論壇

組織の持続可能性から考える賃金

賃金をめぐる経済・社会構造の分析から

法政大学大原社会問題研究所兼任研究員 金子 良事

はじめに

アベノミクスの一環として賃金交渉が復活してから、にわかに春闘が注目を集めるようになり、同時に賃金についても歴史的に考えようという風潮が出て来た。私も『日本の賃金を歴史から考える』を2013年秋に出版したこともあり、歴史を考えたいという声を多く聞くようになった。その声を総合すると、現在、直面している問題を考えるだけでは行き詰まりを見せるので、歴史的にそうした問題を位置づける必要があるということがその趣旨のようだ。しかし、歴史的に物事を見る際にも、昔から現在までの出来事を並べるだけでは不十分であり、重要なことは時間軸を使うか否かを超えて、ある程度の抽象化、あるいは理念型化を行うことなのである。必要なのは理論化である。

賃金の理論を考える際に、いったん規範的意識を排除する必要がある。すなわち、ジェンダー平等や生活保障などの社会権(ないし生存権)の実現といった観点からの政策提言ではなく、賃金をめぐる経済・社会の構造を分析することから我々はスタートしなければならない。

市場と賃金

経済学の中では1970年代からドリンジャー・ピオレが提唱した内部労働市場という考え方が注目を集めるようになった。内部労働市場論は旧・制度学派のダンロップやカーによる調査成果(企業内昇進)を継承していただけでなく、1960年代に注目と批判を集めたベッカーの人的資本論を融合したことで、折からの新古典派と制度を結びつけた新制度学派の中に定着して行くようになった。新制度学派や組織の経済学の問題関心の一つは、市場と(企業)組織が機能等価なものであれば、なぜ人々は長期間同じ組織で働き続けるのかということであった。具体例をあげると、取引費用という概念は財・サービスの価格に加えて人々は取引に関わる費用を負担せざるを得ないというアイディアがある。言い換えれば、労働力とその価格(賃金)の取引の他にたとえば(労働者が一生懸命働くかどうか等)情報取得の費用が掛かると考える。内部労働市場論が人的資本論と結びついていたということは当初、労働契約における交換関係はスキル(熟練ないし技能)との交換を前提としていたことを意味する。しかし、情報費用の議論は技能を前提とする必要を解消した。

この組織の原理を中核とした内部労働市場論は、需要と供給で価格が決まる外部労働市場との概念的な区別を可能にした。ここで我々が確認しておきたいのは、需要と供給で価格が決まるという市場における原則は、それを効率的であるとか公正であるとか主張しようと否と(あるいはその逆でもよい)、いずれにしても厳然と存在しているのである。多くの人が批判している市場主義は、モダニティの中の効率主義なのである。もちろん、それが19世紀以降の資本主義を牽引してきた製造業における工場管理ないし生産管理のなかで育まれてきたと言うことは出来る。しかし、福祉国家批判以降の我々が直面している問題は、市場原理主義ではなく、ORを母体にした政策科学が矮小化され歪められたものによって引き起こされているのである。

賃金水準と市場のセグメンテーション

内部労働市場論は組織の原理を軸に考え得るものだが、実際には内部労働市場の原理そのもの自体は賃金を高めている。たとえば、戦前の紡績工場の賃金は外部労働市場で決まっていたので、マザープラントであっても山間にある場合には、都市圏の工場よりも1、2割賃金が低いことがあった。都市圏の工場からマザープラントに転勤すると賃金が下がるのである。企業内の賃金が全社的に統一された内部労働市場を形成している場合、賃金はおそらく高い方の水準で維持されるのである。

問題は外部労働市場をどのような形で区切って、疑似的に組織化するのかという点にかかっている。たとえば、日本で最初に導入された最低賃金は業者間協定方式であったが、これはまさに業者によって賃金の最低水準を決めるということだった。同じように、産業別最低賃金や企業別最低賃金という考え方は成立し得る。これらは何れも賃金決定を需要と供給の論理から切り離すという効果において組織化されているのである。この場合の組織化はもちろん、労働組合員化を意味しているわけではない。

