特集 ● 内外で問われる政治の質

日本の「幼稚園と保育所」──その二元体制の根本問題を問う

「子育て」「家庭・母」概念の縛りの下での混迷

こども教育宝仙大学元学長・本誌編集委員 池田 祥子

序.「子どもの権利」=「子育ち」、という認識の欠如

日本では、「育児・子育て」という言葉は、ごくごく日常的に用いられている。「育児の悩み」「子育て支援」など、マスコミはもちろん、政策用語としても当たり前に流通している。そのことに、あえて疑問を挟んだり、首を傾げたりする人は稀である。

しかし、「育児・子育て」という言葉は、どこまでも「育てる側」にスポットが当てられていることを忘れないでいよう。なぜなら、育つ当事者としての「子ども」の視点からは、「子育ち」という言葉が用いられて当然だからである。

周知のことではあるが、1989年第44回国連総会で、「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」が採択され、翌1990年に発効している(日本の批准は1994年)。「改めて」ではあるが、18歳までの「子ども」もまた、自らの「権利の主体」である、ということが世界的に確認されたのである。

ところが、日本では、「児童福祉法」第1章第1条においても、「全ての児童が」「適切に養育されること」「その生活を保障されること」「愛され、保護されること」等々、「~される」側面の強調が際立っている。もちろん、「配慮=ケア」を否定するつもりはない。しかし、それが全面を網羅し、しかも、第2条第2項の「児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責任を負う」という規定が、「子どもの権利条約」批准後30年という現在、なおもそのまま据え置かれているのである。「子どもは権利主体である」という認識への配慮が、まったく見当たらないのはどうしてなのだろうか。

「子どもの権利条約」の精神と、日本の児童福祉法の「保護者の第一義的責任」規定との、この決定的なズレ。この点における日本社会の基本的な「鈍感さ」あるいは「怠惰」が、今なお、「育児・子育て・子育て支援」等々の用語や発想を、何ら疑問の余地なく流布させ続けているのであろう。

Ⅰ.岸田内閣の「子ども政策」への疑問

(1)「異次元の少子化対策」?!

まず、岸田文雄首相の口から「異次元の少子化対策!」という言葉が飛び出してきたのには驚かされた。どこまでも「現実」に即した政治の世界である。「異次元」という用語を使う方も使う方だが、日本では、研究者からもマスコミからも一切「疑問」が呈されることなく、この用語はそのまま「流行」となってしまった。

国立社会保障・人口問題研究所が発表した「将来推計人口」(2023.4.26)によると、日本では、今後毎年約80万人が減少するという。もっとも、「少子化」現象は1979年の「1.57ショック」以来警鐘が打ち鳴らされ、1980年代からは度々の「少子化対策」が繰り返されてきた。それでも、日本では、2008年の1億2808万人をピークにして、その後は実質的な人口減少社会に突入している。

その意味では、唐突に「異次元の少子化対策」という内実の見えないスローガンが打ち上げられるまえに、これまでの度々の「少子化対策」の実態――何ができて、何が不十分だったのか――の改めての総点検があってもいいはずである。

ただ、そうは言っても、「少子化」傾向は、途上国を除けば、米・欧はもちろん、韓国、香港、シンガポール、台湾などの東アジア・東南アジアでも、それぞれの状況の差はあれ、日本と同様、少子化傾向は進んでいる。さらにまた、かつては「一人っ子政策」などで、急激な人口増を強制的に食い止めようとしてきた中国ですら(慌てて「一人っ子政策」を廃止したにもかかわらず)、2030年代以降、人口減少に転じることが明らかになっている。

このように考えると、「少子化対策」は必ずしも一国だけの問題ではなく、かなりの国々との共有すべき課題なのである。

少子化に直面する国々、人口増加になお悩む「途上国」含めて、「国家」という壁を可能な限り柔軟にしながら、今後の世界の共通の課題の一つとして、「少子化」対策は考えられなければならないのではないか。

また、同時に「高齢化」も併せて進む。いつまでも、生産年齢を「15~64歳」と区切るわけにもいかなくなるだろう。高齢者の状況も多様化する。健康な高齢者の生産ないしは社会参加の多様な形態も考えられるべきであろう。

このように、「少子化」という社会現象は、私たち一人ひとりにとっても避けられない現代の根本問題の一つである。だからこそ、仰々しく空疎な言葉は使ってほしくはない。

(2)「こどもまんなか社会」?!

