特集●戦後70年が問うもの Ⅰ

上書きにさらされる沖縄戦の教訓

「自己決定権」の回復へ

琉球新報論説委員 宮城 修

「死臭で息がつまるようだ。鉄帽を射抜かれてたおれている兵隊、両足をふっとばされて頭と胴体だけであおむけに天をにらんでいるおじいさん。頭のない赤ん坊を背負ってあざみの葉をにぎりしめてうつ伏せている婦人の死体…」

この文章は米軍が沖縄島に上陸した1945年4月1日朝の光景を描いている。後に米国の沖縄統治に抵抗し、立法院議員、那覇市長、衆院議員を歴任する瀬長亀次郎さんの未発表原稿(1)だ。

多くの住民を巻き込んだ沖縄戦は「本土決戦」の準備が整うまで、米軍を1日でも長く沖縄に引きつけておく「出血持久戦」だった(2) 。沖縄に配備された第32軍(3) の任務は、米軍を撃破することではなかった。大本営は最初から沖縄を見捨てていた。例えば1945年4月2日に小磯国昭首相が大本営に沖縄の戦況を尋ねると、宮崎周一参謀本部第一部長は「結局敵に占領せられ本土来寇(らいこう)は必至」(4) と答えていることからしても明らかだ。5月6日には総攻撃の失敗を認め「大体沖縄作戦の見透(みとおし)は明白となる。これに多くの期待をかけること自体無理」(5) と明記している。米軍の沖縄進攻から2カ月後、軍事的にみれば司令部のある首里の攻防で沖縄戦の敗北が決まっていたにもかかわらず(6) 、降伏せずに沖縄島南部の摩文仁、喜屋武一帯に撤退したのは、牛島満司令官の判断の誤りではない。大本営の方針に従ったにすぎない(7)

沖縄戦は「ありったけの地獄を集めた」と表現される。尊い命を犠牲にした沖縄戦から住民は貴重な教訓を得た。一方、国家や軍隊が戦争から得た教訓がある。今、住民側の沖縄戦像の対極にある後者の教訓が台頭しつつある。住民側が導き出した教訓が、国家によって上書きされたら、沖縄が継承してきた沖縄戦認識がなかったことにされかねない。

軍隊は住民を守らない

第32軍は沖縄県民を守るために配備されたのではないため、住民保護の視点が決定的に欠落していた。首里城の地下に構築した司令部を放棄して沖縄島南部に撤退した5月下旬以降の戦闘で、日本兵による食料強奪、壕追い出し、壕内で泣く子の殺害、住民をスパイ視しての殺害が相次いだ。日本軍は機密が漏れるのを防ぐため、住民が米軍に保護されることを許さなかった(8) 。そのため戦場で日本軍による命令や、強制、誘導によって親子、親類、友人、知人同士が殺し合う惨劇が発生した。県民にとって沖縄戦の最も重要な教訓は「軍隊は住民を守らない」「命どぅ宝(命こそ宝)」だ。

過酷な戦場から針の穴をくぐるようにして生還した人々は戦後、肉体だけでなく心がひどくむしばまれ、その傷が癒やされることなく生きてきた。沖縄戦トラウマ研究会が調査した沖縄戦体験者のうち、約4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症しているか、発症する可能性が高い深刻な心の傷(トラウマ)を抱えていた。比較可能なベトナム戦争に従軍した米兵、阪神・淡路大震災後の被災者の約2倍だという(9)

その理由の一つが、沖縄に駐留し続ける米軍の存在だ。女性暴行や殺人など米兵が引き起こす犯罪によって、戦争時の記憶が突然よみがえるフラッシュバックにさいなまれる。米軍の戦闘機や、米軍普天間飛行場に強行配備された新型輸送機MV22オスプレイの爆音も同様だ。体験者にとって戦争はまだ終わっていない。私たちはこの現実を直視しなければならない。過酷な地上戦から導かれた教訓は、現在世界各地で紛争にさらされている人々に対しても当てはまる普遍性がある。

