論壇
戦後日本社会にとってのシベリア抑留
急がれる実態解明と後世への伝承
成蹊大学名誉教授・シベリア抑留研究会代表世話人 富田 武
1 シベリア抑留70年の現在
今年は敗戦70年であり、シベリア抑留70年に当る。8月23日のスターリンによる日本軍将兵50万のソ連抑留指令70年の日を前後して様々なイベントが企画されており、新聞やTVはすでに戦後70年企画を展開し始めている。
シベリア抑留者の運動は、1945年末に留守家族による将兵帰還を求める運動として始まり、1946年末に捕虜送還の米ソ協定が実施されると、帰還者自らが帰還促進と生活保障を求める運動の主役となった。以来さまざまな団体が生まれては消え、離合集散を繰り返しながら、生活保障を求め、さらにはソ連政府に対して抑留労働の補償を求め、ついで日本政府に肩代わり補償を求める運動を、裁判闘争を伴って展開してきた。労働補償は実現されないまま、ようやく2010年6月「戦後強制抑留者特別措置法」(特措法)が成立し、生存するソ連・モンゴル抑留者に対し、抑留期間に応じて25万〜150万円が「慰藉」の形で支給された。日本軍軍人・軍属だった朝鮮人、台湾人が除外されるなど支給対象が限定され、政府からは「謝罪」表明がなく、課題が残ったにもかかわらず、運動が終わったかのように思う向きも少なくなかった。
この時点で支給を受けた抑留者は約6万人、ソ連・モンゴル抑留者総数の10分の1に減り、年齢は平均87歳に達していた。各政党も、全国抑留者補償協議会(全抑協)結成時(1979年)には20万弱を数える抑留者とその家族を大票田と見て熱心に支援したが、もはや熱意は低下した。政府も、総務省が「平和祈念事業特別基金」の解散で抑留関連事業から手を引き、同事業を厚生労働省社会・援護局任せにし、同局も業務を墓参及び遺骨帰還と抑留死亡者の身元解明に限定している実情である。これでは特措法の謳う抑留の「実態解明」や抑留体験の「後世への伝承」など、できるはずもない。
こうした現状で、「最高齢者の社会運動」は今年何ができるか、長期的にはどうすべきかを考え、問題提起するのが本稿の課題である。
2 政府は何をしてきたか
⑴帰還者の生活保障
引揚者援護の活動は敗戦直後より満蒙同胞援護会ら民間団体によって進められ、ソ連からの帰還が始まると、諸団体を糾合した在外同胞帰還促進全国協議会(全協)が中心となった。主たる課題は帰還促進と引揚者の生活援護であり、後者では政府・国会に働きかけて未復員者給与法や特別未帰還者給与法(ソ連抑留の非軍人を対象)を成立させた(1947、49年)。しかし、それは抑留期間の軍人または公務員としての給与のみを保障したもので、帰還後の生活は総じて「自助努力」に委ねられた。
引揚者は白眼視され、とくにソ連からの抑留帰還者は「アカ」呼ばわりされて復職できないのはむろん、新たに就業・就職することはきわめて困難だった。彼らは「ニコヨン」と呼ばれる日銭稼ぎで食いつなぐか、生活保護法の適用を受ける他なかった。政府は、とくに1949年以降のドッジプラン、経済安定九原則に基づくデフレ政策のもとでは、引揚者・帰還者に対する特別支出を渋った。更生資金(当初は生業資金)の引き上げや住居の早急な供給の要求にも不十分にしか対応しなかった。引揚援護庁が後ろ盾となって慈善団体、宗教団体などを動員した援護ヴォランティア「愛の運動」は、こうした政府の対応の隠れ蓑でしかなかった。
⑵帰還者の対ソ労働補償請求
ソ連に抑留され、労働に使役された将兵は本来ジュネーヴ条約に基づき賃金の支払を受けることになっていた(下士官、兵士はむろん、自発的に働いた将校も)。ところが、1945−46年はソ連自体が独ソ戦の被害から立ち直るのに四苦八苦していて、捕虜を給養するのが精一杯だったため賃金を支払わず、47年以降は支払っても預かったまま帰国の際に返済しなかったのである。これには当時の日本政府も気づいて、ソ連政府が預かり証を発行し日本人引揚者が持参してくれれば「当方で支払う」と伝えたくらいである(但し、1947年3月の対日理事会かぎり)。
