この一冊

『老人支配国家 日本の危機』エマニュエル・トッド著/文春新書/2021.11/935円)

欧州「左派」の「観念的理想論」への痛撃

日本の怠惰な「少子化対策」も徹底批判

本誌編集委員 池田 祥子

『老人支配国家 日本の危機』(エマニュエル・トッド著/文春新書/2021.11/935円)

『老人支配国家 日本の危機』(エマニュエル・トッド著/文春新書/2021.11/935円)

エマニュエル・トッド

1951年フランス生まれ。歴史家、文化人類学者、人口学者。ソルボンヌ大学で歴史学を学んだのち、ケンブリッジ大学で博士号を取得。各国の家族制度や識字率、出生率、死亡率などに基づき現代政治や社会を分析し、ソ連崩壊、アラブの春、トランプ大統領誕生、英国EU離脱などを予言したことで「有名」である。

主な著書に、『経済幻想』『帝国以後』『家族システムの起源』『世界の多様性―家族構造と多様性』(以上、藤原書店)、『シャルリとは誰か?』『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(以上、文春新書)、『グローバリズム以後』(朝日新書)などがある。

世界の家族、五つの型

E・トッドは、人間形成の基層を担う「家族」に着目し、実証的な研究の結果、次の五つの型を提示している。世界各国の政治、経済との関連も深いため、初めに紹介しておこう。

「絶対核家族」・・・英米中心――子どもは早くから親元を離れ、結婚すると独立した世帯を持つ/遺産相続は親の意思による遺言で決まることが多い/親子関係は自由/兄弟間の平等は重視されない

「平等主義核家族」・・・フランス北部、スペイン、イタリア北西部――子どもは結婚すると独立/相続は、男女別なく、子どもたちの間で平等

「直系家族」・・・ドイツ、フランス南西部、スウェーデン、ノルウェー、日本、韓国――通常は、男子の長子(時には末子)が跡取り/結婚した後も父の家に住んで、すべてを相続/親子関係は権威主義的、兄弟間は不平等

「共同体家族」・・・男の子は全員、結婚後も親の家に住み続ける、一つの巨大な「共同体」となる/相続は平等だが、親子関係は権威主義的

(そのⅠ)「外婚制共同体家族」(イトコ婚を認めない)・・・中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア中部トスカーナ地方

(そのⅡ)「内婚制共同体家族」(イトコ婚を選好する)・・・アラブ地域、トルコ、イラン(ユーラシア大陸中央部の広大なエリア)

一考に値するE・トッドの提言

本書を取り上げたいと思った主な動機は、日本の家族のあり様と、それに規制される「非婚・少子化」傾向に警鐘を鳴らしているE・トッドの見解を、改めてじっくり考えてみたいと思ったからである。しかし、本書には、それ以外に、E・トッドの世界認識、現状認識がザックバランに展開されている。

「左派」の人間である私にとっては、E・トッドの見解・提言は、どちらかと言えば首を傾げたくなるものも少なくないが、「理想を掲げて現実を疎んじる」というこれまでの「左派」の習性や限界の指摘とともに述べられる時、今しばし、彼の「現実主義的な」意見にも耳を傾けてみようと思い直している。以下、いくつか紹介しよう。

 ①世界をリードしてきた英米

フランス人であるE・トッドは、以下に見るように、近代史の中で、とりわけ英米に着目し、彼らの「経験主義」「近代国民国家=ナショナリティ」を評価している。

――17世紀末以降、世界史にリズムを与え、これを牽引してきたのはアングロサクソンの英米で、この構図は今後も大きくは変わらないでしょう。私はフランス人ですが、個人的にも、フランスの哲学や観念論より、英米の経験主義に敬意と共感を抱いています(p.3)。

――17世紀末から世界史にリズムを与え、牽引してきたのは、英米です。このことをフランス、日本、ドイツ、ロシア、中国の人々は謙虚に受けとめなければなりません(p.109)。

――英国人が発明した近代国民国家は、資本主義の発展に必要不可欠でした。実際、英国と米国の経済的離陸は、非常に高い保護主義の障壁があったからこそ可能になったのです(p.113)。

――米国、英国においては、現行システムへの反逆が、そのシステムを支えている体制の内部から起こったのです。ボリス・ジョンソン、ドナルド・トランプは既存体制内で優位な立場にある人間です(p.104)。

さらに、シュンペーターが『経済発展の理論』(岩波文庫)の中で述べた、「〝創造的破壊”を起こせなければ資本主義はダイナミックに動かない」という結論を受けて、E・トッドは、重ねて自分の考えを強調している。

――(英米のリードについて)その深い理由は・・・英米の伝統的家族形態、すなわち「絶対的核家族」にあります。絶対的核家族においては、子供は大人になれば、親と同居せずに家を出て行かなければならない。しかも、別の場所で独立して、親とは別のことで生計を立てていかなければならない。・・・これらのことが、シュンペーターの言う「創造的破壊」を常に促していると考えられます(p.112)。