傷つきぼうぜんとする保護された沖縄住民=1945年6月25日、場所不明(米軍撮影、米国公文書館所蔵)

証言の力

沖縄戦の体験者が少なくなっている中で(10) 、残された証言は貴重だ。これまで聞き取られた証言は、沖縄戦の教訓を導くために重要な役割を果たしている。しかし現在、証言の信ぴょう性を疑い、語られている出来事がなかったかのような言説が流布され、体験者を傷付けている。

沖縄戦の証言をめぐる重要な司法判断が2011年に示された。沖縄戦で日本軍が集団死を命じたとする作家大江健三郎さんの著書『沖縄ノート』などの記述をめぐり、日本軍の座間味島元戦隊長や渡嘉敷島戦隊長の弟が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めて提訴した。最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は2011年4月22日、一審・二審に続き、「上告理由にあたらない」(11) として上告を棄却した。これにより軍の関与を認めた一、二審判決が確定した。

判決はこれまで蓄積されてきた沖縄戦研究、米軍資料、証言などに基づき「日本軍の深いかかわりを否定できず、日本軍の強制、命令と評価する見識もあり得る」と判断した。座間味と渡嘉敷の強制された集団死について「軍官民共生共死の一体化」の方針の下、日本軍の深い関与は否定できないとしている。提訴された時、座間味や渡嘉敷で起きた出来事を知る証言者はほとんど存命していない。軍命が口頭で行われ命令書の類いが廃棄されたとみられる中で、オーラル・ヒストリー(口述証言)を証拠として採用した。その一方、原告側の新たな証拠の信ぴょう性を疑い、隊長命令が捏造されたという主張をことごとく退け、証言の上書きを認めなかった。重要な判例となるだろう。

裁判の過程で、原告の同調者らが「体験者がうそをついている」と、これまでの証言を批判し、島を二分させる事態も発生した。肉親を手にかけなければならなかった無念の思いが伝わらず、あたかも住民が自らの意志で死を選んだかのような言説が流布された。体験者の一人として裁判で証言した金城重明さんは、那覇地裁で原告側から事実を事細かに聞かれ「まるで拷問のようだった」と振り返る。それでも証言したのは「生かされている務め」と思ったからだ。

提訴と前後して歴史教科書から強制された集団死をめぐる記述から日本軍の関与が削除され、沖縄戦の実相がゆがめられようとした。証言の信ぴょう性が最高裁で認められたにもかかわらず、ことし春から小学校で使う社会科教科書はいずれも日本軍の関与には触れていない。「アメリカ軍の攻撃で追いつめられた住民の中には、集団で自決するなど、悲惨な事態が生じました」(東京書籍)という記述もある。この表現では、強制的な集団死の主因が日本軍ではなく米軍にあると誤解されかねない。

島は守れない

2012年、自衛隊幹部が隊内誌に沖縄戦を含む太平洋戦争中の島嶼防衛戦を4つに分類し、教訓を整理している。それによると沖縄戦は「最終手段としての特別攻撃、進攻遅延海・空戦闘と地上戦闘により一定の遅延効果(筆者注:「本土決戦」までの時間かせぎ)は認められた」という内容だ(12)

多大な犠牲を払った「出血持久戦」を「一定の効果」があったと評価している。しかし実態はどうだろう。米軍に暗号を解読されて日本軍の作戦は筒抜けになり、部隊が集まると米軍の集中砲火を浴びた。「統率の外道」と考えられていたにもかかわらず、沖縄戦で日本軍は海と空、陸上で生還が許されない特攻作戦を強行した。航空特攻は隊員の多くが飛行経験の少ない学徒兵や少年兵だ。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻戦死者数は海軍4174人、陸軍2244人の計6418人に上った。陸上では現地召集された防衛隊がランドセルのような急造爆弾を背負わされ米軍戦車に突撃させられた。