日本軍将兵の中にもジュネーヴ条約を知っている者がいたため、帰国の際に「貸方残高の清算」を要求する者がいても不思議ではなかったが、それはなかった。将校や下士官は、賃金支払を受けることは捕虜であることを認めるものだから肯んじなかった。「民主運動」アクチヴは、「労働の喜びと社会主義の優位」を教えてくれたスターリンとソ連政府に感謝するほどだったから、賃金を請求することなどできるはずもなかった。
ところが、1949年にジュネーヴ条約が改正され、「貸方残高の清算」は抑留国政府が行わない場合、捕虜の所属国政府が行うべきことになり、西ドイツでは1954年ソ連との国交回復に伴って帰還した捕虜に賃金を補償する法律が成立し、実際に支給された。他方、1956年日ソ共同宣言により請求権を相互に放棄したので、日本政府としてはソ連政府に賃金補償を要求できなくなったが、なお「所属国補償」の道は残されていたのである。
このことに気づいて遅ればせながら日本政府に対する補償請求の運動を起こしたのが、1979年に結成された全抑協である。81年に国家補償(未払い賃金の支払)請求の訴訟を起こして東京地裁に提訴したが、89年に敗訴した。改正ジュネーヴ条約をそれ以前に帰国している原告には適用できない、「所属国補償」が当時は国際慣行にまでなっていなかったという理屈であった。全抑協は、南太平洋地域の日本人捕虜が連合国の「貸方残高受領証」に基づいて日本政府から補償を受けた点に着目し、ソ連、ついでロシア政府に「労働証明書」を発行させる働きかけを行い、実際に発行させたものの、東京高裁による棄却のあとであり、最高裁では事実審理をしないために役立たずに終わったのである。
この間84年12月の「戦後処理問題懇談会」(総務長官の諮問機関)報告は、国民の受けた戦争被害は「等しく負担すべきである」という「受忍」論を打ち出した。これが政府の公式見解として、上記のような裁判所の判決に影響を与えた。報告はまた「新たな政策的措置は公平性の点で問題がある」として、被爆者援護など他の戦争被害補償問題に波及することに対する予防線を張ったものでもある。
⑶抑留中死亡者の遺骨・遺品返還要求
日本政府はこの問題でも1947年時点では、それなりの対応をした。対日理事会で米国代表を通じて、日本人捕虜・抑留者に関する情報を提供することと併せて、帰還者が死亡者名簿、残留者名簿、骨壺及び遺品を持ち帰るのを許可することを要請した。これは受入れられず、ソ連側は死亡者の火葬や遺骨の故郷の墓への埋葬といった日本の習俗を何ら考慮しなかった。
1959年の全連邦レベルの日本人埋葬地点検の結果、残された墓地は27で、15147体が納められているとされた。日本人遺族の墓参は1961年ハバロフスク、チタで初めて認められ、その後も断続的に実施された。1991年ゴルバチョフが来日して、抑留死亡者名簿38647人分を日本政府に引渡した。そのとき結ばれた「捕虜収容所に収容されていた者に関する日本政府とソ連政府との協定」によって、ソ連側は死亡者名簿、埋葬地資料、遺骨の引渡し、埋葬地の保存、抑留者の所持品の返還、生存送還者名簿の引渡しを義務づけられた。実際に死亡者名簿、埋葬地資料、生存送還者名簿はその後十数年の間に順次引渡された。厚労省は、死亡者名簿の解読により身元不明死亡者は53000人中17000人にまでになり、帰還した遺骨は19000柱に達したと言うが、未だ17000人も不明、帰還遺骨は19000柱しかないと言うべきであろう。
3 特措法にかかわる課題
⑴措法給付対象の拡大
すでに触れたように「特措法」慰藉金の支給対象に、台湾・朝鮮出身の軍人・軍属が含まれず、さらにはソ連・モンゴル以外の「ソ連管理地域」(樺太・千島、北朝鮮、遼東半島)の抑留者にも支給されなかった。韓国のシベリア抑留者は「朔風会」を結成して、労働補償請求を求めて闘ってきたが、この種の補償の際に必ず持ち出される「国籍条項」によって「特措法」慰藉金の支給対象外とされたのである。この平等原則違反を是正し、台湾・朝鮮籍の抑留者及び「ソ連管理地域」抑留者にも支給させるよう政府に引続き働きかけねばならない。
