論壇

アニミズムの復権あるいは新次元

ヒッケル『資本主義の次に来る世界』を読む

市民セクター政策機構理事 宮崎 徹

最近では経済社会の現状分析や中・長期の見通しについて経済学者の見解が求められることは少なくなってきている。現実が一段と複雑になってきたせいもあるが、経済学の側にも事情があるだろう。時代とともに社会科学も自然科学と同じく精密化するのは当たり前だが、どうかすると研究が深くなれども狭くなるという傾向があるのではないか。

しかし、われわれがどこからどこへ行こうとしているのか、現在地を確認し、行き先を見定めるのに役立つ知見への期待はむしろ高まっている。資本主義と生態系全体の危機という時代状況のもとでは、歴史を踏まえたスケールの大きな議論を欠くわけにはいかないだろう。そうした視点に立つとき、管見の限りでは、近年の経済人類学系統の研究に刺激を得ることが多いようだ。先駆けとしてのカール・ポランニーの存在は大きい。経済学の視野狭窄を超えて、どんな社会も贈与、再分配、交換の3つの関係原理からなるものとし、どれが支配的になるかで当該社会の編成様式が異なるのだという明晰な枠組みを提示した。その後の研究の基本方向を示したといえよう。

ここ数年の筆者の限られた読書体験でも、『プルシット・ジョブ』が広く読まれたデビッド・グレーバーの『負債論――貨幣と暴力の5000年』やジョバンニ・アリギの『北京のアダム・スミス――21世紀の諸系譜』という大作があり、さらにジェイソン・W・ムーアの『生命の網のなかの資本主義』、ジェイソン・ヒッケルの『資本主義の次に来る世界』とパワフルな成果が次々に刊行されている。

以下では、そのなかからヒッケルの大胆な議論を3つの要点に絞って紹介し、参考に供したい。すなわち、1つは資本主義の生まれ方、つまり封建制からの移行をめぐって欠落した視点。2つは資本主義と双対の思想や哲学ないしイデオロギー。3つはアニミズムの再発見。

前置き的にいえば、資本主義の危機をめぐっては、今では懐かしい左翼の「資本主義の全般的危機論」(アルゲマイネ・クリーゼ)から1970年代のローマクラブによる「成長の限界論」等々枚挙にいとまがない。しかし、ヒッケルがいうように現在の危機は地球の生態系全体の破綻に至るという点で、真に最終的な危機というべきだろう。ちなみに、ローマクラブの提言は資源の枯渇に重きが置かれていたが、いまは生物多様性の破壊や気候危機といった生態系全体の危機、すなわち地球という惑星の限界に直面しているのだ。本書のタイトルのように「資本主義の次に来る世界」を具体化していかなければ未来はないわけである。

それでは、地球全体を支配し破滅への道を歩む資本主義というシステムの根源的問題は何か。それは、ずばり「成長主義」であるとヒッケルはいう。たえざる拡大という成長主義で組織され、運営されるのが資本主義なのである。利潤のたえざる増大が自己目的となっている。これは一種の「全体主義的論理」であり、成長主義は「近代史においてもっとも強力なイデオロギーである」という。

しかし、しらふになって考えれば、地球という惑星の限界のなかで無限に経済成長を続けることができないのは自明だ。実際、ほどよい成長とみなされている年3%で行けば、23年ごとに経済規模は倍になってしまう。その一方、成長の持続を擁護する立場からは、イノベーションに期待がかかる。例えば、クリーンエネルギーで脱炭素化できるといった具合に。クリーンエネルギー自体は結構であるし、必須であるが、経済成長で出来ていく大穴を小さなシャベルで埋めようとする程度しか効果がないとみなされている。つまり、経済成長の方をどうにかしなければならないのである。

成長至上主義の広がりは、人びとの考え方に拘束をかけ、いわゆるホモ・エコノミクス化を促す。経済合理性、生産性といった主に経済の論理で物事を考えるようになる。とどのつまりは金銭的な損得に判断基準が縮約されるようになってしまう。そして、資本主義は人間の本性に由来するものとして絶対化されるに至る。

