コラム/関西発
「橋下劇場」と大阪の政治風土
中江兆民、宮武外骨、そして橋下流政治を考える
ジャーナリスト 池田 知隆
翻弄された「民意」
誰よりも「民意」をうたった君は、誰よりも「民意」を軽蔑した君だ―。2015年5月17日夜、大阪都構想の住民投票後の橋下徹大阪市長の会見。反対多数による否決確定の結果を受け、「最高の政治家人生でした」と笑顔で政界から引退を表明する姿を見て、そんな言葉が浮かんできた。
よく知られている「誰よりも民衆を愛した君は誰よりも民衆を軽蔑した君だ」(『或阿呆の一生』33「英雄」の項)という芥川龍之介の警句をただもじっただけだ。困窮する民衆への愛から革命を起こしたとはいえ、民衆をどこまでも啓蒙し、指導するべき対象とみなした革命家、レーニンの根底に民衆への軽蔑があると芥川は見た。
選挙のたびに「民意」を振りかざした橋下氏には、自らが得ていたという「ふわっとした民意」への愛や敬意は感じられない。それは単なる操作の対象にすぎなかった。愚弄してきたともいえる。長時間にわたるその会見で、住民投票での敗因、分析などには触れず、自分なりの達成感、満足感ばかりを強調していたからだ。
2008年1月、大阪府知事に初当選して以来、7年半に及んだ政治活動。この間、行政組織の腐敗、硬直さをあぶり出し、鋭い問題提起を重ねてきたのは確かだ。しかし、大阪経済の沈滞は止まらず、落ち込んでいった。文化、教育行政への管理強化が進められ、教育現場では息苦しさがまん延した。これという目にみえるような大きな業績がなく、何回もの選挙を通して「改革」を叫び、何かをやってくれそうだという市民の期待感ばかりを煽り続け、大阪に漂う閉塞感はより深まった。
「舞台装置」としての大阪
大阪は、政治家たちによって「民意」を煽られやすい政治風土なのだろうか。都市部は浮動票が多く、知名度の高いタレント候補に票が集まりやすい。特に大阪はその傾向が強いとされてきた。1983年に漫才師、横山ノックが全国区から大阪府選挙区に転進して当選し、その後府知事になった。1986年に漫才師、西川きよしが参院選で初当選し、3期18年務めた。大阪はタレント政治家の一大産地とみなされ、「お笑い百万票」が存在するとも揶揄された。
「お奉行の名さえおぼえずとし暮れぬ」(小西来山)という句がある。江戸の昔から、大阪の町は、幕府の権威にこびない町民たちによって切り盛りされてきた。各地から多様な人々が流入し、だれでも気さくに受け入れる寛容な土地柄でもあった。「高見の政治」よりも「目先の実利」や人々の情愛をなによりも大切にした。いつしか「政治」を軽視したツケがたまり、大阪という都市は崩壊してきたのだろうか。
そして8年前、橋下氏が大阪の政治の舞台に登場した。参議院廃止、首相公選制・・など大胆な発言を繰り広げ、政治への自らの野望をストレートに露わにした。テレビやツイッターなどを使って多彩なメディア戦略を駆使した。スピード感に満ちた「改革」を旗印に掲げ、「民意」による「独裁」を叫んだ。政治的な思想も、経歴もなく、いわばノンポリ的な価値観で、次々と立ちはだかる難題に反射的に発言し、その強烈な言葉は大阪の人々に大いに受けた。「やんちゃな男だけど、おもろいやんか」と。いつしか「橋下現象」といわれるまでの過熱したブームが巻き起こり、橋下氏はモンスターのようになった。
その強引さを感じさせる権力的姿勢。周りの官僚たちばかりか新聞、テレビなどのマスコミもとりこまれていくかに見えた。大阪の政治風土とジャーナリズムはいったいどうなっているのか。その歴史を振り返ってみたとき、ひときわ目を引いたのが、中江兆民(1847-1901)と宮武外骨(1867-1955)だった。時代は異なるが、「東洋のルソー」とよばれ自由民権運動を担った兆民は貴族院を廃止して一院制にすべきだというのが持論だし、反骨のジャーナリスト、外骨の時事批評は大阪の人々の喝采を浴びた。さらに二人とも大阪から選挙に出馬し、その政治観や選挙のやり方が実におもしろかった。いささか唐突だが、兆民と外骨と比較しながら橋下政治を見つめてみたい 。
大阪で人生の姿勢を変えた兆民
まず兆民は大阪の衆議院当選者の第1号である。1890(明治23)年の第1回の衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬して圧倒的な大差で当選を果たした。国内最大の注目を集めた最初の衆議院議員でもあった。