これまた奇妙な言葉である。こどもたちの遊びの場面では、「まんなかがいい!」などと普通に使われる言葉ではあるだろうが、公の文書では逆に異様ですらある。

しかし、岸田内閣のスローガンとして用いられると、途端に権威をもつのだろうか。

『発達』175号(ミネルヴァ書房、2023.8.10)の特集タイトルは「こどもまんなか社会時代の保育・子育て支援」となっている。その巻頭言を担当している秋田喜代美氏は、2021年7月、内閣府の「子ども子育て会議」の会長、2023年5月、同「こども家庭審議会」会長、さらに岸田内閣の「こども未来戦略会議」の委員でもある。

秋田氏は次のように述べている。

「2023年4月、こども家庭庁が誕生し、こども基本法が施行されました。こどもまんなか社会の原点にあるのは、こども基本法です。/心身の発達の過程にあるすべてのこどもの人権と権利を保障する日本で初めての法律です。」

「人権」と「権利」の並列は気になるが、それはさておき、これまで検討されてきた「こども庁」案が、なぜ急きょ「こども家庭庁」に変えられたのか、その辺りへの言及はない。元々の「こども庁」のままならば、「こども」に焦点が当てられている以上、あえて「こどもまんなか!」などと強調する必要もなかっただろうに。

しかも、「こどもまんなか社会の原点」として「こども基本法」が位置づけられているが、この「こども基本法」の第3条5項は、次のような規定となっている。

「こどもの養育は家庭を基本として行われ、父母その他の保護者が第一義的責任を有するとの認識の下、十分な養育の支援を行うとともに、家庭での養育が困難なこどもにはできる限り家庭と同様の養育環境を確保することにより、こどもが心身ともに健やかに育成されるようにすること。」

何ということだろう。「はじめに」でも指摘した通り、国連の「子どもの権利条約」を批准しながら、児童福祉法の第2条2項を残し続ける日本の「こどもをめぐる家庭責任と依存」の構造が、この「こども基本法」にもそのまま継承されているではないか。

そして、いきなりの「児童手当」の増額である。・・・「所得制限なし」、しかも「第3子」加算の要件配慮・・・の構想が先行しているが(2025年4月から施行)、かつての民主党の「こども手当」構想との比較検討、さらにまた、かなり昔、1960年から始まっている長年にわたる児童手当政策の紆余曲折の歴史的検討作業(「成果」はあったのかなかったのか)は一切なされてはいない。

しかも、この児童手当の大幅な増額を担う財源については、岸田首相自ら「増税」はナシ!と豪語したものの、財源の見通しはいつまでも曖昧にされ続け、2024年3月に入って、ようやく「2028年度までに、年3.6兆円」を確保する方針が出され、規定予算の活用(1.5兆円程度)の他に、医療保険とともに徴収する「子ども・子育て支援金」(未だ内実は定かではないが、医療保険の加入者一人当たり、月平均500円弱?)の「案」なども小出しにされている。しかし、相変わらず、「思いつき」的な財源保障の不安定感は拭えない。

しかも、「児童手当」は、現在すでに「結婚し、子どもを育てている家庭」への、つまりは「世帯主」への手当てとして支給される。非婚が増えている社会で、しかも結婚しても「子どもはNO!」あるいは「一人か二人」の時代に、「第3子」への大幅加算、その上、「家庭」もいろいろ、「親」もいろいろ・・・本当に「所得制限なし、大幅増額」の「児童手当」が最優先課題なのだろうか。

(3)「こども誰でも通園制度」!

岸田内閣の、「画期的な保育所政策!」とマスコミその他で注目されているが、この政策のカッコつき「新しさ」と「問題点」を指摘するためには、改めて、日本の「幼稚園」と「保育所」の歴史的な経緯と関係性とを共通了解として前提にしておかなければならない。そのことは、次のⅡで展開しているので参照してほしい。

ただ、岸田内閣が施行しようとしている「こどもだれでも通園制度」が、これまでの幼稚園・保育所制度の「二元体制」を見直し、親たちにとっても、また何よりも子どもたちにとっての「より良き保育制度」を施行しようとするものではなく、待機児童対策がとりあえず「終焉」した結果としての、0歳児、1歳児の「定員割れ」への小手先の解決として思いつかれたものでしかない、とここでは断言しておこう。