地理的な労働市場

現在の最低賃金は都道府県別に地方賃金委員会によって決められている。一番の問題は行政区(都道府県)と経済圏が重なり合うのか否かである。具体的に言えば、神奈川県、静岡県、山梨県はそれぞれ887円、765円、721円だが、足柄上群と小山町、山中湖村でこの賃金格差の根拠を説得的に説明できるだろうか。現行の最低賃金方式は他にも、事実上最低賃金が最高賃金になっているなどの批判を受けることもあり限界もある。

伝統的な農村社会学に自然村と行政村という区分がある。自然村は農村の自律性に注目し、地方三新法(都区町村編成法、府県会規則、地方税規則)から明治22年の町村合併によって作られた行政村を参照枠にしたものである。行政区分はその後も改革されているが、どの国のどの時代を採っても多くの場合、経済圏ないし生産活動圏(この場合、農村を想定している)と国家による行政の線引きが必ずしも一致するとは限らない。そういう意味において、最低賃金は経済圏において営まれる需要と供給のバランスのなかに権力によって介入する制度である。こうした地理的区分は、経済圏という観点から考えても、生活圏という観点から考えても、必ずしも適切であるとは限らない。しかし、大雑把に言ってしまえば、経済圏は時間の経過とともに変化する可能性があるので、行政は所与の条件として考えてよい。何れにせよ、これは言いかえれば、国家(ないし行政)という組織の論理といえるのである。最低賃金は限界もあるが、これに代わるよい方法も見当たらないので、セカンド・ベストとしてしばらく持続して行けばよいだろう。

組織別に賃金の意味を考える(1):企業

今、単純にCSRなどの議論を捨象して企業を生産主体としてのみ捉える。生産主体としての企業は生産効率を志向すると考えてよいだろう。その場合、賃金を含めた人事・労務管理制度はこれをサポートするものである必要がある。企業の賃金制度のトレンドを批判する方法は、経営学や心理学(組織行動論)などによって、そのトレンドが効率性追求に適っていないことを明らかにするという方向だろう。

ここ20年くらいの間、賃金制度で問題があった点は、成果主義の旗の下にあたかも賃金制度によってすべてが解決できるかのように語られ、改革が成功したとは言えないことにあった。賃金と成果ないし仕事(労働)を比較的単純に結びつける職務給化の流れはある程度収束し、現在は役割給へと移行してきている。役割給というのは、仕事内容と賃金を結びつけるという意味で、かつて1960年代から導入しようとしたときの職能資格給の発想に近い。ただし、周知のとおり、職能資格給は導入時の理念を裏切られ、しばしば慣習的な年功的運用がされることが多かったとよく言われる。

そもそも職能資格給制度を入れるときもかつての資格制度が利用された。これは軍隊で言えば階級制度であり、要するに、組織の階層を階級(資格)と役職(ポストないし仕事)の二系統を設定するということに他ならない(職能資格の他に主事などの別系統の資格がある場合、実際には三系統になる)。役割給は理念的に言えば役職(ポストないし仕事)と賃金を接近させるという意味がある。ただし、企業によっては運用でこの二(三)系統の距離は異なっており、役職と資格が混同されている状況を現在の課題としている企業もあるくらいである。

役割給を大企業が入れなければならない理由は数多くあるが、海外の相場との比較をする必要に迫られているという側面を無視し得ない(他には、90年代後半からのトレンドであった職務給(仕事給)化の揺り戻しという側面もあるだろう)。国内がメインのフィールドであったときには、海外は例外的な扱いでよかったが、グローバル企業化するとそういうわけにはいかない。そうなると、その賃金データを持っているコンサルタントの力を借りざるを得ないのである。もっとも、制度そのものを全部、外注して入れるとは限らないので、各企業の賃金制度の問題は企業内組合でチェックして行くしかない(情報開示が期待できるのはそこしかない)。

ただ、一般論として言えるのは、かつての賃金管理論は工場管理、あるいはそこから発達した経営工学を含む生産管理と密接に関係していた。大正時代には現場の技師が職工の賃金制度を考えることもあった。さらに、1960年代くらいまでは経営学自体が生産管理論や労使関係(製造業)を中心に語られて来た。しかし、現在の経営学は戦略論が主になり、オペレーション・レベルの議論が抜けてしまっており、エア・ポケットになっている。製造業はそれでも生産管理を含む生産システム論があるのだが、そうでないところは仕事管理に関する理論がないのである。重要なことは成果管理ではなく、プロセスに関する管理と人事・労務管理を結びつけることである。