兆民が大阪にきたのは1888(明治21)年1月の初め。前年の暮れに、国会開設や帝国憲法制定を前に自由民権運動の高まりを恐れた政府が突然、保安条例を発布し、兆民は土佐派の民権活動家たちとともに東京から追放されたのだ。母と妻子を連れて大阪に流れつき、大阪で創刊された「東雲(しののめ)新聞」の主筆になった。
兆民は自由民権運動の理論的指導者であっても政治活動家ではない。日本開明期に岩倉訪欧使節団に加わり、パリ・コミューン崩壊直後のフランスに留学。帰国後、東京外国語学校校長、元老院書記などを務めたが、官職になじめなかった。フランスで知り合った西園寺公望を社長にして「東洋自由新聞」を発刊(じきに廃刊)し、ジャーナリストになる。ルソーの『社会契約論(民約論)』を翻訳し、日本の政治状況をわかりやすく語った『三酔人経論問答』を刊行し、本人は学者という意識のほうが強かった。
「(ちまたの民権論の活動家たちと)『一山四文の連中』とひとくくりにされ、亜細亜豪傑の仲間入りにさせられてしまった」。東京追放時、兆民はそう嘆いていたが、大阪での活躍は目覚ましかった。2年足らずの間に、200数十本もの多彩な論説を発表。生活は困窮していても、大阪時代はその生涯において最も活き活きとした時期だったという。
「東雲新聞」の部数は伸び、当時、日本最多の発行部数を誇った大阪の「朝日新聞」に急追した。兆民は髪を伸ばし、頭に深紅の土耳其(トルコ)帽をかぶり、東雲新聞の印半纏を着てあちこちに出入りした。もともと奇行の多い人だが、大阪では実に楽しげにパフォーマンスを演じている。「オッペケペー」節で知られる壮士芝居も支援し、被差別部落の人々とも交流を深めた。「貴族」との差別撤廃を叫ぶ「平民」主義者たちの差別意識を、被差別部落という最底辺視点から鋭く告発し、先駆的な論文「新民世界」も書いている。
議員をあっさりと辞職
1889(明治22)年2月11日、大日本帝国(明治)憲法と衆議院議員選挙法が発布される。同時に大赦令が公布され、追放解除となった。兆民はその憲法公布に冷ややかだった。「恩賜の民権」(上から民衆に与えられたもの)から「恢復の民権」(下から民衆が勝ち取っていくもの)へと高めていくべきだと考えていたからだ。
翌1890(明治23)年7月の第1回衆議院議員選挙。兆民は本籍地を土佐から大阪西成郡曽根崎村に移し、大阪4区より立候補した。選挙権資格者は、直接国税15円以上を納付し、25歳以上。国民のわずか1.13%にすぎなかった。選挙活動に金を使わず、すべて他人任せ。それでも投票権のない被差別部落の人たちが熱心に支援し、兆民は1352票でトップ当選を果たした。(ちなみに当時、朝日新聞の創立者、村山龍平も立候補したが、128票しか獲得できずに落選。だが、村山は兆民辞職後の選挙で当選した。)
しかしながら、翌1891(明治24)年2月の第1回議会で兆民はあっさりと議員を辞職した。議会活動を通して政府の方針にチェックしていくのを自らの役割としていたが、身近な土佐派の民権議員が政府と妥協を重ね、その裏切りに兆民は激怒したのだ。議会を「無血虫の陳列場」と断じ、「アルコール中毒で裁決の数に列しがたい」と人を食ったような辞職願を提出。議会内で議論伯仲する中、1票差で兆民の辞職が認められた。
政治と文楽を同列に
わずか半年あまりの議員生活。いささか無責任な議員辞職と言えなくもない。国民のごく一部の富裕層の「民意」を振りかざすことにどこか尊大さを感じ、恥じていたのかもしれない。自由、平等を求め、その果てに独裁、粛清、虐殺と凄惨な歴史をたどったフランス革命に重ねながら明治維新後の社会を見つめてきた兆民。現実の議会政治のお粗末さに対する彼の絶望感はあまりにも深かったようである。
その後、兆民は政治の表舞台から去り、自ら実業家としてさまざまな仕事に名を連ねるが、ことごとく失敗していく。
そして1901(明治34)年4月、事業活動のために来ていた大阪で体の異常を訴え、喉頭がんで余命1年半と宣言された。病床で、政治批判や古今の人物の評価をつづり、『一年有半』を刊行。さらに無神無霊魂の哲学書『続一年有半』を著し、結果的に1年を待たずに同年12月13日、東京・小石川の自宅にて54歳で死去した。
遺書というべき『一年有半』で「余近代において非凡人を精選して、三十一人を得た」とあるが、その人選が実に興味深い。政治家の中に、勝海舟や西郷隆盛の名はあっても、伊藤博文や山県有朋の名はない。「日本人は利害にさといが、理義にくらい。流れに従うことを好んで、考えることを好まない」と「日本に哲学なし」と断じている。