そこで、脱成長を展望するためには、人びとが資本主義の成長要求にどのように組み込まれてきたのかをまず知っておく必要があるとヒッケルは議論をはじめる。

1.たたきつぶされた平等主義的な社会

そのためには資本主義の前史、さらにはその前にどういう時代と社会があり、それをどう倒した上に資本主義が生まれてきたのかを正確に知るべきである。まず、「封建社会を覆したのに忘れられた革命」があったとヒッケルは指摘する。1350年代から1500年代は「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」だったのだという。「市井の革命家の長年に及ぶ闘い」で貴族支配、農奴制の封建社会は揺らぐことになった。人々は無償の労働を拒み、領主が課す税や教会の十分の一税を拒否し、自らが耕す土地を直接管理することを要求した。ヨーロッパ各地でこうした反乱が勃発した。

初期の反乱はあまり成功しなかったが、1347年の黒死病の流行が未曽有の社会的・政治的危機をもたらすとともに、思いがけず労働力の深刻な不足を引き起こして小作農と労働者の交渉力を強めた。高校の世界史で習ったイギリスのワット・タイラーの乱(1381年)はこの動きのなかのことだ。ほとんどの反乱は鎮圧されたが、農奴制は廃止されるに至った。農奴は自由農民になり、自分の土地で生計を立て共有地(コモンズ)を自由に活用できるようになった。大きな変革の中で、地代は下がり、食料は安くなり、農民の栄養状態は向上した。労働者も、労働時間の短縮や週末の休暇、さらには仕事中の食事や交通費などについても交渉できるようになったという。

このような変化はしかし、従来の支配階級にとっては富の蓄積が難しくなることであった。新しく生まれつつあった社会は平等主義的で、自給自足、高賃金、草の根民主主義、資源の共同管理を軸とするものであったからだ。「上流階級の不満の核心はそこにあった」。そして、ここから反撃が始まる。すなわち、貴族、教会、商人は団結し、農民の自治を終わらせ、賃金を引き下げようとした。小作農を再び農奴にするわけにはいかなかったが、その代わりヨーロッパ全土で暴力的な立ち退き作戦を展開し、小作農を土地から追い出した。農民が共同管理していたコモンズである牧草地、森林、川は柵で囲われ、「上流階級」に私有化された。つまり、私有財産になったのだ。もちろん農民のコミュニティは戦わずに屈服したわけではない。しかし、彼らの抵抗は成功せず、有名なドイツ農民戦争(1524年)では農民の死者は10万人を超えたという。

これがいわゆる囲い込み(エンクロージャー)であり、3世紀にわたって広くヨーロッパで多くの人々が土地を追われ、国内難民となった。その過酷さは「農奴の生活のほうがずっとましだった」といわれるほどである。これによって資本家は大量の土地や資源を独占できるようになった。そればかりではない。囲い込みによって労働力を売るしかない人々が大量に出現した。賃金労働者(プロレタリア)の誕生である。

いうまでもなく、この歴史過程はマルクスが本源的蓄積と呼んだものだ。まさしく資本主義は頭のてっぺんからつま先まで血を滴らせて登場してきたのである。しかし、反省を込めていえば、その事実は知っていても、それは誕生時の一時的な歴史物語としてしか認識されてこなかった嫌いがある。平等的な社会を叩き潰すには3世紀もかかったことが忘却され、封建制から資本制への移行が何か直線的かつ進歩的な歩み、あるいは自然なことと勘違いされていないだろうか。ヒッケルによれば、「資本主義は農奴制を終わらせたのではなく、農奴制を終わらせた進歩的な改革に終止符を打った」のである。