なお、1950年代から60年代にかけて人事が拠って立つ理論は、IEを母体にした労務管理論と人間関係学派的な心理学的な議論と二系統あった(この二系統はアメリカから輸入されたものである)。労使関係の衰退にともなって前者が衰退したこともあり、アメリカでは心理学系統の後者が人的資源管理として隆盛した。ただし、心理学の場合、個人のキャリア発達に関心があるため、組織よりも個人の自己決定に重きを置く傾向がある(なお、ここで言う「キャリア」は仕事に限らず、プライベート・ライフを含めた人生全般に関係する)。そうなると、組織として人を育てる観点をどのように織込むのかが難しくなる。

組織別に賃金を考える(2):地域

1) 組織と目的

私は既に(外部)労働市場のセグメント化を意識的に行い、その組織化が必要なことを示唆したが、そのような作業は実際上、二つの点で困難である。そもそも、労働市場の組織化の意義が理解されにくいため、広範な合意を得ることが難しいことが予想される。企業にせよ、NPOにせよ、法人格を有する団体ないしそれに準ずるものは、定款によって明確にその事業目的を定めており、雇用労働を使うにせよ、外注にせよ、その目的を実現させるための手段であると考えてよいだろう。したがって、賃金制度を含む人事・労務管理制度や外注管理もその制約の中で考える必要がある。しかし、このような組織がない場合、制約がない分だけどのような論点を考えるべきなのかは案外、難しい。第二に、労働市場というのは労働供給者である労働者と、労働需要者である事業者(ないし個人)があって初めて成り立つのであって、その構造を無視して、制度の整備だけを目指しても、仏を作って魂入れずということになりかねない。そこでスタート時の一つの基準になるのは地理空間で繋がりのある地域としたい。問題は地域をどう捉え、どのような組織として捉えるのか、ということに尽きる。ここで問題の領域を生活と産業の二つの軸で考えて行こう。

2) 生活と賃金の考え方

社会保障や福祉国家ということと我々の生活が密接に関係していることを否定する人はいないだろう。たとえば、非正規の賃金水準においては、いわゆる103万円の壁が重要な論点になっていることは誰もが知っていることである。地域を単位に考えるとしても、国家との関係を無視することは出来ない。その延長線上に、地方分権や地方自治の問題に接合せざるを得ないだろう。

近年、賃金と社会保障の関係で注目を集めているのはベーシック・インカムの考え方である。私自身は市場経済の贈与経済化および行政における社会保障の取引費用削減というベーシック・インカムが持つ基本的なアイディアは悪くないと考えている。しかし、今のところ、少なくとも日本国内においてベーシック・インカムは一つの思想運動に過ぎないと考えられるので、あまり重視していない。重視していないというのは、今、ベーシック・インカムを主張している人たちには現実を変える力がないと判断しているという意味である。どのような主張にせよ、今、国民的なコンセンサスを作るのは難しいだろう。まず地方から考えざるを得ないと思う。 

生活賃金が最初に提唱されたのは1910年代で、家計調査の成果の一つだった。家計調査は一か月ごとの職工の家計を調査し、それを統計的に分析するというもので、日本では高野岩三郎が教え子の鈴木文治の友愛会の組合員の協力を得て実施した。1920年代に入ると、東京や大阪、名古屋などの大都市で行政の手によって家計調査が行われた。そこにはそれ自体が失業対策の意味があった。本格的に、生活賃金が注目されるのは敗戦後で、労働組合は生活賃金としての最低賃金要求を行った。ここまでで語られて来た生活賃金は、一か月の生活費を賄える賃金という意味である。やがて経済が安定化すると、1950年代には日本的経営として終身雇用(現在は長期雇用といった方がよいだろう)が注目されるようになり、生活もライフ・プランが重要になった。単に食費だけでなく、教育費や折からの持ち家政策と合いまって住宅購入費が重要な費目になり、企業や組合もこれを支持した。

3) セーフティネットとしての農村共同体の消失

高度経済成長を遂げた1960年代、工場労働者が不足したために、懸案だった臨時工問題も多く本工に採用されることで解消されたように見えた。同時に、農村周辺の工場では農家の主婦などを労働力としてあてにしたパート労働が増えて来た。そして、主婦のパート労働はやがて農村から都市へと広がって行った。労働力不足のときに臨時的な対応だったはずの雇用形態がいつのまに重要な位置を占めるようになったのである。