「本土決戦」の参考にするため大本営は沖縄作戦の教訓をまとめている(13) 。例えば対戦車戦闘は「爆薬肉攻の威力は大なり」として生身の人間が戦車に突撃する攻撃を勧めている。兵器のない者は「簡単なる任務の挺身斬込(ていしんきりこみ)に使用」することも教訓としている。「挺身斬込」とは銃を持たない人間を敵陣営に突撃させることで、生還は望めない。それが「簡単なる任務」という軍の認識は、人間の命を軽く扱っていたことを意味する。このように沖縄戦とは孤立した日本軍が大切な命を兵器として使った揚げ句、多くの住民を戦闘に巻き込んだ無残な戦争だ。米軍を引き留める「遅延効果は認められた」という自衛隊幹部の評価が、70年前の大本営の教訓と共通していることに背筋が凍る。

制空、制海権を失い補給を絶たれる中で、敵の攻撃を受けると「島は守れない」ことを沖縄戦が示している(14) 。現在、尖閣諸島の緊張の高まりを理由に自衛隊は、島嶼防衛を打ち出し南西諸島の軍備を強化し、日米合同で「離島奪還」訓練を繰り広げている。では「離島奪還」とは何か。前述の自衛隊の隊内誌によると、攻撃を受けて敵の上陸を許した後、日米の増援部隊が強襲上陸して島を「奪還」することなのだという。つまり島は守れないという沖縄戦の教訓を踏まえ、逆に島を攻撃する側に回る(=奪還)というように発想を転換している。軍事的に見ると、島嶼戦は、米軍が沖縄を攻略したように攻撃側に有利だからだ。

想定されるシナリオによると、敵は上陸に際して相当の火力を使う。島に事前配置する自衛隊には、敵の攻撃を受けても増援部隊が到着するまで残存できる防護能力と機動力、火力を装備させる。この事態を「住民混在の国土防衛戦」と明記している。70年前の沖縄戦で、多くの住民が日米の激烈な戦闘に巻き込まれ犠牲になった悲劇を想起させる。「離島奪還」訓練に住民の避難誘導が含まれていないのはなぜか。自衛隊の中に住民を守るという発想はあるのだろうか。離島奪還作戦が実行に移されたとき、島は「第二の沖縄戦」の様相を呈しているのではないか。

戦争に加担しない

戦争前夜に新聞は読者に真実を伝えず、戦争遂行の宣伝機関となった。沖縄も例外ではない。国による「一県一紙」の言論統制方針によって、1940年12月20日、「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄日報」の3紙が統合され「沖縄新報」が創刊された。創刊に先立ち同年12月6日、「琉球新報」に掲載された3紙連名による「沖縄新報」創刊の趣旨は「県民に対し豊富なる報道と適切なる指導を以て、高度国防国家の建設へ微力を尽くし、併せて県勢の振興と文化の発展に貢献しようとするものであります」と説明している。大政翼賛体制を背景とした「報国新聞」という性格を鮮明にしている。1941年12月に言論出版集会結社等臨時取締法が成立した。政府への批判的言動を取り締まるだけでなく、報道機関を利用して世論を誘導した。沖縄に配備された第32軍司令部は、参謀部内に報道宣伝協議会を設置して、報道機関を完全に軍の統制下に置いた(15)

「沖縄新報」は国家の戦争遂行に協力し、県民の戦意を高揚させる役割を果たしてきた。例えば1943年1月にソロモン諸島のガダルカナル島の戦闘で戦死した与那国村(当時)出身の大舛松市(おおます・まついち)さんを取り上げた「大舛大尉伝」を連載し、「全県民に大舛魂を」「軍神大桝に続け」と戦意高揚に利用した。大桝さんは1917年に生まれ、県立一中卒業後、陸軍士官学校に進み、戦死する直前の1942年末、米国をはじめとする連合国側にとって対日作戦上の要衝だった激戦地のガダルカナルに着任した。当時の日本はすでに原料や船舶不足で、食料や弾薬を同島へ満足に送れなかった。日本兵の間に伝染病や飢餓がまん延し、少ない弾薬で敵地に斬り込むしかなかった。大本営は1943年2月、ガダルカナルからの“転進”を発表するが、事実上の撤退だった(16)