ところで、日本の幼稚園と託児所(保育所)の歴史を改めて振り返る余裕はないので、とりあえず、両者の戦前の歴史を簡単に図示しておこう。

幼稚園託児所(保育所)
1876(明治9)年東京女子師範附属幼稚園発足1938(昭和13)年社会事業法
 「家庭哺育ヲ補フ」 救貧政策としての託児所
 (通称:「保育所」)
 満3歳児以上 就学前の子ども
 担当は「保姆」 担当は「保姆」
1926(大正15)年幼稚園令(法定化)

上の表に見る通り、戦前の幼稚園は、「家庭の哺育」を補完するものであり、したがって幼稚園の内容は「保育」と称され、その保育を担当する者は「保姆」と称された。

以上のような幼稚園が、「公立」さらに「私立」としても全国化していくのだが、他方で、明治末から大正時代に、父母共に終日働かざるを得ない家庭や、母子家庭などのための「子ども預かり所」としての「託児所」がつくられ、それはやがて救貧対策を主とする社会事業の一つとして「託児所」(「保育所」)として公認されていくのである。

小学校に入学する前の乳幼児たちが集い遊ぶ場・・・外から見れば似たような施設が、片や文部省、片や厚生省という相異なる管轄部署となってしまった経緯。ここから日本の幼稚園と保育所との奇妙な「二元化」システムが出来上がっていくのであるが、詳細は省略する。

ただ、戦後、文部省管轄の幼稚園と厚生省管轄の保育所は、ごく初期の段階で「幼保一元化」という形での統合も口にされることはあったが、行政の「縄張り意識」は強固であり、文部省は、やがて「保育」という言葉を「捨てて」、「幼稚園教育」という言葉を基本とするようになっていく。

他方、せっかく「保育」という言葉を「わがもの」とした厚生省管轄の保育所は、「保育」という言葉を冠しながら、「福祉施策」担当の厚生省ゆえに、「教育」ではなく、「普通ではない家庭」のための「社会福祉的」施設に自己限定していくのである。

その結果、「保育所」は、「幼稚園」と差異化するために、入所する子どもを限定せざるをえなくなる。戦前においては、社会福祉とは基本的に「救貧対策」であったが、戦後は「すべての子どもの児童福祉!」を高らかに謳っている手前、「貧しい家の子ども」と括ることはできず、結果として採用されたのが「保育に欠ける」という条件・規定であった。

この「保育に欠ける」という子どもの入所規定は、奇しくも、戦後強調される「男は稼ぎ、女は家事・育児を!」の性別役割分業を前提とし、その社会規範・社会思潮をさらに掉さすものとなっていった。

その後、2015年「子ども・子育て支援新制度」発足に当たって、児童福祉法第24条の保育所への入所規定が、「保育に欠ける」から「保育を必要とする」に改訂されたが、相変わらず、「すべての子ども」を対象にしているわけではなく、今でも、保育所入所に当たっては、両親とりわけ母親の勤務条件・勤務形態が基本的な審査対象になるのは変わってはいない。

さて、再び、岸田内閣の「こども誰でも通園制度」である。

以上のような幼稚園・保育所の歴史的な「制度的相違」が拭えない状況下で、保育所の増設および少子化の加速によって、保育所の「待機児童」問題が下火になり始めるや、今度は逆に保育所の「定員割れ=欠員」が憂えられるようになってきた。

そこで注目されたのが、専業主婦家庭での0歳から3歳の子ども達なのである。これまでは、「お母さんに抱っこされ放題!」(安倍晋三元首相)、子どもにとっても母親にとっても「一番幸せ」なはずの「母と子」なのに、現実は必ずしもそうではない。実は、1980年頃からすでに主婦たちの「育児不安」「育児ノイローゼ」が問題視され始め、最近では「児童虐待」も後を絶たない。さらにまた、子どもが3歳以上でも、子どものさまざまな病気や障害によって、幼稚園に就園できない子どもたちも少なくはない。

こうした中での岸田内閣の「こどもだれでも通園制度」なのである。2024年度中にも全国で50施設ほどのモデル事業を実施し、2026(令和8)年度から全国実施の方向だという。