⑵実態解明:ロシア側資料
ロシア側は、ゴルバチョフ・エリツィン大統領訪日以降、抑留死亡者名簿、生存送還者名簿、個人登録簿及び登録カード、内務省護送部隊名簿中の日本人リスト(スキャンしたもの)を引渡し(2013年)、今年中にはナホトカ送還収容所関係文書引渡し(スキャンしたもの)が予定されている。しかし、これはモスクワだけでもロシア連邦国立公文書館(GARF)、ロシア国立現代史公文書館(RGANI)、ロシア国立社会政治史公文書館(RGASPI)、ロシア国立軍事公文書館(RGVA)、ロシア連邦外交政策公文書館(AVP RF)と多数ある公文書館の抑留関係文書のごく一部に過ぎず(閲覧できるが、複写に難あり)、ほかにアクセス困難ないし殆ど不可能な公文書館もある。日本軍将兵の満洲の野戦収容所における(ソ連移送以前の)状態を知ろうとしてもロシア連邦国防省中央公文書館が未公開にしており、「戦犯」の取調べ・裁判記録を見たいと思っても連邦保安庁中央公文書館、連邦検察庁中央公文書館が個人情報保護を理由に閲覧させないのが実情である。
もちろん、重要な資料は『ソ連における捕虜 1939−1956』(2000年)、『ソ連内務人民委員部/内務省捕虜・抑留者業務管理総局の地域的構成 1941−1951』(2006年)、『ソ連における日本人捕虜 1945−1956』(2013年)に収録されてはいる。しかし、例えば送還関係の文書ならGARFで、抑留をめぐる外交の文書ならAVP RFで系統的に閲覧する必要があり、筆者のように年2回3週間ずつ数年通っても、その量はたかが知れているのである。せめて、各公文書館のサイトで閲覧、ダウンロードできるようにしてもらいたいと思う。
⑶実態解明:日本側資料
日本側の抑留関係公文書もお寒い実情である。引揚援護庁、舞鶴・函館等地方引揚援護局(全国15ヶ所)の文書は『引揚援護の記録』(1950年)、『舞鶴地方引揚援護局史』(1961年)等、『引揚と援護30年の記録』(1978年)、『援護50年史』(1997年)に収録されたが、一部でしかなく、原資料は函館地方援護局のそれを除いて所在不明である。帰還した抑留者からの収容所生活に関する厖大な聴き取り記録(例えば、舞鶴の「報告書」204、「資料」62、「舞鶴援護情報」)は、防衛研究所史料室に引き取られた一部以外は同じく所在不明である。故郷に帰った抑留者に関する都道府県民生部世話課の記録も処分されたと見られる。
厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室が保管する、引揚援護庁から引き継いだ復員調査票、ロシアから引渡された個人登録簿及び登録カードは、遺族・家族が請求する場合に写しを送付する(但し、そのことの広報が余りされていない)。それ以外の閲覧は個人情報保護法を盾に許されず、同法でも例外として認められている研究目的の閲覧さえ実際には許していない。この結果、個人登録簿に記載された作成年月日を見ることにより、作成が最初の収容所においてだったのか、遅れた場合もあったのかという問題の回答が得られるはずなのに得られない。また、表紙に記入された収容所ないし病院の番号を統計的に処理すれば、移動のパターンの社会学的分析結果が得られるはずなのに、それもできない。また、援護企画課が中心業務としている抑留死亡者関係の業務の中で重要な埋葬地調査や遺骨収集に関する文書も、内部的に利用するだけで、抑留者の団体や研究者に進んで公開してはいない(サイトに、埋葬地情報を部分的に発表しているだけ)。
なお、厚労省保管の個人登録簿及び登録カードは2012年に国立公文書館に移管されたが(コピーが引渡されたが)、目録がないうえロシア語のままなので、きわめて使い勝手が悪く「国立公文書館で公開」の名には値しない。