大舛さんの戦死を新聞が伝えたのは1943年10月だった。戦場での勲功が天皇に報告され、軍人最高の栄誉とされた「個人感状(かんじょう)」を県出身者で初めて授与された。新聞は「感状上聞(じょうぶん)に達す 大舛中尉」などの見出しで一斉に報じ、その後、大舛大尉偉勲顕彰県民大会が開かれるなど一大キャンペーンを始めた(17)

一方で、米軍上陸を前に、出張に名を借りて沖縄を脱出する県幹部を「戦列離脱者」と攻撃した。1944年10月10日の米軍による空襲で輪転機が被害に遭い、米軍上陸が迫った1945年3月、那覇市十貫瀬の仮社屋から、首里城本殿裏に造られた陣地壕「留魂壕」に拠点を移動した。鉄血勤皇師範隊と同居し、砲撃の中で新聞を発行した。鉄血勤皇隊の生徒が防空壕に避難する県民に新聞を配った。

米軍上陸後、戦闘の推移や住民の犠牲を客観的に報道する姿勢はなく、当時の記者は「もう戦果、戦果の記事だけ。県庁の壕や警察の壕に行けば、『戦争美談』があるし、県民を激励する知事や警察部長のコメントも県民への激励だけ」と証言している(18)

真和志村(現那覇市)繁多川の県庁壕で1945年4月27日に開かれた南部地区市町村長、県、警察署長合同の会議の模様が、4月29日付「沖縄新報」に掲載された。記事は「勝つぞこの意気 弾雨を蹴って市町村長会議」の見出しとともに、「勝利の日まで辛抱を続けよう」という島田叡知事の訓示を紹介した。また「一万八千余を殺傷」という軍発表の沖縄戦の戦果を伝えた。当時の記者は次のように証言している。

「戦意を高揚させるような記事を書くことに、当時はいささかの疑問も感じていなかった部分があった。戦争の中に入るとものが見えなくなる。(第32軍情報部の益永薫中尉は)最初のころは良かったが『沖縄の住民はスパイ行為をしている。警察、新聞記者でもやってないとは言い切れない』と言うようになった」(上間正諭朝日新聞沖縄支局員)

「戦争になっても報道の任務を遂行するという記者魂があった。県民一致、戦意高揚のためにわれわれも頑張った。戦争のお先棒を担いだという戦犯意識が今もある」(大山一雄沖縄新報記者)

「新聞としての機能はなくなっていた。戦争の中で新聞が生きるために、やむなくああいう形になった。発行を止めることはできたかもしれない。しかし、金縛りにあったみたいで、それができなかった」(牧港篤三沖縄新報記者)

「新聞人が明らかに間違ったと思われることについて、軍当局の意向に沿った記事の掲載を強要されました」(米軍に尋問された沖縄新報記者)

『沖縄新報』1945年4月29日付

第32軍が首里城地下の司令部を放棄する方針を決定した後の1945年5月25日、「沖縄新報」の解散が決まり、活字を地面に埋めて、社員は壕を脱出した(19) 。前述した新聞記者たちの証言にあるように、沖縄の新聞は戦争に深く加担したという負の歴史がある。「戦争のためにペンをとらない」というのが私たち新聞人にとっての教訓だ。

一方、国家は沖縄戦から別の教訓を引き出している。沖縄戦で組織的戦争が事実上集結した後、安倍源基内務大臣(20) は「沖縄の戦訓」を発表した(21) 。安倍内相は「ことに沖縄新聞社が敵の砲弾下にありながら一日も休刊せず友軍の士気を鼓舞していることなども特記すべきである」と述べ、国家による言論統制がうまくいったことを教訓として挙げている。

