用機の発する110デシベル(車から1~2m離れバンパーの高さで耳を車に向けた状態でクラクションを目いっぱい鳴らされた音)という凄まじい騒音のために体調を崩したのでした。ご夫婦が住む北谷町砂辺地区の最も騒音の激しい地域では一日に70回~80回、多いときには120回、200回と降り注いできています。
こうした騒音が降り注ぐとあらゆる日常生活の場面において音のコミュニケーションが寸断されます。小学校の授業では45分の授業のうち5分は騒音の影響によって授業を中断させられる、それは義務教育期間(9年間)中の1年分の授業を無駄にする計算になります。そのような場所に静かな地域から移り住んだ長男の妻は夜も眠れなくなり、目を閉じても戦闘機の音が耳奥で反芻される、その結果みるみる体重が減ってしまい、それを見かねた息子が一年足らずで家を出ることを決意せざるを得なくなりました。幸い引越後には体調は劇的に改善したのですが、取材の際預けられていた1歳になるお孫さんが、着陸してくるF15戦闘機の音に「こわい、こわい」と泣きながら祖父母の膝にすがりつく光景を目の当たりにしました。じつは、そのお孫さんが初めて覚えた言葉は、母親が耳をふさぎながら繰り返した「こわい、こわい」であったという話に胸を引き裂かれる思いがしました。
このような原体験に直面すると、ただただ普通の生活を求める住民が米兵に襲われたり、騒音で著しい生活侵害にあっている不条理に強く憤りを覚えるとともに、そのような県民の生活を破壊する基地問題に対して厳しい姿勢で向き合い、住民目線で記事を書いていくことが沖縄の基地ジャーナリズムの軸足であることを再確認させられます。
基地と接して生活することの意味、日本とアメリカのいびつな関係を目の当たりにさせられる事故が2004年8月13日に発生しました。本土でも報道された、沖縄国際大学に米軍大型輸送ヘリが墜落炎上した事故です。(ここで墜落時の映像を約8分間流す)
これは純然たる沖縄の私有地である沖縄国際大学敷地内で起きた出来事です。日米地位協定においても、他人の屋敷にヘリを落として、屋敷の持ち主を排除して米軍が管理してよいとは一言も書かれておりません。そのため、多方面から明確な地位協定違反であるとの批判が噴出しましたが、県知事や宜野湾市長も事故現場に入れない状態が10日以上続きました。米軍の基地運用を支える外務省の政務官が現地を訪れ、何も手出しできない状況に「日本の主権はどこにあるのだ、ここはイラクではない」と憤慨する様子が地元で大きく報道されました。
しかしその後、外務省はこの米軍の横暴を、多少の行きすぎはあったものの地位協定違反にはあたらないと正当化、追認するに至ります。日本がアメリカに主権を譲り渡し、ひれ伏すような態度を取り続けているという歴然とした状況が明らかになりました。それは辺野古の問題においても同様ですが、常に基地被害の改善を求める際に、アメリカ政府に辿り着く前に、日本政府が大きな壁となって被害住民に背を向けて立ちはだかるという構造が戦後70年間、本土復帰43年間続いています。それを象徴する出来事でもありました。
事故原因は、イラク戦争に向かう米軍ヘリの整備兵が激務による疲労から、尾翼ローターを固定するボルト4本を締め忘れたことによるものでした。準戦時状態におかれた沖縄において疲弊した兵士がミスを犯し、その被害を沖縄の住民が受けたわけです。世界情勢の中で米軍が関わる軍事情勢、紛争の荒波が沖縄に押し寄せる、平時において有事の安保を突きつけられる象徴的なケースでもあります。
結局、民間地域に米軍機が墜落した際の基準を作るべきであるとして新たなガイドラインが定められました。その中で、事故機の機体の内周りは米軍が管理をし、外回りは住民に被害が及ばないようにという理由で都道府県警察が管理することが定められたのです。沖縄国際大学の事故における地位協定違反の現場管理が、そのまま日米の新たな制度として確立されたわけです。たとえ敗戦国という立場とはいえ、ここまで日本は米国に従属しなければならないのかということを明確に示しているといえます。