しかし、これまで、「少子化」の煽りをうけて定員割れを起こす幼稚園や地方の保育所などの現状から、幼保の「総合化」(=一元化)が政策化されるようになったが、結局は、幼稚園を管轄する文科省が頑として統括権を保持し続けた結果、試行錯誤された「総合施設」や「こども園」構想も、すっきりと「一元化」された制度にはなりえず、現在の複雑な「幼保連携型認定こども園」として落着しているのである。

岸田内閣の「こども誰でも通園制度」は、このような「混迷している」日本の幼保制度を知ってか知らずか、・・・定員割れした保育所の「空き」の部分で、こどもを「週1~2回程度」受け入れるという構想なのだ。もっとも、毎日、24時間、子どもと離れる事のできない「専業の」母親たちにとっては、その通園可能な時間がたとえ「束の間」であっても、彼女たちにとっては、ホッと息のつける「解放感」をもたらしてくれるものではあるだろう。(その点は無視したり嘲笑ったりはできない。)

確かに、これまでも2006年6月に制定された「就学前教育・保育推進法」(略称)によって制度化された「認定こども園」では、それ以降、保育所にも「子育て支援サービス」が付加されるようになっている。幼稚園に就園するまでの0歳から3歳の乳幼児が対象である。しかし、「子育て支援」の名称通り、これは常に「母(保護者)と子」とがセットになってのサービスなのだ。

それに比べれば、たとえ母親が就労していなくても、3歳未満の子どもでも、子どもだけで保育所に入所できる!・・・というのは確かに、部分的に見れば画期的ではある。

ただ、2026年度から全国で実施されるというこの「こども誰でも通園」制度は、子ども一人当たりの利用制限が「月10時間」だという。

何という「細切れ」の利用時間であろう。また、子ども達が「慣れない」ことも考慮して、「親子通園も可」と認められたそうである。

しかし、この構想は、子どもにとっても、保育者にとっても、あまりにも「保育」とは遠い構想である。

子どもは、モノではない。「週に1,2回」あるいは「月に10時間」・・・そのような限定された時空間で、子どもと子ども、子どもと保育者、それぞれの関係性がどのように育つというのだろうか。

さらにまた、保育所の0、1歳児クラスには、年度途中で、産休明けや育休後の子ども達が入所してくる大切な「待ち」の空間であることも忘れられてはならないだろう。

Ⅱ.「保育」とは何か?―日本における「保育」概念の矮小化

(1)戦前における教育概念としての「保育」

上記Ⅰの(3)で述べた通り、日本での「保育」という言葉の公的な登場は、1876(明治9)年東京女子師範学校附属幼稚園からである。当時の用語であれば「哺育」「養育」「撫育」などとも近しく、英語のnurse、careにも相当するのだろう。後年、幼児教育学者山下俊郎氏は、次のように解説している。

「保育というのは、教育される対象にしたがって定められた一つの名称であり、また同時にその内に教育の方法についての意味をもこめてよばれる名称でもある。」「つまり、幼児の教育においては、保護と教育とが一体となって、幼弱な子どもをあたたかくつつんでやることが必要なのである。そこでこの保護と教育という意味合いから、幼児教育のことを保育と呼びならわす習慣ができたものと考えられるのである。」注1

「家庭の哺育」を補完するものとしての「幼稚園」は、法的に「学校」の系列には位置づけられてはいなかったが、それでも、文部省管轄であり、広義の「教育」として認知されていたことは言うまでもない。また、文部省は、当初から「幼稚園」の普及を考えており、「簡易幼稚園」もその一つだったようである。

大正年代末にようやく「幼稚園令」が公布されるが(1926・大正15・年)、その施行にあたって、文部省はわざわざ、次のような「注意事項」を訓令として通達している。

― 幼稚園ノ設置ハ固ヨリ之ヲ任意トシ市町村、・・・又ハ私人ヲシテ必要ニ応シテ之ヲ設置スルヲ得シムト雖、父母共ニ労働ニ従事シ子女ニ対シテ家庭教育ヲ行フコト困難ナル者ノ多数居住セル地域ニ在リテハ幼稚園ノ必要殊ニ痛切ナルモノアリ今後幼稚園ハ此ノ如キ方面ニ普及発達セムコトヲ期セサルヘカラス 随ツテ其ノ保育ノ時間ノ如キハ早朝ヨリ夕刻ニ及フモ亦可ナリト認ム 又幼稚園に入園セシムヘキ幼児ノ年齢ニツキテハ・・・特別ノ事情アル場合ニ於テハ三歳未満ノ幼児ヲモ入園セシメ得ルコトトセリ