70年前の国家による言論統制は現在の安倍政権に引き継がれようとしている。2014年12月、安倍政権下で特定秘密保護法が施行された。この法律は「何が秘密か、それが秘密」と言われる。秘密指定の基準があいまいで、指定対象を具体的に明示しない。その結果、市民がそれと知らずに「特定秘密」に接近し、処罰されることもあり得る。報道機関も同様だ。萎縮効果を狙う手法は戦前の言論統制と酷似している。特定秘密保護法について専修大学の山田健太教授(言論法)は「戦後の憲法体系の理念に反する」「漏らす者とともに、かぎ回る者を罰する法体系」と指摘している(22)

特定秘密保護法が公布された時、自民党の石破茂幹事長(当時)が記者会見で特定秘密の報道について「わが国の安全が極めて危機にひんするのであれば、何らかの方向で抑制されることになる」(23) と述べ、報道機関への処罰を示唆した。すぐに訂正したが、政府、与党の本音だろう。国民の知る権利に応える報道は、高い公益性を有し憲法によって保障されているはずだ。国や国民の安全を脅かすことを意図する報道があるかのような石破氏の言説は認められない。ここでも戦後、沖縄の新聞が継承してきた教訓と、言論を統制した国家の教訓がせめぎあっている。

住民排除し基地建設

米軍普天間飛行場の建設と沖縄戦は密接なかかわりがある。

沖縄戦の最中の1945年4月23日、米軍を指揮する第10軍のサイモン・B・バックナー(Simon Bolivar Buckner, Jr)司令官は、チェスター・ニミッツ(Chester William Nimitz)太平洋地域総司令官に対して沖縄を保持するよう進言した。バックナー中将は沖縄を保持するための条件として、沖縄を保護領か委任統治領、あるいは別の名目で支配するよう付け加えていた。沖縄作戦(Operation Iceberg)の終了を宣言した翌日の7月3日、ジョージ・マーシャル(George Catlett Marshall)米陸軍参謀総長は、ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)米大統領に対し、沖縄は戦後の米国の極東戦略上重要だと指摘した。

しかし、米現地司令官が進言するより前の1943年10月、米軍は沖縄島を占領した上で、現在の嘉手納基地、普天間飛行場、那覇空港と同じか極めて近い場所に滑走路の建設を検討していた。日本の第32軍が沖縄に配備される44年3月より早い。米軍は滑走路建設を計画していた島の中南部が人口密集地であることも把握していた。普天間飛行場用地は、当時宜野湾村の中心だ。米国も批准しているハーグ陸戦条約は戦争中に民間地の奪取を禁じているが、米軍は条約を無視して滑走路建設を検討していた可能性がある 。普天間飛行場は米軍の沖縄島上陸後、住民を収容所に隔離した上で土地を奪って建設された。現在「戦後、基地の周辺に住民が移り住んできた」という言説が流布されているが、事実誤認もはなはだしい。沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結した直後の1945年6月25日時点で、米第10軍施設部がまとめた報告書によると、普天間飛行場の滑走路1本は70%~80%出来上がっていた(25) 。日本への出撃拠点とする目的で沖縄に滑走路を建設したわけだから、日本の降伏によって目的は果たしたはずだ。普天間飛行場の建設自体がハーグ陸戦条約に違反する疑いが濃厚であり、戦後、即時無条件に返還すべき軍事施設だったのである。

沖縄の過重な基地負担の源流は沖縄戦にある。国家は戦争を引き起こした責任を取らなければならない。最新の世論調査(26) で7割以上の県民が望む普天間飛行場の県外移設を、日本政府が米国と交渉して実現させることは、一つの責任の取り方だろう。しかし安倍晋三首相は、名護市辺野古移設が「唯一の解決策」と繰り返して新基地建設を強行している。政治とは考え方の違いや人々の利害を調整することである。現に県民の世論の7割以上が県外移設を望み、県知事選、名護市長選などを通じて何度も確認された県外移設の民意が確認されている。それを無視して「唯一」という言葉で聞く耳を持たない態度を示すことは、一国の首相としてふさわしい態度なのだろうか。