ところで、普天間飛行場は米国本土におけるクリアゾーンという厳格な基準に照らし合わせるならば存在を許されない飛行場であることはあまり知られていません。どういう意味かと申しますと、その基準に従うならば飛行場周辺900メートル圏内に住民が住むことはできないのですが、普天間飛行場はその範囲内で3700人の住民が生活を営んでいます。そのような状態の基地は、アメリカ本国でもドイツ・イタリアでも運用が認められないのですが、その飛行場を半世紀以上米軍は使い続けているわけです。沖縄の人たちの命の重さとアメリカ本国、もしくは欧州各国の米軍基地周辺に住む人たちの命の重さにはあまりに露骨な差別的取り扱いがあり、うちなーんちゅの命が明らかに軽んじられている状態にあります。民意が反映されない辺野古移設の問題も同様に、これほど露骨な命の二重基準が許されて良いのか、基地問題の重要な本質はこの命の重さの二重基準に行き着くのではないかと思われてなりません。
先ほど日本では米軍機の事故に全く手出しできないというお話をしましたが、イタリアでも1998年、低空飛行訓練中の米軍機がロープウェーのワイヤーを切断し、20人余が亡くなる痛ましい事故が引き起こされました。イタリアはパイロットを訴追するという強い姿勢で臨み、機体差し押さえの構えを見せました。結局公務中ということでパイロットは訴追されませんでしたが、米軍は事故を引き起こした低空飛行訓練は今後行わない、全ての訓練計画を事前にイタリア軍司令官に提出する、1日44回以上は飛ばないなどの基地運用条件に合意します。沖縄とはあまりにも差がある対応であり、ドイツやイタリアのように米軍の運用を制限し、住民の生活を優先する国がある一方で、安倍首相が「日本を取り戻す」とスローガンを掲げている日本では米軍の運用が最優先され、住民の生活は二の次になっています。沖縄からみていると「首相が言う日本という中に沖縄は入っていますか」という思いを抱かざるを得ないような対応が繰り返されてきたわけです。
普天間飛行場の辺野古移設の問題については、2010年に鳩山由紀夫首相が県外移設を断念し辺野古に回帰する直前、あらゆる市町村首長、県議会議長、県知事も参加した9万人県民大会において沖縄県をあげての反対が示されました。2012年9月にはオスプレイ配備反対の県民大会が開かれましたが、沖縄の総意を示す県民大会を報じる沖縄の新聞紙面はテレビ面を中面に映して、1面から最終面を見開く構成にします。いつも強烈な、新聞としてこれ以上はないほどの強い表現をしていますが、そこにはファイティングポーズを示し続けなければ、強権的な政権に押し切られてしまうという強い危機感があります。
このような形で沖縄の全ての市町村長、知事、議会が反対をし、間接民主主義で選ばれた代表が全員反対という状況の中で、再び普天間飛行場の辺野古移設という民主党政権の判断が示されました。オスプレイについても同様の反対県民集会がありましたが、間接民主主義で選ばれた全ての代表者が反対し、県民は直接民主主義の一環である県民大会に参加して意思を示したにもかかわらず、オスプレイは配備され、辺野古移設は強行されようとするそのような状況が続いています。沖縄の新聞の読者欄では基地問題に対する鋭い意見が非常に増えてきていますが、寄せられた意見のキーワードをあげるならば差別、沖縄の尊厳、アイデンティティ、最近では自己決定権という言葉になると思います。そのような言葉こそが、ここ最近の沖縄社会を照らし出すキーワードといえるでしょう。
示され続ける基地拒否の民意と「オール沖縄」
このような沖縄の意志を無視して基地を押しつける日本政府のあり方が鋭く問われるのが辺野古新基地建設の問題であるといえます。これは仲井真前知事が辺野古埋め立てを承認した際の紙面ですが、仲井真前知事は辺野古移設反対の立場で選挙も戦いながら、安倍政権からの猛烈なプレッシャーの中で辺野古埋め立てを承認するに至りました。その判断に琉球新報は一面で「即刻辞職し信を問え」との社説を掲載しましたが、新聞においてそのような明確な辞任要求が示されることはかなり珍しいものであったと思います。それほど決定的な公約違反であったわけです。