資本主義が台頭するにはまず資本を蓄積することが必要だったのだ。アダム・スミスはこれを「先行的蓄積」と呼び、「少数の人が懸命に働いて稼ぎを蓄えたために生じた」としているが、それはのどかで無邪気にすぎる見方だ。この資本蓄積は無害な貯蓄ではなく、自然と人間からの略奪のプロセスだったのである。ここで触れる紙幅はないが、囲い込み運動は国内だけではなく、海外の植民地化と一体的であった。だから、資本主義は内外の囲い込みとともに生まれたのであり、絶えず略奪可能なフロンティアを求めるという本質的な特徴がその後も消失することはなかった。

囲い込みは農村と都市の人間に具体的にどう影響したか。農地は借地となり、生産性に応じて割り当てられるようになった。生産性の競争に負けると、借地権を失い、飢えに直面する。農民は互いに競争し、親類や隣人とも張り合うようになった。「かつての協力的なシステムは絶望的な敵対を中心とするシステムに代わっていった」。

土地と農業に生産性の論理を適用したことは、「人類の歴史に根本的な変化をもたらした」。いうなれば、人々の生活が「生産性を高め、生産量を最大化する」という要求に支配されるようになる。つまり、生産はもはや人々や地域の必要を満たし、充足をもたらすものではなく、「利益を中心に計画され、資本家の利益を増やすためのものになった」のだ。だから、人間の本性と思いこまされていた「ホモ・エコノミクス」という性質は、この囲い込みによって「導入」されたのだとヒッケルはいう。

一方、農村を追われた難民は都市のスラムで暮らすようになり、低賃金の仕事を引き受けるしかなかった。難民は多く、仕事は少なかったので、労働者間の競争は厳しかった。こうして囲い込みは貧困化を通して資本主義の生産性を高めるツールとさえみなされた。

2.アニミズムVS.デカルト的二元論

軌道に乗りはじめた資本主義をさらに強力にするためには、収奪と利用の対象である自然についての新しい物語を作り出す必要があった。ヒッケルの指摘を待つまでもなく、人類は30万年にも及ぶ歴史の大半を通して、他の生物と親密な関係を保ってきた。つまり、人間は生物コミュニティの一員であり、本質的な特性は他の生物と同じだと考えてきた。人類学者はこの世界観を精霊信仰(アニミズム)と呼ぶ。アニミズムでは、基本的に人間と自然を区別しない。「動物を親類とみなすことさえある」。そのため、「他の生物システムからの搾取を抑制する強力な道徳律を持っている」。現代のアニミズムの文化圏では、人々は生きるために漁業、狩猟、植物採集、畜産を行うが、根底にあるのは「抽出ではなく互恵」の精神であるという。

しかし、アニミズムに対抗する思潮も古くからある。例えば、神が生物から切り離され、それらの上位に位置づけられた。人間は神の写し身とみなされ、他の生物を支配する特権を与えられる。人間を自然界の支配者とみなす考え方は3000年前の古代メソポタミアの文献に既にあるという。その経緯は本書の叙述を追ってもらうしかないが、ここでつづめていえば、1500年代になって、2つのグループがアニミズム的思想の広がりを憂い、その破壊に乗り出したという。教会は、「もし精霊が至る所に存在するのであれば神は存在しない」「神が存在しなければ、司祭も王も存在しない」と主張した。もう一つのグループは資本家である。彼らの経済システムでは、土地、土壌、鉱物などとの新しい関係が必要とされた。所有、抽出、商品化を原則とした関係である。そして、何かを所有したり抽出したりするためには、「まず、その何ものかをモノとみなさなくてはならない」。ところが、あらゆるものが生きているアニミズムの世界では、万物は権利を持つ存在とみなされ、排他的な所有などは倫理的に許されない。だから資本家サイドからすれば、大地から精神性を奪い、人間が搾取する「天然資源」の貯蔵庫に格下げする必要があったのだ。