「唯一の解決策」と言い張ることは、県外に移設先を求めない日本政府の怠慢でしかない。第3次安倍内閣で防衛相に就任した中谷元氏が2014年3月、県外での反対や抵抗によって沖縄の基地の分散は難しいとの認識を示していたことが分かった。中谷氏は「分散しようと思えば九州でも分散できるが、抵抗が大きくてできない」「理解してくれる自治体があれば移転できるが『米軍反対』という所が多くて進まないことが、沖縄に(基地が)集中している現実だ」(27) などと答えている。民主党政権の最後の防衛相だった森本敏氏も海兵隊の普天間飛行場の移設先について「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適」(28) と発言している。

一部の自民党国防関係議員らは市民運動を「過激派」とレッテルを貼って、一部の人間の運動というような印象操作を行おうとしている。辺野古の市民運動に対し英経済誌エコノミストは2月、「過激派はほとんどおらず元公務員や教員、大学教員らの姿もある」と伝えている(29)

抗議船上で、カメラを持つ女性に馬乗りになる海上保安官 =2015年1月20日午後2時35分、名護市の大浦湾 (金良孝矢記者撮影、琉球新報提供)

沖縄防衛局が投下したコンクリート製トンブロックに押しつぶされる塊状ハマサンゴ=2015年2月14日、名護市の大浦湾(金良孝矢記者撮影、琉球新報提供)

海上保安庁、警察、米軍が反対する住民を徹底的に排除、あるいは反対運動のリーダーを逮捕しながら、辺野古の新基地建設に向けた作業が進められている。辺野古の現場で屈強な海上保安官が、船上で女性に馬乗りになってカメラを奪おうとしたり、抗議活動を続けるカヌー隊を拘束した上で沖合3キロの外洋に置き去りにしたり、安全確保とは逆の人命と人権を脅かしかねない行為が続いている。米国防総省高官は在沖米軍幹部に対し、辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に設置された市民のテント撤去と基地内への立ち入り防止を指示するなど、新基地建設への抗議運動を力で抑え込もうとしている(30) 。さながら「海の強制収用」だ。日本政府高官も国土交通省幹部を呼び出し、キャンプ・シュワブ前で移設反対の市民らが設置したテントの撤去に本腰を入れるよう指示した(31)

さらに日本政府は、辺野古の海中に10~45トンもの巨大なブロックを次々と投下してサンゴを破壊した。辺野古の海域は、絶滅危惧種が生息し環境省の有識者会議が生物多様性を認め「重要海域」に選定している。世界的にも保全が求められる海で、国家による暴挙が続いている。沖縄県がサンゴ損傷の確認調査に踏み切ると、菅義偉官房長官は「一方的で極めて遺憾」(32) と不快感を示した。本末転倒した強弁であり、翁長雄志知事は「一方的ではない。(調査は)当然のことだ」と反論した。

70年前、普天間飛行場を建設した時のように「基地は住民を排除して建設できる」というのが米軍にとっての沖縄戦の教訓のようだ。1950年代にも「銃剣とブルドーザー」によって、住民を強制排除しながら土地を奪い基地を建設した。そして戦後70年の今、名護市辺野古で再び教訓通りの事態が進行している。今回は教訓を上書きして日本政府が加わり、日米両国が手を組んで沖縄に基地を押し付けようとしている。

おわりに

「軍隊は住民を守らない」「命どぅ宝」と並んで、沖縄にとって重要な教訓がもう一つある。それは「自己決定権の回復」だ。明治政府は1879年、琉球国を強制的に併合した。これは明確な国際法違反である(33) 。琉球廃滅後、沖縄の自己決定権は奪われ、日本国の都合のいいように利用された。代表的な事例が沖縄戦だ。時間稼ぎのために利用された末、見捨てられた。1952年のサンフランシスコ講和条約発効で、日本の独立と引き替えに沖縄は米国による軍事植民地状態に置かれた。奪われた自己決定権は回復しなければならない。米国統治下の沖縄は自治権が制限された。自治権拡大要求の象徴が、高等弁務官の任命ではなく選挙によって自らの代表(行政主席)を選ぶことだった。1968年に主席公選が実現し、平和憲法下の日本への即時無条件全面返還を訴えた屋良朝苗氏が当選した。屋良氏は1972年5月15日、沖縄の施政権が米国から日本に返還された日の式典で「沖縄がその歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除」(34) するとあいさつした。これは自己決定権の回復宣言に他ならない。