それを受けた2014年の知事選は沖縄にとって非常に重要な選挙となりました。仲井真前知事が埋め立て承認をした後、およそ20日後に辺野古を抱える名護市長選挙(2014年1月)があり、現職で「海にも陸にも作らせない」と表明していた稲嶺進さんが再選を果たしました。保革拮抗しているという名護市において4155票差をつけるという、沖縄社会とするとかなりの大差をつけて稲嶺さんが再選され、名護の民意は明確に辺野古NOだという意志が確認されました。
9月の名護市議選でも、稲嶺市長を支持する与党が議長を押さえ、すべての委員会で多数派を獲得する絶対安定多数で勝利しました。そして、訪れた天王山の県知事選です。翁長雄志さんを支えた勢力は、前回の選挙まで自民党が推し公明党が推した仲井真さんを、沖縄経済界の中核となって支えてきた勢力でした。その一人が建設・流通大手の金秀グループを率いる呉屋守将さんです。そして、県内ホテル大手のかりゆしグループを率いる平良朝敬さん。この二人が、仲井真さんが公約を翻して埋め立てを承認したことに反発し、このままでは沖縄はやっていけない、基地と決別しなければ沖縄経済はよくならない、そういう覚悟で翁長さんを擁立したわけです。
そこに、従来の沖縄の土着政党である社会大衆党や社民党、共産党という革新勢力が一つになって相乗りする形で、オール沖縄の枠組みで翁長さんを押し上げようという動きが強まり、翁長さんが候補者となりました。
投開票日の翌日、14年11月17日付朝刊紙面を紹介します。県知事選など大きな選挙を報じる際、新聞は当選者本人と周囲に2~3人ずつくらい、顔が大きく写るようにレイアウトするのが常識です。本来なら、仲井真前知事に圧勝した翁長さんと右隣の奥さん、翁長さんの選対本部長を務め、仲井真さんに敢然と挑戦状をたたきつけて翁長支持にまわった呉屋守将さん、この辺りの3~4人程度でおさめるところですが、琉球新報がこの日1面で掲載した写真には非常に意味があります。一番左手側から共産党沖縄県委委員長の赤嶺政賢衆議院議員、その右隣に現在副知事を務めていて翁長氏の右腕である那覇市議会議長(当時)の安慶田光男さん、沖縄の市町村長の中でも政府からも沖縄県内でもその政治力が一目も二目も置かれている重鎮の元嘉手納町長だった宮城篤実さんがいて、そして翁長夫妻、呉屋さん、社民党国会議員の照屋寛徳さん、沖縄社会大衆党委員長で参議院議員の糸数慶子さん、そして右端にかりゆしグループの平良朝敬さんと、翁長さんを支えた9人の方全員が映った横長の写真を1面に据えました。長く保革の対立が息づいてきた沖縄の政治風土の中で、党派を超え、経済界の代表も加えた形の「オール沖縄」の枠組みを、歴史的に示す写真はこれであると確信し、当初のレイアウトを変更して主だった人たちを全員入れる形でこの紙面を作ったわけです。手前味噌になりますけど、多くの読者から歴史的な非常に価値あるレイアウトだったとの評価をいただきました。
党派を超えたオール沖縄が翁長知事を押し上げ、なおかつ現職で3選を目指した仲井真さんに、午後8時に投票箱が閉まる同時に当確が出て、10万票の大差をつけるという、かつてない圧倒的な民意で翁長さんが勝ったということを、この紙面で示したわけです。
そして、12月14日に衆議院議員選挙があり、今度は沖縄4つの選挙区で先ほど翁長さんを押し上げた「オール沖縄」の勢力が全勝しました。県都那覇の1区では共産党現職の赤嶺さんが勝ち、宜野湾市を抱え普天間飛行場を抱える沖縄2区では社民党の照屋さんが圧倒的な勝利を収め、名護市がある沖縄3区では、生活の党の玉城さんが勝ち、焦点だった4区では仲里利信さんが勝ちました。仲里さんは元沖縄県議会議長を務めた自民党の重鎮です。しかし、保守でありながら平和憲法は守るべきとの姿勢と、反戦平和への思いが非常に強い方です。その背景には、お父さんや弟さんなど、肉親8人を失った悲惨な沖縄戦の体験がありました。