1950年代の経済政策の中で最重要課題は、こうした農村が吸収した潜在的失業をどのように把握・解消し、完全雇用を達成するかということであった。結果的に、この人の移動に日本は成功することになる。大河内一男はかつて日本の労働を理念型化して、出稼ぎ型と規定したことがあった。当時から批判が多く、紡績女工のような一部にしか該当しないのではないかということが言われて来たが、今から振り返ってみると、戦争および敗戦を挟んで、農村が都市のバッファー機能を果たしたことは間違いなく、その限りにおいて理念型化した農村との関係で産業社会を捉えた議論は高度成長以前の世界ではあるリアリティを持っていたと言えよう。高度成長下で兼業農家が増え、農村が変貌することで農村の機能も変わって行ったのである。これを松下圭一は1970年代には既に農村の都市化と捉えており、全体的に都市化がすすむという見通しのもとで、シビル・ミニマム論を唱えた。

農村を理念型化した自然村という概念だが、実際は近世の村もその時代の行政(藩や幕府)によって作られた側面が大きい。かつては半封建性の象徴として批判の対象であり、近年はソーシャル・キャピタルとして評価される農村の共同体という性格は、日本においては村請という集団単位での納税システムによって作られた側面を否定できない。いずれにせよ、セーフティネットとしての農村の性格は、雇用社会化と都市への人口流出によって弱くなっていった。このような現時点から生活保障をどのように考えればよいのかということから考えなければならない。賃金は生活保障という関数の一変数に過ぎない。

4) 雇用による共同体および産業集積の持続可能性

産業革命によって工業化が起こることで、農村共同体が変化するのはもちろん、欧米でこそ先行して始まった。19世紀には工業を中核とした共同体を作ろうという動きが出て来た。ロバート・オーウェンによるイギリス・グラスゴーでのニュー・ラナーク工場およびアメリカ・インディアナ州でのニュー・ハーモニーを構想した。アメリカでの試みは失敗に終わり、オーウェンは空想的社会主義とも言われるが、オーウェンの試みは企業における福利厚生施設の先駆であると同時に、協同組合の祖形とみられ、また、1830年代以降のイギリスから端を発して世界的に労働運動に影響を与えた。

工業化の進展がもたらす負の外部経済性については、オーウェンだけでなく19世紀以来欧米の知識人たちにとって主要な関心事であり、その解決策はインダストリアル・ビレッジ構想や田園都市構想となって、後の都市計画につながって行った。それらは社会改良思想に裏打ちされていた。インダストリアル・ビレッジというのは企業城下町のイメージに近いが、ある大企業を中核にした町の中で生活が完結する。日本では思想的には、倉敷紡績の大原孫三郎がもっとも顕著にその影響を受けており、倉敷では工場規模が大きすぎたために失敗したが、四国では成功した。倉敷紡績のように必ずしも社会改良思想を全面に押し出していないが、炭鉱街は地理的に隔絶しているため、事実上、独立した共同体のようになっていることが少なくなかった。こうした大企業は従業員に賃金を支払うだけでなく、病院などのインフラを構築し、地域社会に貢献して来たし、今なお現役の企業城下町も存在する。たとえば豊田市(トヨタ自動車)、裾野市(矢崎)などがある。

しかし、かつての共同体的な町には、今や産業考古学のなかで産業遺跡として注目されるようになったものもある(注目されずに忘れ去られた場合の方が多い)。それは観光資源になり得るかもしれないが、もはや炭鉱として現役ではない。オーウェンがアメリカで失敗したように経営的に成功しなければ、共同体構想はそもそも成り立ちえない。しかも、長期で見ると、必ず技術革新が起こるため、工場立地に際してその土地を選んだメリットがいつまでも生きるとは限らないし、場合によってはその産業自体が斜陽になってしまうのである。前者の例は岩手県釜石であり、後者の例は各地の炭鉱街があげられる。