このほか、防衛研究所史料室には「日ソ戦」関係文書、「抑留」関係文書が所蔵されている。「日ソ戦」関係は『戦史叢書』の原資料となった文書で、部隊資料には入ソまでの大まかな経緯が書かれている。「抑留」関係では、ソ連領内収容所及び「ソ連管理地域」からの帰還者の聴き取りが数多くあり、とくに北朝鮮や南樺太の状況が詳しい。従来あまり利用されず、とくに北朝鮮・南樺太抑留に対する関心が低かっただけに、集中的な分析が望まれる。
4 今年と来年(最終帰還60年)の事業
⑴慰霊・追悼事業
8月23日はスターリンによる日本軍将兵ソ連抑留指令の70年目にあたるので、抑留死亡者追悼の集いを政府後援で行い、ロシア連邦、旧ソ連構成諸国、その他諸国の大使を招きたい。政府後援で実施する以上、従来3つの抑留者団体が別々に行っていた慰霊祭を一本化することになる。
厚労省は、ロシア等における埋葬地の確認、墓参と墓地整備、遺骨収集を例年通り実施するので、これに可能な限り参加し、また、ロシア及び日本で行われる追悼のコンサート、バレエ公演、絵画展等に協力する。
⑵実態解明の事業
「特措法」に謳う実態解明が進まなかった理由の一つとして、資料保存や啓蒙は総務省、埋葬地の確認、墓参と墓地整備、遺骨収集は厚労省といった縦割り行政のため推進責任がどこにあるのかが不明だったことが挙げられる。内閣府の下に「抑留問題調査室」を設置し、総務・厚労・外務省からのスタッフと有識者をメンバーとして、以下の業務を行うよう提案する。向こう5年程度の事業と想定する。
- ①実態解明に必要な文書収集の方針を定める
- ②文書収集状況を点検しつつ、収集資料を概観して分析を研究者チームに依頼する
- ③分析結果を内部情報として蓄積するとともに、適時「調査室報」として公表する
- ④収集資料を選択、編集して資料集を公刊する
といった業務である。
⑶啓蒙・広報事業
本来なら抑留70年の啓蒙・広報事業は政府の事業だが、それを直ちには望めない現状で、民間の有志団体が新聞社、テレビ局と連携しながら推進していく。
- ①絵画展、映画会、歌謡祭等のイベントを舞鶴引揚記念館、(新宿)平和祈念展示資料館等と連携して進める。
- ②抑留体験者の若者とのトークや「語り部」活動を、同じく舞鶴引揚記念館、平和祈念展示資料館等と連携して進める。
- ③中学、高校、大学における抑留教育を、先進的な実践例や平和教育教材をモデルに全国各地に押し広めていく。
- ④日露相互理解のための文化交流を広く、両国大使館・領事館主催の文化イベント、上記追悼音楽会等、ロシア関係旅行社のツーリズムなどにより押し進める。
⑷研究者の課題
2013年は長勢了治『シベリア抑留全史』、富田武『シベリア抑留者たちの戦後』が刊行され、抑留の、帰還後の運動を含めた全体像がかなりの程度まで解明された。私たち抑留研究者は今後、抑留体験者の話に耳を傾け、オーラル・ヒストリーの蓄積に努めるとともに、個別収容所(分所)の回想記や体験談と国家レベルの公文書(日ソ)とのギャップを埋める研究を進めるべきである。例えば、富田編著『コムソモリスク第二収容所』(ブックレット)は、松本茂雄さんの回想記『火焼山』と体験談、モスクワのRGVAで発見した「第18地区収容所小史」、コムソモリスク・ナ・アムーレ市を訪問して現地の研究者(抑留の著作あり、NGO責任者)マリーナ・クズミナさんと話し合い、埋葬地や抑留者の建てた建物を案内してもらった経験をもとに編集された。ある新聞記者に「魚の眼と鳥の眼」双方から見た収容所紹介だと褒めていただいて、「わが意を得たり」であった。
回想記や体験談には当事者ならではのリアリティと心を打つものがあるが、研究者は個別経験に留まりがちなそれ(収容所で何も教えられなかったのだから当然)を抑留全体の中に位置づけ、個別経験の普遍的意味を浮かび上がらせ、当人も了解できるようにする使命があると、筆者は考えている。
5 「初期的民主主義」経験としてのシベリア抑留