教科書検定の中で、沖縄住民の集団自決、強いられた死に対して、現在新聞紙面では集団強制死という表現に替えていますが、この記述を日本軍の強制性を薄め、さらには日本軍の関与は歴史的に証明されていないとして、記述から削除しようとした動きがでたときに、沖縄県内の全ての市町村で反対決議がなされ、県民運動として反対運動が盛り上がり、2007年に県民大会が開かれた時の代表になったのが、仲里さんでした。2010年、12年の衆院選の際に、自民党県連会長の西銘恒三郎さんという方が辺野古移設反対で当選をした際の後援会長だったのが仲里さんでした。
しかし西銘さんは、2010年衆院選で自民党が大勝し、再び安倍政権が発足して4ヵ月たらずで、普天間施設の移設先は沖縄県内で引き受けるしかないと、選挙で県外移設の公約をかかげて当選したにもかかわらず、あっという間に公約を転換したわけです。
後援会長の自分にも全く相談がなかったということで、仲里さんは絶対に西銘氏を許せないと後援会長を辞め、翁長さんの擁立に加わっていきました。名護市長選挙では、毎日手弁当で自ら選挙カーを用意し、名護市内でずっと立会演説を続け、再選を果たした稲嶺進さんを推した気骨のある、腰の据わった重鎮です。自民党県連は、この重鎮を、自分たちの方針と違う行動を取ったということで除名処分としました。
県知事選挙で翁長さんが勝ち、安倍政権もさすがに痛手に感じたことだと思います。その後すぐに衆議院を解散して総選挙に流れ込んでいきましたが、沖縄からは、その衆院選の一つの側面として、「沖縄県知事選大惨敗隠し解散」に見えました。
後援会長を務めていた西銘さんの選挙区に、翁長陣営は仲里さんを立候補させます。現職の自民党県連会長と元後援会長が相まみえたわけです。選挙戦が始まった段階で10ポイントほど現職の強みを発揮している西銘さんが引き離していました。しかし、選挙戦が進むにつれて、西銘さんは自分の支持基盤を固めきって票が伸び悩んでしまう。一方で広大な農地を持つ認定農業者でもある仲里さんはTPP反対の姿勢も明らかにし、選挙区を歩けば歩くほど急速に支持を広げていきました。
沖縄の言葉で、公約を破ったりした人たちのことを「ゆくさー」と呼びます。ゆくしというのは、嘘という意味です。一方で沖縄では、農家、特に誇りをもって農業に携わっている皆さんのことを「はるさー」と呼びます。沖縄はerがつくと人を表す。それをふまえた仲里さんの演説は、どこに行っても短い挨拶で聴衆をドッと沸かせました。「この選挙はゆくさーよりはるさーを選ぶ選挙です、うそつきよりも本当に地元を熟知した農業従事者である私を、絶対に公約を曲げない私を選んでください」という選挙戦を進めたのです。後半の2度目の世論調査では逆に10ポイント近い差で中里さんがリードし、そのまま6000票の大差をつけて自民党県連会長を破り当選することになりました。
県知事選挙、そしてこの衆議院議員選挙で示された民意は、沖縄では辺野古反対が厳然たる世論として示されています。自民党現職代議士の惨敗や知事選における10万票差での敗北など、これ以上ないという形で示された民意であるにもかかわらず、安倍政権は年が明けて、辺野古における海上工事を再開したわけです。
それに対して、辺野古の浜やその周辺で数ヶ月おきに移設反対県民集会が開かれています。その集会の様子ですが、昨年9月には辺野古の浜に5500人の人たちが結集しました。私もこれまで見たことがない結集でした。これはなかなか本土に伝わらない部分ですが、こういう辺野古のキャンプ・シュワブゲート前の抗議行動や集会に、今まで全く姿を現してこなかった人たちが増えている。大学生のサークルや中学校同期生というのぼりをつくって、保守も革新もいるような人たちが手弁当で結集している状況です。