とはいえ、最初の産業がダメになったからと言って、その町が直ちに衰退するわけではない。別の産業にシフトして行くことも考えられる。たとえば、八王子市はかつて絹の産地として栄えたが、今では製造・IT産業の産業集積地になっている。企業誘致は地方自治体間、否、場合によっては海外の自治体を含めた競争になっており、どのような産業集積地を作るのかには行政のリーダーシップも重要な要素になっている。しかし、都道府県内の基礎自治体をことごとくこの方法で振興できるわけではない。また、しばしば労働力の安さを売りに企業誘致を図ることがあるが、それでは新興国との価格競争に正面から立ち向かうことになり、厳しい情勢である。いずれにせよ、特定地域における産業や事業を中核とした共同体は、今や行政を含めた競争から自由ではなく、それに勝ち続けなければならないのである。

5) 共同体と地域通貨あるいは労働証券

もう一つ、2000年代前半に注目を集めたのは地域通貨である。地域通貨の思想的、理論的起源はオーウェンの労働証券論にたどり着く。近年、この問題系を整理したのが結城剛志の研究である。その思想的検討はきわめて重要な内容だが、ここでは地域から遠ざかって行くので残念ながら省略する。タイムダラーなどの地域通貨は日本でも愛媛県の旧関前村(今治市に合併)の「だんだん」がある。簡単に言えば、労働の交換である。

図式的に言えば、市場的領域と非市場領域を区分し、大まかに産業や企業による事業は前者、福祉は後者と分類できるだろう(正確ではないが)。ここで触れておきたいのは福祉を軸とした共同体を作り得るのか否かという問題系が存在することである。松下のシビル・ミニマム構想は言うまでもなく、ベヴァリッジのナショナル・ミニマム構想を換骨脱退したものだが、そこでの批判点は生活単位を国家に置くのではなく、限定された都市に置くべきだというものであった(この場合の都市は都会とは限らない)。それをどのような範囲で何を行うのかは、広く言えば「まちづくり」に含まれるのであって、一意的には決められないし、むしろ外から決めるのは望ましくないだろう。

ここで賃金と一見関係ない話を積み重ねてきたのは、生活賃金ということを考えるときに、セーフティネットやこうした社会的インフラがどれだけあるのかということが重要であり、生活賃金はそれらを差し引いて決まってくると考えられるからである。

6) 地域における最低賃金

繰り返しになるが、もう一度確認しておくと、現行の地域別最低賃金は都道府県ごとで継続すべきである。ここではその前提の上で、より戦略的な意味を考えたい。ここまで議論してきたとおり、産業や企業の持続可能性は産業集積としての地域と無関係ではない。そうであれば、そこで考えられる最低賃金は、地域別の業種ないし産業別最低賃金であるが、いわゆる特定最低賃金とは趣旨を違う(もちろん、企業別最低賃金がある場合、高い水準を基準にすればよい)。ここでは最低賃金は、労働時間とセットに構想(ないし交渉)されるべきで、端的に言えば、苦汗産業化を避け、ディーセント・ワークを実現するための基準であって、貧困対策ではなく、産業集積地を持続可能に発展させるためにガバナンスの中核を担う集団的労使関係の問題として考えている。このような地域は当然、各県内で相対的に豊かであるから、ここで言う最低賃金は県レベルの水準を上回るものとして自主的に設定されるものである。したがって、貧困対策は別に考える必要がある。

生活保障の根幹である貧困対策ないし福祉は70年代以降のプライバタイゼーション以降、行政だけが主要な担い手ではなく、NPOや震災以降はソーシャル・キャピタルとしての宗教も注目を集めており、多様な主体の協働が重要になっている。言い換えれば、もはやポリアーキーでない民主制は考えられないし、単一の共同体が生活をすべて賄うことは産業化以降の歴史を振り返ってきて分かったように、リスクが高すぎる。そのような前提に立って、生活賃金としての最低賃金は、賃金として担わなければならない部分と、それ以外のセーフティネットがカバーできる部分を同時に考えられなければならないだろう。

かねこ・りょうじ

1978年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。現在、法政大学大原社会問題研究所兼任研究員。専門は労働史、社会政策史。主な著作に『日本の賃金を歴史から考える』(旬報社、2013年)、「戦時賃金統制における賃金制度」(「経済志林」80巻4号)、「戦前期、富士瓦斯紡績における労務管理制度の形成過程」(博士論文)など。東日本大震災後、大槌町・釜石市を中心に復興支援活動を続ける。

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