しかし、実際には文部省自体、それらを具体化する動きはまったく見せてはいない。

ただ、フレーベルはもちろん、ルソー、ペスタロッチの教育思想を学び、現実にも遠くベルリンの「ペスタロッチ・フレーベル・ハウス」を直々に訪れている倉橋惣三は、「保育」概念そのものが広義の教育概念であることを、当時にあっても正確に認識していた貴重な思想家・実践者であった。

「誤謬の中の優劣を論じれば、いわゆる幼稚園式の方が幼児教育として大きい誤りを冒しているかもしれない。それは、教育には必ずしも保育を伴うことを必然としないからである。それに比して、いわゆる保育所風の方は、教育的に稀薄であることはあっても、保育には、それが、もし、保育として真に保育なら、教育的のものを伴うのが当然だからである。」注2

(2)学校教育法と児童福祉法―幼稚園と保育所の二元化の法的基礎

戦後、これから学校教育法や児童福祉法が制定されようとしていた頃、それに少し先だって教育基本法制定過程での、次のような速記録が残されている。

― (説明員、坂元彦太郎)何とかして(幼稚園と保育所とを)一元化できないかということを話し合ってみたのでございますが、しかしいずれも大体似たような勢力でもありますし、まだいずれも一割以下といった収容幼児数でございますので、この際はまずお互いにどっちでもよいから、幼児収容機関が殖える方がよいのではなかろうかというので、私どもとしては不本意ではありましたが、両方とも自分たちの機能を発揮して、幼児教育のために尽くそう、そうして保育内容につきましては、幼稚園の方でいろいろきめて、教育的なものを託児所の方でも見てもらおう、幼稚園におけるいろいろな幼児の保護に対する施設については、厚生省の方でもできるだけの援助をしてもらおうというようなところで、今折れ合って、両方とも並列していくという状態であります。注3

以上に述べられているように、その当時は、「幼児収容機関」という大雑把な認識のもと、大まかには、幼稚園は「教育」、保育所は「保護」という役割分担は認められながらも、「大体似たような勢力」という捉えられ方をしていたことがよく分かる。

その流れの中で、1948年に公刊された文部省の『保育要領―幼児教育の手引き』は、幼稚園の保育内容のガイドラインとして、しかも「手引き」つまりは「参考」として提示され、さらに、この要領内で、保育所や家庭での「保育」についても配慮されているのである。

と同時に、他方の厚生省も、当時は幼児のための施設が、「幼稚園」と「保育所」の看板を二つともに掲げることをもOK!としていたのである。

しかし、いざ学校教育法、児童福祉法が制定され、文部省、厚生省それぞれが動き始めると、「似たような施設」であるがゆえの競合関係(ある地域では、子どもの取り合いが始まる)や、予算の獲得競争など、それぞれの部署の利害関係も際立ってくる。

まず厚生省管轄の保育所規程の変更が生じる。「すべての児童」を対象にした「明るい理念」を謳いあげた児童福祉法ではあるが、1950年を前後して、国の財政負担軽減のためもあって、保育所入所の子どもを限定する必要に迫られる。戦前の「貧困家庭の子ども」を対象とする救貧対策としての保育所では、「明るい児童福祉法」とはそぐわないと思われたのであろうか、結局は、24条の行政の措置規程に取り込まれていた「保育に欠ける」の文言が、第39条にも採用されたのである(1951年)。

― 「保育に欠ける」というのは、一般の家庭であるならとうぜん期待しうる保護養育をうけることができないという意味であって、家庭が貧困であるかどうかはとわない。注4

― 入所している児童自身に精神上または身体上のいちじるしい障害がなく、いわば普通の子供である点も保育所の特色である。このことは、保育所の果たしている社会的機能の大きいことと相まって、児童福祉法に明るい積極的な性格を与えている。注5

以上の「保育に欠ける」の入所規定が、戦後の「性別役割」思想そのものであること、したがって、乳幼児を抱える「家庭」のあり方としては、保育所の「保育に欠ける」規定によって、幼稚園が普通=主流、保育所は例外=特別、という制度的「段差」を設けることになってしまったことはすでに述べた通りである。

(3)1963年「両局長通知」による幼稚園・保育所の行政的解釈(二元化の固定)― それ以降の「認定こども園」に連なる「こどもの三分化」!