昨年11月「オール沖縄」を掲げる政治勢力によって翁長知事が当選した。米軍基地の強要は沖縄への構造的差別であり、それを沖縄が一丸となってはね返すという意志が「オール沖縄」の言葉に込められている。屋良氏の遺志でもある。沖縄の命運を決めるような大切な事は沖縄自ら決めるという自己決定権の回復こそ、沖縄戦をはじめとする近現代史から導かれた重要な教訓といえる。「軍隊は住民を守らない」「命どぅ宝」の教訓の継承と共に「自己決定権の回復」の実現は、戦後70年を迎えた沖縄が取り組むべき課題だ。

1. 瀬長亀次郎と民衆資料「不屈館」所蔵。

2.「帝国陸海軍作戦計画大綱」(1945年1月20日)は「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」ことを作戦の目的とした。沖縄島以南の南西諸島や硫黄島は「本土」ではなく、日本を守るための「前縁」と位置付けられた。第32軍の任務は、沖縄を守り抜くことではなく、アメリカ軍を沖縄に引きつけておいて「出血消耗ヲ図リ」日本への攻撃を遅らせる役目だった。防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)150~153頁。

3. 沖縄戦研究者の間から沖縄に配備された日本軍のことを「守備軍」と表記することに異議を唱える声が挙がっている。島を守るために配備されたのではないからだ。琉球新報は現在「日本軍」「第32軍」と表記している。

4. 軍事史学会編『機密戦争日誌』(錦正社)、沖縄県教育庁文化財課史料編集班『沖縄県史 資料編23 沖縄戦日本軍資料 沖縄戦6』(沖縄県教育委員会、2012年)

5. 同上

6. 前掲『沖縄方面陸軍作戦』487頁。第32軍は1945年5月4日から5日にかけて米軍する総攻撃を行った。しかし、米軍陣地を打破できないまま総攻撃は失敗した。この戦闘で日本兵約5000人が戦死し、62師団は4分の1、24師団は5分の3に戦力低下した。首里の司令部付近での攻防を前に沖縄戦の敗北は決定的となっていた。

7. 例えば第32軍の高級参謀八原博道は「喜屋武半島撤退案こそが最も現実的で、軍本来の作戦目的にも適うものだ」と、首里の司令部放棄を主張している。八原博道『沖縄決戦』(読売新聞、1972年)293頁。

8. 第32軍は住民が米軍に投降することを許さず軍と共に生き、軍と共に死ぬ「共生共死」の指導方針「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」(1944年11月18日)を通達している。

9.『琉球新報』2013年6月19日付朝刊1面。

10. 2010年時点で65歳以上の老年人口は全体の17・4%(2013年「沖縄県保健医療計画(第6次)」)。

11.『琉球新報』2011年4月23日付朝刊1面。

12. 自衛隊隊内誌を紹介した渡名喜守太「離島防衛の実態」『琉球新報』2013年2月7日付朝刊など参照。

13. 大本営陸軍部『戦訓速報第一八七号-沖縄作戦ノ教訓』(1945年6月20日)

14. 前掲『機密戦争日誌』1945年5月6日付は「一旦上陸を許さば之を撃攘(げきじょう)は殆(ほと)んど不可能」と記述している。大本営が島の戦いに勝利することは不可能だと認識していたことが分かる。

15. 前掲「報道宣伝防諜等ニ関スル県民指導要綱」

16. ガダルカナル島の日本軍の死者約2万人のうち純戦死は5000~6000人、残り1万5000人は栄養失調、マラリア、下痢、脚気などによるものとされている。純然たる死者の3倍かそれ以上が広義の餓死者だった。藤原彰『餓死した英霊たち』(青木書店、2001年)22頁。