最後に、これらの事業や研究を通じて考えたいことがある。それは、抑留は戦後日本にとってどういう意味があったのかという点である。抑留体験者の多くは、あまりにも苛酷な体験ゆえに長らく語ろうとしなかったし、語らずに「墓場に持っていった」人も多い。反面、帰国からしばらくは「シベリア帰りはアカ」という偏見もあり、生きるため家族を養うため記憶を封印し続け、落ち着いてから戦友会や収容所仲間の会合でだけ語り始めた人も少なくない(およそ戦後20年を経た1960年代半ば以降)。そして、戦後50年を経た1990年代半ば以降は自分の人生を総括する上で避けて通れない抑留体験を家族に語り、回想記に残す人が増えているように思われる。
その「苛酷な体験」は通例、飢え、極寒、重労働の「三重苦」と言われるが、収容所の中でパンを奪い合い、仲間の死にさえ無感覚になり、埋葬する前に衣服を剥ぎ取ってパンと交換するような「餓鬼道への転落」が、思い出したくもないトラウマになった人も少なくない。この仲間を蹴落としてでも自分が生き残ろうとする剝き出しのエゴイズムを、帰国後の復興期日本社会に見て、同化を拒否し、収容所体験を多数の詩やエッセイに刻み、いわば「抑留を二度生きて」、精神を病みながら死んでいった石原吉郎のような詩人もいた。
もとより、石原のような感性の持ち主、生き方は例外であろう。しかし反対に、抑留帰還者が復員将兵と同じく「死んだ戦友に代わって祖国再建のために働こう」と、戦後復興、そして高度成長に「企業戦士」として奮闘したという評価も行き過ぎだと思われる。就職が困難で、誰もが「企業戦士」になれなかった事情に加え、「奮闘」は「記憶の封印」の上に成り立っていたとも言えるからである。
筆者は多数の回想記を読んできたが、この点では伊藤登志夫『白きアンガラ河 イルクーツク第一捕虜収容所の記録』(思想の科学社、1979年)が抑留帰還者の平均的な感慨を、但し熟慮した評価を示しているように思われる。自分たちが学び、帰国後の生活にも生きたのは収容所の中で体験した階級章撤廃や自治などの「初期的な民主主義」であって、ソ連当局が誘導しようとした共産主義ではなかった(共産主義の現実は生活面から観察し、幻想など持たなかった)というのである。たしかに、それは「鉄条網の中の民主主義」ではあったが、軍国主義日本と帝国軍隊の中にはない初めての経験であり、日本本国では同時進行的に、アメリカ占領軍の下でやはり「初期的民主主義」を経験していたと見ることもできる。同じく抑留者である国際法学者の尾上正男が、アングレン(ウズベキスタン)収容所から先に帰還する仲間に対して「今まではソヴィエト民主主義を学んだのだから、帰ったらアメリカ民主主義を学んで、両方の良い所を生かしたらいい」と述べたエピソードも、これと通ずるものがある。
ここでは結論を出さないし、筆者も結論に至っていないが、とりあえず、抑留帰還者は戦後日本社会にとって、いやな戦争を思い起こさせる「遅参者」でも「余計者」でもなく、プラスの何かを残した「異文化体験者」だとは言えよう。
とみた・たけし
1945年生まれ。東京大学法学部卒。1988年成蹊大学法学部助教授、法学部長などを経て2014年名誉教授。シベリア抑留研究会代表世話人。本誌編集委員。著書に、『スターリニズムの統治構造』(岩波書店)、『戦間期の日ソ関係』(同)、『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院)など。
論壇
- 日本のGDPは5年後 中国の5分の1 日本経済大学大学院教授/叶 芳和
- 戦後教育委員会制度と文部省の復権 前こども教育宝仙大学学長/池田 祥子
- 非戦の思想―崩壊する民主主義下で示す民意 季刊誌『けーし風』編集運営委員/親川 裕子
- 戦後日本社会にとってのシベリア抑留 成蹊大学名誉教授/富田 武
- 社会運動としての春闘 前連合総研副所長/龍井 葉二
- 組織の持続可能性から考える賃金 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員/金子 良事