ヒッケルは「近代科学の父」といわれるフランシス・ベーコンの罪深い一面にも言及している。ベーコンは「生きている自然」という概念を破壊し、自然の採取を認めるだけではなく、それを称賛する新しい倫理観を打ち立てようとしたのだといわれる。彼は自然を女性とみなす古来の考え方を取り入れたが、「育ての母」とはみなさず、「公の娼婦」と呼び、自然は邪悪で無秩序で野蛮な獣であり、「抑制」し、「束縛」し、「取り締まる必要がある」とした。この思潮をさらに進めたのが、いうまでもなくデカルトである。精神と物質の二分だ。いわく、人間はすべての生物の中で唯一、神と特別なつながりの証である精神(魂)を持っている。一方、人間以外の生物は思考力のない物質にすぎない。「単なる自動機械」だという。デカルトは自らの主張が正しいことを証明するために生きた動物を解剖したが、とりわけグロテスクなのは妻の飼い犬を解剖したことだといわれる。

こうしてデカルトによって、人間と他の生物界とのつながりは最終的に断たれた。このようなビジョンは二元論、デカルトの物質論は「機械論哲学」とそれぞれ呼ばれるようになった。啓蒙運動の時代に二元論は史上初めて主流になった。二元論は共有地の囲い込みと私有化に許可を与え、土地は所有されるモノとなった。生態系の破壊へのタガが外れたというべきだろう。

支配階級は、デカルトのこの二元論を援用して労働についての考え方も変えようとした。彼は精神を身体と分離させただけでなく、両者の上下関係も確立した。生産性を高めるために自然を支配しコントロールするのと同様に、精神も同じ目的のために身体を支配すべきであると主張したのである。これは「規則正しく生産的な秩序を身体に課すために」利用された。「喜び、遊び、自然な衝動など、身体的快楽を求めることはすべて不道徳」とされる。つまり、「怠惰は罪」「多産は美徳」という明確な価値観に統合された。

こうした規律と自制の倫理が資本主義文化の中心となり、イギリスでは怠惰な貧民を収容するための「救貧院」(ワークハウス)が全土的に建てられるにいたった。それは工場として役立てられると同時に、文化的再教育の場にもなり、「生産性と時間を重視し支配者を敬うことを貧民に教え込み、残っていた抵抗精神を根絶やしに」するものだった。それは20世紀のテーラー主義(科学的管理法)を生み出し、今日に至る次第だ。ここでも繰り返しヒッケルが強調したいのは、ホモ・エコノミクスという生産主義的な行動と考え方は、「自然なものでも生得的なものでもない」という事実だ。5世紀に及ぶ文化的再プログラミングの産物なのだという。

その後の歴史的展開をたどる暇はないが、第2次大戦以降の資源消費量の急上昇に示されるように経済成長は「グレート・アクセラレーション」(大加速)し、「資本新世」という最も攻撃的で破壊的な時代を迎えることになった。その結果、生態系への影響を示すあらゆる指標が爆発的に上昇している。生態学者の近年の研究によると、地球の生物圏は統合されたシステムで、相当のプレッシャーに耐えられるが、ある点を超えると崩壊しはじめる。その限界のことを「プラネタリー・バウンダリー」という。地球の回復力を維持するギリギリの範囲である。そして最新のデータによると、われわれはすでに4つのプラネタリー・バウンダリーを超えている。すなわち、気候変動、生物多様性の喪失、森林破壊、生物地球化学循環であり、そして海洋の酸性化は限界目前であるという。

3.アニミズムの復権

成長か、しからずんば死か。絶えず利益を拡大する成長を基本動力とする資本主義はほかに選択肢がなかった。限度のない成長はついに地球の生態系を破壊するに至った。しかし、資本主義は危機の大きな要素であっても、「根本的な原因ではない」とヒッケルは指摘する。真の原因ははるかに根深いのだという。

どういうことだろうか。ここを詰めないと「資本主義の次に来る世界」を展望できないというのだろう。これまでみてきたように、資本主義は歴史上初めて、自然を人間とは根本的に異なるもの、すなわち「人間より劣っていて、人間に従属し、精神を持たないものとみなすことを人々に求めた」。世界を二分することを求めたのである。「資本主義という文化は、その裂け目に根差している」という。であるならば、直面する闘いは単に経済をめぐるものではなく、人間の存在論(オントロジー)をめぐる闘いであると展望する。勝利するためには、資本主義による土地や森林や人の「植民地化」を打破するだけではなく、われわれの心も「脱植民地化」しなければならないとする。