その一方、芸人の名がやたら出てくる。がんを患いながら大阪で文楽などに通った兆民は、越路太夫の義太夫や桐竹紋十郎の人形を絶賛した。「傑出した芸人と時代を同じくできたのは真の幸い」として「不遇を嘆じることはできない」と自らの人生を締めくくっている。文楽に冷たかった橋下氏とは異なり、兆民は文楽や伝統芸能をとことん愛した「粋人」でもあった。常に求めては裏切られていく政治の世界を超え、芸に生きる人々の情愛を讃えていた。
選挙をパロディ化した外骨
中江兆民が亡くなったその年、宮武外骨が『滑稽新聞』を大阪で創刊している。外骨は帝国憲法発布時、「大日本頓知(とんち)研法」を掲げて不敬罪に問われ、禁錮3年の実刑判決(3年8カ月服役)を受けた。以後、官僚を宿敵とみなし、東京を離れ、大阪に流れついた。活発な権力批判を行い、筆禍で入獄4回、罰金15回、発禁14回をくらった。
その『滑稽新聞』のモットーは「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり」。時事問題を鋭く批評し、下世話な世相の話題もとりあげた。月2回発行の雑誌で、最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。そして1915(大正4)年の第12回衆議院議員総選挙に大阪から立候補。前代未聞の「選挙違反告発候補者」を名乗ってのことだ。
「われは天の使命として、選挙界を騒がさんがために起つものなり。故に勝敗はもと眼中になし」。金をばらまく政治家とそれを頼る金持ちを罵倒し、富裕層による政治の私物化を糾弾、告発してまわる外骨に聴衆は大喜びだった。しかし、その聴衆の多くに選挙権はなく、結果は259票と予定通り落選した。それでも自分の1票は「金銭や情実による100票」に値するのだから「全国の最高点者」と外骨はうそぶき、意気軒昂だった。
罵倒されても喜ぶ選挙民
東京に「夜逃げならぬ昼逃げ」した翌年の1917(大正6)年の第13回衆議院議員総選挙にも再び選挙違反告発を目的として立候補した。外骨の雑誌『スコブル』をちゃっかり値上げし、投票日前から「落選報告演説会」の予告記事を掲載。選挙をとことんおもしろがりながら、表面では理想を説き、陰では自分の私利私欲に走る政治家の偽善を鋭く風刺した。
そのころはどこの選挙区で運動することも可能で、外骨は東京市、大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。その「落選報告演説会」はまた、政治や選挙の腐敗を見逃している選挙民を「愚民」とののしる会でもあり、約600人の聴衆が集まった。入口に「入場料金三銭、貧民無料、新聞記者は貧民同様無料」と貼り紙を出したところ、新聞記者の中には「貧民同様」の文句に怒ってか、三銭投げ出して入場した、と外骨は笑った。
兆民、外骨のいずれも奇矯な言動で知られるが、単なる反権力や反体制の言論人とは異なり、ユニークなアイデアとユーモアがある。政治家をバカにしているのか、有権者がバカにされているのか。この二人のような愛嬌や洒落っ気を感じる魅力的な人物を受け入れてきた大阪人の生活感覚やその風土はやはりおもしろい。
ユーモアのない橋下流の罵倒芸
そんな兆民や外骨と橋下市長を並べて語るのは、そもそも無理な話かもしれない。有権者が全体の1~2%と富裕層に限られていたときと、普通選挙が行われている今日とではあまりにも社会の様相を異にしている。しかし、いずれも時代を超え、大阪という土壌によって育てられ、輝きを増した人物と言えないだろうか。
橋下氏はカリスマ性を帯びた「タレント政治家」としての強烈な個性を発揮し、騒々しい「劇場型選挙」の空間を繰り広げた。維新という政治集団を立ち上げ、公明党を抱き込み、揺さぶり、さらには民主党内に手を突っ込むなどあらゆる政治手法を駆使した。選挙時のみならず、政策をめぐる一連の政治過程をそっくり「劇場」に仕立てあげる手腕は実に巧みだった。敵味方をはっきりさせ、相手を徹底的に罵倒する戦略を駆使していたが、そこには兆民のような深い政治思想や歴史的な射程もなく、外骨のような愛嬌やユーモアも見られなかった。
そして橋下氏は、歴史的伝統を持つ大阪市を5つの特別区に解体する「大阪都」構想をめぐって住民投票を実施した。投票率は66.83%と市民の高い関心を集め、結果的には0.77ポイントの小差で反対票が上回った。橋下構想は実現しなかったが、橋下氏は「日本の民主主義を相当レベルアップした。大阪市民の皆さんが、おそらく全国一、政治や行政に精通している」と大阪市民を持ち上げ、民主主義を高めたことを自らの業績に加えた。「大阪都」の夢を煽り、その夢は幻となって消えた。
「タレント型選挙」は終焉するか?