お年寄りで、沖縄のために戦わないといけないといって毎日バスを乗り継いでくる人もいます。また、沖縄には「模合」といって、月に1回、友人知人の仲良いメンバーで集まって交流を深めるならわしがあります。頼母子講に近い「模合」は同級生とか草野球仲間とかで作ることが多いので、保守もいれば革新もいる、共産党支持者もいれば自民党支持者もいる、そういうグループです。しかし、その多様なメンバーの集まりである「模合」のメンバーが辺野古の現場、新基地建設の現場に押し寄せている。先ほどから見てきたとおり、世論調査では常に7割、多い時には9割以上の人たちが辺野古移設に反対していますが、直接自分で体を張って現場で声を上げる人たちが増えている現状は、これまでには無かった現象です。10数年取材を続けている私たちからしても、今までこういう場に足を運びそうにない人たちの姿が確実に増えています。そのことは、沖縄における基地問題が戦後70年間、積もり積もってきた問題であり、沖縄戦と新基地問題が地続きであることを浮き彫りにしています。
2011年には、辺野古に基地を作る手続きについて、オフレコの記者懇談会の場で、どうしていつ作業を開始するという事が明らかにできないのかという質問に答えた沖縄防衛局長が、「犯す前に『これから犯しますよ』といいますか」という暴言を吐きました。辺野古の移設作業を性的暴行になぞらえた、歴史的な暴言でした。これはオフレコの懇談会での発言でしたが、見過ごすことのできない発言であるとして琉球新報が1面トップで報道したところ、田中聡防衛局長は半日で更迭となりました。
私は政治部長としてこの発言を報じる判断をしたわけですが、この発言をオフレコだからということでメディア側のデスクや記者だけが共有するということでは、県民から基地問題での政府の動きをしっかり監視するよう負託されている新聞社として許されるものではないとの思いから掲載に踏み切ったわけです。
その結果として、琉球新報が出入り禁止になっても、他の新聞社が追随せず一社だけ孤立したとしても、とにかく徹底してこの発言を追及しようという決意でオフレコ発言を一面で取り上げました。大手メディアの産経新聞や日本経済新聞からはコラムなどで批判が寄せられましたが、翌日には県民から「そのような暴言を許してはならない」といった100件近くの激励の電話をいただきました。
この防衛局長の暴言問題だけではなく、2011年に続発した日米両政府の官僚による沖縄県民に対する蔑視発言の数々は、沖縄はいつまでも米軍基地の大半を抱え続ける宿命の地であると見なす厳然たる差別が息づいている現実をあらめて浮き彫りにしたといえます。そのような事態が続いていく中で、2012年のオスプレイ強行配備が続き、沖縄の民意はどこまでないがしろにされ続ければよいのかという激しい憤りが宿り、現在の沖縄の民意を支えていると思われます。
日本の民主主義の成熟度を問う沖縄
そして、翁長知事誕生後には、安倍首相、そして大番頭の菅官房長官が、翁長知事との面談を拒み続けました。その間に、1月からは辺野古における海上工事が強行され、許可区域外で10~45トンに上る巨大ブロックが海中に沈められ、サンゴが押しつぶされるといった事態が何度も確認されてきました。そのような暴力的な環境破壊、そして民意を無視した力ずくの工事強行、そのような姿勢を象徴する言葉が、菅官房長官が好んで使用していた「粛々と」という言葉、もしくは「法的にまったく問題がない」との言葉であるといえます。「粛々と」や「全く」という言葉には、問答無用に、どれだけ沖縄が抵抗したとしても必ず沖縄を組み付してやるといった、安倍政権の意志というものが現れていました。
その中で起こった出来事が、海上保安庁の度を越した人権侵害というしかない警備でした。琉球新報の若いカメラマンのスクープですが、海上保安官が映画監督である女性に馬乗りになってカメラを奪おうとしている。全く女性の安全確保とは関係のないところで、表現の自由を全うしようとした報道を抑え込む、こういう警備が何度も何度も繰り返されています。10年前の海上保安庁は、海上基地を作る手続きに入ろうとする沖縄防衛局と住民の対立の間に入ってソフトな警備を貫いていました。それが現在では、安倍政権の強い指示によって大変な人権侵害を帯びた警備が露わになっています。