これまでの議論から予想されるように、そのための基本的観点はアニミズム的なものである。ある定義によれば、アニミズムの基本は「世界は人で満ちているが、人間はその一部でしかなく、常に他の生物との関係の中で生きている」というものである。アニミストは、動物、植物、ひいては川や山さえ客体ではなく、主体とみなす。それに対しては「人間の性質を投影し、変装した人間と(誤って)みなしているだけだ」という批判や非難もあるが、そうではなく、「アニミストは他の種を、主体、すなわち人間と同じように世界を主観的かつ感覚的に経験する主体とみているのだ」。ヒッケルがいうには、アニミズムは徹底してエコロジカルであるばかりか、いまエコロジー科学の核になっている原則、すなわち「すべては密接に結びついている。それを前提にふるまうべきだ」を先取りしている。実際、科学者の試算によると、地球の生物多様性の80%は先住民族が管理する地域で発見されているという。彼らが、すべての生き物が相互に依存していることを理解しているからである。

アニミズム的な見方はやや突飛なように思えるかもしれないが、それはわれわれがデカルト的二元論と啓蒙主義のとりこになっているためだと考えたほうが良いかもしれない。たしかに、すでにみてきたように啓蒙主義と資本主義は手を携えて時代の主潮流となってきたが、実はデカルトの本の出版直後からその学説への厳しい批判ははじまっていたという。その代表格はスピノザである。ヒッケルの総括的整理によれば、スピノザは「宇宙は1つの究極の原因――いまでいうビッグバン――から生まれた」という認識を前提に議論を進め、「神と魂と人間と自然は、根本的に異なる存在のようにみえるかもしれないが、実は壮大な実在の異なる側面にすぎず、同じ力に支配されている」と主張した。

これは二元論と対蹠的な見方だ。そして、ヒッケルの評価は、その後400年間の科学の進歩により「デカルトが間違っていただけでなく、アニミストの思想は生物と物質の実際の働きと深く共鳴していることが明らかになった」というものである。この評価を補足すれば、最先端の科学では、「まだ完全には解明されていないが、宇宙のあらゆるものは同じ物理法則に支配されていることが認められた」。さらに、「精神と物質に根本的な違いはなく、精神は他のあらゆるものと同じく、物質の集合であること」も認められたという。科学に疎い筆者としては何とも批評できないが、いささか筆が走りすぎているようにも感じる。

ヒッケルは「二元論は、かつては啓蒙科学の極みとみなされたが、皮肉にも科学そのものに敗北したのだ」とし、「現在、立場は逆転し、スピノザは近代ヨーロッパ哲学の最高の思想家の一人にして、科学史における重要人物」とされているといいきっている。

それはともかく、最新の科学がアニミズムに新しい光を投げかけているのはたしかだ。こうした最新、最先端の研究動向は「第2の科学革命」とも呼ばれる。そこでは人間と他の生物との関係について認識が根本的に変わりはじめている。その1,2の具体例をみておこう。1つは、細菌は「病原菌」ではないこと。体内には何兆もの微生物が生息し、われわれがこれらの小さな生物に支えられて生きていることが明らかになった。腸内細菌は食物を分解し、免疫反応の調節も助けている。また、神経経路と神経系のシグナル伝達を活性化してストレス処理を助け、メンタルヘルスを促進している。細菌が社会生活に影響を及ぼしている可能性もあるようだ。ちなみに微生物を除去されたマウスは「反社会的」な行動をとることが実験で明らかになっているそうだ。さらに、人間の持つ2組のDNAのうちの1つはミトコンドリアという細胞器官に含まれているが、これは進化のある時点で取り入れられた細菌に由来すると生物学者は考えているということだ。とすれば、人間は「最も基本的な代謝機能はもとより、自分の核となる遺伝子コードまで他の生物に依存している」ことになる。