官公庁の人間模様・・・厳しい予算獲得競争を余儀なくさせられる各省庁間が、和気藹々と行かないだろうことは推察される。ましてや、同じ「こども」を対象にし、歴史的に曖昧な幼稚園・保育所をそれぞれ管轄する文部省と厚生省。戦前の次のような文書にその一端が伺えよう。

― 本来「保育」と言ふ言葉は幼稚園教育のことを意味するものとして明治以来通用してゐたのであるが、託児所側が「託児」と言ふ名称を嫌って「保育所」と呼び、且昼間託児事業を保育事業と呼ぶやうに厚生省に要求し、厚生省が文部省に無断でかかる名称を許容すると共に、自らも用いてゐることは、託児所の幼稚園化と言ふ事実を物語る一事でもある。注6

もっとも、敗戦直後は、先に見た通り、「幼保一元化」が共通な話題にも上り、それぞれ戦後の新しい法律の下で、双方ともそれなりに明るい「未来」を志向していたかもしれない。しかし、保育所の入所規定が「保育に欠ける」とされて以降、厚生省、文部省とも、双方の「違い」をひたすら強調することとなっていった。

とりわけ、1948年には『保育要領―幼児教育の手引き』を「参考」として発行し、管轄外の保育所や家庭の母親たちをも広く対象としていた文部省であるが、1956(昭和31)年には、幼稚園のみに限定した「幼稚園教育要領」を、強制力を持つものとして告示する。学校教育法には、なお、幼稚園関連箇所に「保育」の言葉が散見されるにもかかわらず、文部省は、これ以降、公式には「保育」という言葉を使うことはなくなった。「保育」とは「保育所」の用語!ということに限定してしまったのであろう。

当時の様子を知っている人の話では、両省とも、上から下まで「犬猿の仲」、互いに話を交わすことも、顔を合わせることもなかった、そうである。

その意味では、1963(昭和38)年、文部省・厚生省の局長同士がまとめ上げた「両局長通知:幼稚園と保育所との関係について」は、確かに、「両省の局長同士が顔を突き合わせた」という意味からも、歴史的かつ画期的なものだったと言えるだろう。注7

しかし、内容的にはいかにも「行政マン」同士の、「法律に忠実な解釈」の域を超えるものではない。

「保育」とは何か?「教育」と「保育」との関係は?「保育に欠ける」とは何か?このような基本的な問いもスルーされ、社会の「性別役割分業」を男女差別の観点からどのように考えるのか、など社会の基本問題を問い直す姿勢なども皆無である。ただ、当面の幼稚園と保育所の関わり(混乱)の整理のみが急務の行政課題だったからであろう。  この通知が確認したことを箇条書きにすると、以下の通りである。

1 幼稚園は学校教育法、保育所は児童福祉法にそれぞれ基づくもので、両者は「明らかに機能を異にする。」
2 保育所の幼児(3歳以上)は、「教育に関する事項を含み、これは保育と分離することはできない。」
3 保育所の「教育」機能部分は、「幼稚園教育要領」に準ずることが望ましい。(つまり、それは「幼稚園該当年齢の幼児」すなわち満3歳以上児に関することである。)

この3か条を、いま一度言い換えてみよう。

幼稚園は、満3歳からの「教育」機関である。
保育所は、0歳から就学前までの乳幼児の「保育」機関である。ただし、入所に当たっては、「保育に欠ける」条件を満たさなければならない。
保育所の満3歳児以上に関しては、「幼稚園教育要領」に準じた「教育」を織り込んだ「保育」を展開すること。

こうして、この「両局長通知」は、「保育所保育」は福祉であること、「幼児教育」は「満3歳以上・就学前」の幼児を対象とする幼稚園で行われるものであり、その内容は「幼稚園教育要領」に基づくものである、と現状を再確認するのである。したがって、ここでは、戦前から続いてきた幼稚園教育の「保育」概念は、ものの見事に切り捨てられ、厚生省管轄にされた「保育所」は総体「福祉」であると規定づけられ、生憎、年齢がダブる幼稚園該当児である「満3歳以上児」に対しては、文部省発の「幼稚園教育要領」を参考にすべし!・・・法律に準拠するとはいえ、有無を言わせぬ文部省からの「お達し」となっている。