このような形で、知事選、衆院選で示された沖縄の民意を無視し、沖縄知事には会わない、冷遇するという対応を繰り返しています。さらに、予算を減らして圧力をかければ元々保守だった翁長知事が屈して政府に妥協するだろうと、こういう見立てで沖縄県知事に圧力をかけるという局面が続いて来ました。
その結果、沖縄に限らず世論の反発が高まってきたわけです。海上警備の実態などが連日報道され、安倍政権支持の色濃い読売新聞の世論調査においてさえ、辺野古を推し進める政府の方針に対する賛否が完全に拮抗している。安倍政権に対する支持が広がらない、こういう状態が続いた結果、安倍首相はようやく翁長知事との会談を、まずは菅官房長官が先陣を切る形で実施しました。おそらく本土の方は何だろうと思われるかもしれませんが、翁長知事は菅官房長官の姿が「キャラウェイと重なる」という発言をされました。
沖縄の米軍統治下時代に、沖縄の住人が自治拡大を要求し、その延長線上に日本への復帰運動があったのですが、そのような住民の自治拡大要求運動について、高等弁務官であったキャラウェイ氏は「沖縄の自治は神話である」と言い放った、沖縄戦後史における悪名高い高等弁務官として名を刻まれている人物です。沖縄がいかに抵抗しても粛々と問題なく工事を進めるという事を言い張ってきた菅官房長官に対して、翁長知事は「粛々と」との発言を平然と繰り返す姿がキャラウェイと重なると、乾坤一擲の批判を繰り出したわけです。
沖縄の新聞としては、本来「新基地拒否を伝達」などとオーソドックスな見出しを取るべきだったのかもしれません。読者からもキャラウェイという人物が若い人たちに伝わるのかと言う批判も頂きました。しかし、やはりこの日の紙面ではキャラウェイを主見出しに取るべきだと判断しました。政府の主張に対して一つ一つ丁寧に反論して覆していく、沖縄の戦後史を凝縮したような翁長知事の発言は、歴史的な発言であったといえます。
そのような菅・翁長会談が大きく報道され、沖縄まで出向いた官房長官が頭を下げる、その姿が報道されれば安倍政権がポイントを稼いで沖縄の翁長知事は劣勢に立たされるだろうというのが在京大手メディアの見立ての大半でした。しかし、まったく予測に反する現象が起きたわけです。そこで示された翁長知事からの強い批判、沖縄は一度も基地を提供したことが無いにもかかわらず基地を押し付けておきながら、危険除去のため沖縄は新たな負担をしろ、それが嫌なら代案を出せというのは日本の政治の堕落であるとの批判は強いインパクトを与えました。
その発言が報道され、毎日新聞、朝日新聞、テレビ東京の調査では、いずれも安倍政権に対する批判が50%程度、賛成は35%程度で、10%以上の差で安倍政権のやり方はおかしい、辺野古移設に反対という調査結果が出てきています。そのような世論調査の結果を受けて、日米首脳会談に先がけて翁長知事と会わなければならないということで、安倍・翁長会談が設定されたのだと思います。その席上、安倍首相は辺野古移転が唯一の解決策であるということを説明し続けましたが、翁長知事は菅官房長官との会談からさらに一歩踏み込み、新基地を絶対造らせないという、自らを主語とすることによって、これ以上ない強い決意を伝えました。
本土にある「他人事の論理」を超えて
選挙の結果、沖縄で起きている人権侵害を帯びた暴力的な海上工事、それに対する沖縄のリーダーからの厳しい発言など沖縄の現状を直視していただくとき、私はこれ以上、抗う沖縄に、嫌がる沖縄に、新しい基地を押し付けるということは不可能ではないかと思います。約20年間の米軍基地取材を通じて、今ほど政権のやり方に対する反発が幅広い層、保守も含めて、自民党支持者を含めて、渦巻いている時期は無かったように思います。