その後、大阪には「お祭り騒ぎ」のあとの空虚さが漂っていた。「大阪都」構想という虚妄のような未来に賭けた市民の中には、シャボン玉のような淡い夢が消え、その喪失感からぬけられない人もいた。新たに都市再生の方策をどこに探していけばいいのか。そんな戸惑いを抱いている市民も依然として少なくない。
今回の住民投票によって大阪の市民はどのような教訓を得たのだろうか。
まずは、従来の選挙に比べて市民にとって「考える投票」を迫られ、得難い体験をしたのは確かだ。住んでいる地域の将来をめぐって、何を基準に、どのような選択をするのか、じっくりと考えて行動することが求められた。身近な生活のありようを変える投票は、安易におもしろがってばかりではすまされない。
少子高齢化や財政難に加えて、格差や貧困の問題が深刻化していく大阪。その自治体運営の舵取りは極めて困難だ。知名度があるとはいえ「タレント」が片手間でやれるようなことでは決してない。そのような政治に関する意識は市民の間に深く浸透したのではないか。
今年11月に大阪府知事、大阪市長選がダブルで実施される。ひょっとしたら、これを機に「タレント型選挙=劇場選挙」終焉の兆しが見られるかもしれない。「政治」に踊らされず、「政治」を冷静に見つめ、「政治」に市民として主体的に参加するために何ができるのだろうか。そう考える市民が少なからず増えている。
橋下氏自身、先の引退会見でこう言ってのけた。
「僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険です。敵がいない政治家がやらなきゃいけない。敵を作る政治家は本当にワンポイントリリーフ」と自らの政治家像を語りながら、「でも僕みたいなスタイルで8年やらせてもらった。大阪もどうなのかなあ」と大阪的土壌を皮肉った。自ら首長を演じながら、そんな自分を演じさせている大阪もおかしいのではないか、と笑っているのである。
「第二の橋下徹」はいらない?
橋下氏自身に「(僕みたいな政治家に長くやらせてきた)大阪もどうなのかなあ」と言われる大阪の政治風土。彼に言われるまでもなく、これからの私たちにできるのは、「第二の橋下徹」を探すことではなさそうだ。大阪の政治的土壌をきちんと見つめ直し、どのような人間性豊かなコミュニティーが可能で、どう形成していくのか。情愛にみちた地域のつながりを再生していけるのか。経済格差が拡大し、貧困化が進む大阪で、カリスマ的なヒーローの出現に期待し、課題解決を委ねるのではなく、市民自らの主権者意識をどう高めていけばいいのだろうか。
大阪には、東京の中央権力とは距離を置いてきた「民権」感覚があり、兆民を魅了させた伝統芸能の世界がまだ残っている。社会を鋭く告発する一方で自らも笑いとばす外骨のようなユーモア精神をなによりも大切にしてきた土地柄でもある。それに加えてこれからは橋下流の決断力、パワーの功罪に学んだ経験を生かしたいものである。
「タレント=劇場型」選挙の本拠地とされる大阪で、「橋下流政治」を学んだ市民たちが今後、どのような政治行動を選択していくのか。大阪の政治風土から「情愛」と「ユーモア」と「パワー」を汲みだしていけば、新たな政治的潮流が生まれるかもしれない。そして大阪が変われば、日本も変わりだす。そんなささやかな希望を抱いている。
いけだ・ともたか
一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著書に『ほんの昨日のこと─余録抄 2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。
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