このことの示唆するところは深い。細菌に関連する発見は、人間にまつわる科学だけではなく、「存在論にも革命をもたらしうる」とみられている。「これまで見えなかった微生物をマッピングできるようになったことで、世界の生物学的構造と、他の生物に対する人間の位置づけを再考せざるをえなくなった」といってもよい。

もう一つの発見は木や森に関するものだ。木は「菌根菌」という土壌中の菌類に依存している。菌根菌は木が光合成によってつくる糖の一部をもらっており、一方、木は自分では生成できないリンや窒素などを菌根菌からもらっている。この互恵関係は、単一の木とそれにつながった菌根菌とに限定されるものではない。「目に見えない菌類のネットワークは、さまざまの木の根をつないで地下のインターネットを形成している」。このネットワークは、「コミュニケーション、エネルギー、栄養、薬効成分の共有」さえ可能とする。例えば、「アブラムシに攻撃されている植物は近くの植物に、アブラムシが来る前に防御反応を高めておくよう指示」しているという。

菌根ネットワークは人間や他の動物の神経ネットワークのように機能しているともいわれる。人間のニューロンと同じように「問題解決、学習、記憶、意思決定を行える」ことが解明されつつある。これは単なる比喩ではないのだと強調される。実際、植物は困難に遭遇したり、周囲の世界の変化についてメッセージを受け取ったりすると、積極的に行動を変えるという。「植物には感覚がある。見て、聞き、感じ、匂いをかぎ、それに反応する」。われわれが何の気なしに見ていたつる植物の何かに巻き付く働きの背景にはこうした機能があるのか。筆者などは、ただの反射運動ではないのかとぼんやり考えていたが、どうやらそうではないようだ。

木は互いにつながっているだけではなく、人間や動物ともつながっている。人間への木の恩恵を数値化する研究も進んでいる。例えば、ヒノキが放出する香りのよい部分(フィトンチッド)は免疫細胞を活性化し、ストレスホルモンのレベルを下げることが分っている。このような樹木、菌類、人間、細菌の驚くべき相互依存関係は生態系という氷山の一角にすぎないようだ。

やや長くなったので短くまとめておくと、資本主義の危機がいよいよ生態系全体の崩壊という最終局面を迎えているいま、経済成長主義に拘束された現実と思想を克服しなければならない。そのためには、その経済システムの前提となり促進してきた哲学にまでさかのぼって問題視しなければならないというのが本書の最奥の主題であった。ヒッケルが端的に指摘するデカルト的二元論と啓蒙主義に主導された500年の近代の歩みの総括である。その時、大きなヒントを与えてくれるのが何十万年のあいだ人類が保持してきたアニミズムであるというのが眼目である。それは生態系の中で、生態系と共に生きる知恵である。そして、いまでは最新の科学的知見、「第2の科学革命」が、アニミズムの正しさを示唆している。アニミズムのバージョンアップだ。このことは温故知新というべきか、コロンブスの卵というべきだろうか。

そこからイメージできる経済社会は「生態経済学者」を中心に示されている「定常状態を保つ」という原則に基づくものだろう。その具体的道程を描くのはまだ難しいが、原理的には贈与や互恵といった経済行為の倫理の再興である。贈与や贈り物という概念が重要なのは自制を促すからだ。必要以上に取らず、相手が分け与えられる以上のものを取らないようになる。人類学者がいうように贈り物には永続性があり、もらったら、相手にお返しをした後でなければ、次の贈り物は受け取れない。それがもたらすのはバランスであり、生態系はそのようにして自らを維持しているとみえる。互恵の原理は、人間間のやり取りを超えて、植物、動物、生態系にまで拡大されるべきだ。

近代の強欲さを生み出した資本主義というシステムと近代思想の根本的反省がいよいよ求められている。

みやざき・とおる

1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。

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