そのような民意を無視する政治を続ける一方で、アメリカとの約束を果たすために沖縄をねじ伏せ新しい基地を差し出す、質草のように差し出す、そのような政治を続ける日本は果たして民主主義国家なのかと疑念を持たざるを得ません。
その点では日米首脳会談の内容も含め、沖縄を日本の外に振り回す遠心力ばかりが働き、沖縄は日本から出て行けと言われているように思えてなりません。私の周囲でもそのように感じる人が少なくありません。しかし今すぐ沖縄独立ということではなく、私は日本の民主主義の中において、この沖縄の民意が正当に理解され、辺野古の新基地建設を断念した上で、次の解決策を日米両政府が相談する必要があると考えます。もし日本政府が辺野古計画は諦めて次のステップに踏み出しましょうと提案した場合、中国との関係も大事にしたいアメリカは一定の理解を示してくると思います。その意味では、辺野古を断念することが、従来の従属的な日米関係をいったん断ち切り、日本が主体性を持って基地、安全保障環境の再構築に踏み出していくための転換点となるのではないでしょうか。
尖閣諸島をめぐる日中対立が存在する中で大丈夫なのかという批判はありますが、逆に尖閣問題があるからこそ、次のステップに踏み出すチャンスがあると考えます。これは、沖縄問題に携わっているアメリカの研究者や専門家の間では広く理解されつつある考え方です。あとは日本政府がどのように決断するかということだと思います。
その意味では、今日お集まりいただいた沖縄に思いを寄せる、もしくは沖縄に関心をもっておられる皆さんが、ご自身の同僚やご家族に、沖縄が相当変化してきている状況を伝えていただき、これだけ強い地殻変動の起きている沖縄の民意を組み伏せることは、日本国全体として、本土に住んでいる国民として許してはならないとの意識を共有していただきたいと思います。
沖縄の負担について見て見ぬふりをする、そのような本土の論理を「他人事の論理」と批判することがありますが、そのような論理、姿勢を脱構築していく時期が本当に今この時点で到来していると考えています。大変厳しい剣ヶ峰に立たされている沖縄の現状ですが、正当な声をあげていくことを支えて頂き、沖縄の民意が反映される新たな日米関係の構築にむけて共に歩んでいきたいと考えております。本日はどうもありがとうございました。
註――本稿は世界人権宣言大阪連絡会議第32回総会(4月24日開催)で記念講演されたものに筆者が一部付加修正。同会議のご好意で本号に収録(文責・本誌編集部)
まつもと・つよし
1965年那覇市生まれ。89年琉球新報社に入社し、社会部警察・司法担当、政経部基地担当、経済部副部長などを経て政治部長兼論説委員。13年4月から編集局次長兼報道本部長。2004年の日米地位協定改定キャンペーン「不平等の源流」取材班サブキャップで日本ジャーナリスト会議大賞・石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受ける。共著に『内心、「日本は戦争をしたらいい」と思っているあなたへ』(角川書店)、『<沖縄>基地問題を知る辞典』(吉川弘文堂)など。
特集・戦後70年が問うもの Ⅱ
- アジア地域統合と日本の生きる道国際アジア共同体学会会長/進藤 榮一
- 分散ネットワーク型の経済・社会へ慶應大学教授/金子 勝
- 近日発信・戦後70年─安倍政権と対抗勢力としての民主党の再生のために日本女子大学教授・本誌代表編集委員/住沢 博紀
- 核廃絶へ、決め手は「核タブー」ジャーナリスト/金子 敦郎
- 沖縄から見た戦後70年を語る 琉球新報編集局次長兼報道本部長 /松元 剛
- 東アジアの新しい秩序と二つの道 神奈川大学外国語学部准教授 /後多田 敦
- 戦後補償法ー「人権の感覚」に基づく解決を弁護士/今村 嗣夫
- 今なぜマルクスなのか神奈川大学教授/的場 昭弘
- もはや資本主義経済の自律性は機能しない経済アナリスト/柏木 勉
- 〔連載〕君は日本を知っているか⑤ 神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長/橘川 俊忠