もちろん、これ以降も、少子化の進行、幼稚園・保育所の定員割れなどを根拠に、特に財政面からの対策として、「幼保一体化」の試みは繰り返されている。

主なものを列挙しておこう。

(1)2006年6月 「就学前の子どもに関する教育・保育等の総合的な提供の推進に関する法律」(略称「就学前教育・保育推進法」)の制定

これは、2003年から始まる小泉純一郎首相のリーダーシップの下、幼稚園と保育所を一体化した「総合施設」が目指されたものである。しかし、その現実態としての「認定こども園」は、幼保連携型・幼稚園型・保育所型・地方裁量型の4類型に分けられてしまった。さらに東京都などでは、この幼保連携型が「並列型」と「年齢区分型」等々、よりさまざまな「型」を作り出すことにもなっている。

(2)2012年8月 「子ども・子育て関連三法」成立。内実は「認定こども園法」(改訂)、子ども・子育て支援法、その他、である。

これも、2009年に発足した民主党政権下で、「チルドレン・ファースト」をモットーにした所得制限ナシの「こども手当」と並んで、完全な「総合こども園」が構想され提起されていたのであるが、しかし、東日本大震災・福島原発事故も相まって、民主党政権のリーダーシップは低下し、最終的には自民党・公明党との妥協を余儀なくされた。

(3)2015年4月 安倍晋三内閣の下で、「子ども・子育て支援新制度」が開始される。

改訂された「認定こども園法」に基づく「幼保連携型認定こども園」の拡充を基軸にしながら、幼稚園・保育所の今後の統合を目論むものでもある。

そして、これ以降は、2023年4月、岸田文雄内閣の下での「こども家庭庁」の発足に続く。しかし、保育所を管轄する厚労省の子ども関連事業は、これまでの「内閣府」からそのまま「こども家庭庁」に移管されるが、一方の幼稚園に関係する文科省は、これまで同様、あくまでも「こども家庭庁」と「連携」する姿勢を保持している。

幼稚園を管轄する文科省の権限は強固である。

そのことに由来するのでもあるだろうが、「幼保一体型」としての「幼保連携型認定こども園」が着実に増えていっているとしても(2021年、6269カ所。因みに幼稚園数、9418カ所、保育所数、23884カ所)、その幼保連携型認定こども園では、入園しているこども達が三類型に分けられているのである。もちろん、行政上の事務処理のためではあるだろうが、同じ一つのこども園で、こども達が常に次のような「行政目線」でグルーピングされている。

第1号認定のこども=満3歳以上、幼稚園に準じる「通常教育」
第2号認定のこども=満3歳以上、夕方までの教育・保育(保育所に準じる)
第3号認定のこども=満3歳以下、夕方までの長時間保育(同上)

さらに、せっかく幼稚園と保育所を「連携」させて制度化した(はずの)「認定こども園」でありながら、わざわざ別個の呼称が新たに作り出されているのである。

幼稚園・・・教諭、「幼稚園教育要領」
保育所・・・保育士、「保育所保育指針」
幼保連携型認定こども園・・・保育教諭、「教育・保育要領」

子ども一人ひとりの身体的・精神的状態に応じつつ、かつ家庭の状況をも踏まえつつ、柔軟になされるはずの0歳から就学前の子どもの「保育・教育」が、なぜ、ここまで無意味に複雑化されなければならないのだろうか。日本の「保育・教育」は、ここだけをみても混迷の極みである。

(注)

(注1)山下俊郎『保育学概説』厚生閣、1969年版、p.14—16

(注2)『倉橋惣三選集』第4巻、1967年、p.274

(注3)衆議院教育基本法案特別委員会議録速記第5回(1947年3月19日)p.59-60 (岡田正章『保育学講座3』フレーベル館 1970年 p.126-127)

(注4)高田正巳『児童福祉法の解説と運用』時事通信社、1951年、p.145

(注5)高田浩運『児童福祉法の解説』時事通信社、1959年、p.268‐269

(注6)文部省教育調査部『幼児教育に関する諸問題』1942(昭和17)年、p.28(岡田正章、前掲書、p.68)

(注7)「文教畑」であった福田繁と「福祉畑」であった黒木利克が、九州の同郷、東大の同窓、3歳違いの同世代ということもあり、当時の灘尾弘吉文相の下、この「通知」をまとめあげた経緯は、松島のり子「1963年『幼稚園と保育所との関係について(通知)』の政策的意図」(お茶の水大学人文科学研究第19巻・2023)に詳しい。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

 

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