17.「語り継ぐ 戦後69年」『琉球新報』2014年6月23日付朝刊。

18.「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部」『琉球新報』1994年7月10日付朝刊

19. 同上

20. 安倍源基(あべ・げんき)初代警視庁特高課長。日本共産党弾圧を指揮し、共産党スパイ査問事件、東京市電大ストライキ、2・26事件などの取り締まりに当たった。40年の米内内閣で警視総監に就任し治安対策関係の中枢を歩んだ。45年鈴木貫太郎内閣の内相。

21.「特記すべき新聞社の奮闘」『読売報知』1945年6月29日付

22.『琉球新報』2013年10月5日付朝刊6面。

23. 2013年12月11日、日本記者クラブでの会見。

24. 島袋良太琉球新報ワシントン特派員の記事と解説。「43年に『普天間』検討/米、沖縄戦1年半前/機密文書「人口密集地」も認識/民間地奪取、国際法違反か」『琉球新報』2015年1月4日付朝刊1面、2面。The defeat of Japan within twelve months after defeat of Germany.RG165 Records of the war Department General and Special.RG218 Record of the U.S. Joint chiefs of Staff Geographic File 1942-45/381 Ryukyu Islands(10-20-43) Sec 1-3,NARA.

25.『沖縄戦新聞 第14号』(『琉球新報』2005年9月7日付特集)参照。

26. 琉球新報社と沖縄テレビ放送(OTV)が2014年11月8、9日に合同で実施した県知事選の電話世論調査。米軍普天間飛行場の返還・移設問題について回答者の71・0%が県内移設に反対し、名護市辺野古に移設すべきだとの意見は15・6%にとどまった(『琉球新報』2014年11月11日付朝刊)。

27.『琉球新報』2014年12月26日付朝刊1面。

28. 2012年12月25日値の閣議後の会見で米軍普天間飛行場の移設先について「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と述べ、名護市辺野古沖に移設する現行案は軍事的、地政学的でなく、政治的状況を優先して決定したとあらためて強調した。政治的な理由として「許容できるところが沖縄にしかない」と説明した。

29.『琉球新報』2012年12月26日付朝刊1面。

30.『琉球新報』2015年3月2日付朝刊2面。

31.『琉球新報』2015年2月28日付朝刊1、2面。

32.『琉球新報』2015年2月27日付朝刊1面。

33. 明治政府は武装警官と兵士で首里城を囲み、尚泰王に沖縄県設置を通達、合意を迫った。国際法研究者は、ウィーン条約法条約51条が禁じる「国の代表者への強制」に当たると指摘している。琉球国が1854年に米国と交わした琉米修好条約の米国側の原本が米国公文書館に保管されている。条約はペリー提督が締結、米議会の批准、大統領による公布の手続きを踏んでいる。琉球について米国が外国権を有する独立国家と見なしていた証拠だ。しかし、明治政府は琉球が保管していた条約原本を取り上げ、琉球の外交権を剥奪した。琉球が交わした琉米、琉仏、琉蘭3条約は主権国家の物証とされる。連載「道標求めて・琉米条約160年 主権を問う」『琉球新報』2014年5月1日付朝刊~2015年2月15日付朝刊、同紙3月1日付朝刊など参照。

34. 『朝日新聞』1972年5月15日付夕刊。

みやぎ・おさむ

1963年、沖縄生まれ。明治大学卒、琉球大学人文社会科学研究科博士前期課程修了。1987年、琉球新報社入社。文化部長、ニュース編成センター副センター長を経て現在、経済部長兼論説委員。沖縄国際大学非常勤講師。共著に『戦後政治を生きて 西銘順治日記』(琉球新報社、1998年)、『不屈 瀬長亀次郎日記 第1部~3部』(琉球新報社)の解説執筆。

特集・戦後70年が問うもの Ⅰ

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