 ②アメリカの「民主主義」―民主主義の隠された土台

――米国をつくった英国人たちは、そもそも人類の平等性を信じていませんでした。彼らがどうして民主主義的な理想を信じるに至ったかを説明するには、次の経緯を認めるほかありません。すなわち彼らは、まず先住民、続いて黒人という、白人以外の人種グループに劣等のレッテルを貼り付けることで初めて、米国では白人はみな平等なのだと思えるようになったのです(p.97)。

――民主主義はそれが始まったときから、自分たちを特別だと考えて、それ以外の者を排除し、そうすることでグループを成し、その内部で討議をする、ある特定の集団のものでした。英国の民主主義は、カトリックのローマ教会と袂を分かったプロテスタントの社会を母体として生まれ、米国の民主主義は、白人が社会から先住民や黒人を排除することで生まれました。/民主主義には、その発生時からエスノセントリックな(自民族中心主義的な)側面が埋め込まれているのです。ところが、「左」の政治勢力には、国際主義的、普遍主義的、グローバリズム的な価値観が非常に深く浸透している・・・。/これらのことが、民主主義の〝失地回復”が常に「右」で起きる理由です。つまり、左派が普遍主義的な価値観に足を掬われて、民主主義のエスニックな側面に遡及できず、もたもたしている間に、右派政党は自らにもともと備わっているその側面を打ち出すことで、自然と民主主義の〝失地回復”を求める票を集めてしまうのです(p.117‐118)。

――左派政党は文化的差別を排することに執心するあまり、実際には国際的な寡頭制(グローバル化した金融資本による支配)を代表することになってしまう。米国の民主党、フランスの社会党などがその例です(p.118)。

 ③EUおよびユーロ批判

E・トッドの「左派」批判は、EUの現実や「ユーロ」という共通貨幣に対して、さらに舌鋒鋭く、「〝牢獄”のようなEU」という言葉すら投げかけている。

彼の引用ばかりが続くが、いま少し、彼の言い分を聞くことにしよう。

――(欧州はユーロとともに死滅しつつある)・・・もともと1991年のマーストリヒト条約での「単一通貨を遅くとも1999年までに導入する」という合意に基づくものとして、(ユーロは)1999年決済用仮想通貨として、2002年には現金通貨として導入された(p.171)。

――遠い日本から見れば、ヨーロッパは一枚岩に見えるかもしれませんが、家族形態、言語、宗教、文化などは地域ごとに相当異なります。これほど多様な社会に単一通貨を導入しても、絶対に機能しません。マーストリヒト条約の間違いの元は、その「貨幣信仰」にあります(p.172)。

――EUのエリートたちは、単一通貨によってEU諸国の統合を加速しようとしたのです。これは1000年にもわたるヨーロッパ史のなかで培われてきたそれぞれの共同体を単一通貨によって数年のうちに融合してしまおう、という急進的なユートピア的夢想です(p.173)。

――ユーロ考案者は、単一通貨によってヨーロッパに平和で平等な世界が生まれると夢想しましたが、むしろ「弱肉強食の世界」が生まれたのです(p.174)。

――それぞれの国民経済は、通貨管理に関して独自の必要性を抱えています。各国は、独自の金融政策、通貨政策をもち、インフレ率をコントロールして失業率を改善するなど自国経済を善導しなければなりません。また「独自の通貨政策」に「独自の財政政策」が伴わねばならない(p.173)。

――戦後、平和をもたらすために必要で、かつ正統な理想でもあった「ヨーロッパ統合」というプロジェクトは、徐々にヨーロッパの人々の相互の敵対感情を生み出すものに変質しました。極右ポピュリズムは、通貨統合の産物です。単一通貨によって人々の精神までも不安定になっているのです(p.176)。

因みに、1992年、フランスでの「マーストリヒト条約」批准のための国民投票が行われた際(賛成51%の僅差)、E・トッドは反対票を投じ、次のような非難の弁を投じている。

「単一通貨構想はあまりに経済至上主義的で、あまりに現実無視の企てに見えたからです。ユーロは、ヨーロッパの歴史や現実の生活を知らない〝傲慢な無知の産物”〝机上の空論”です」(p.172)。そして、今も、「独り勝ちしたドイツ」と「疲弊しているその他の国々」を苦々しく見つめている。  

かつて、私の友人たちは「エスペラント語」を習得しようとしていたし、私自身もこの「世界共通言語」というものに憧れを持っていた。さらに「戦争反対」の思想とともに「アンチ国家」から「脱国家」を希求したこともある。そのためか、「ヨーロッパ統合」というEUやユーロに対しても、あまりにも呑気に眺めていたのかもしれない。それぞれの「国民国家」の歴史、文化、また経済における政治権力の働きなどについて、いま少し、「現実」に即して見なければ・・・と、E・トッドの指摘が徐々に浸透して来るのを感じる。

 ④「核兵器」について

人間の「科学的な知」が獲得し、到達した地平・・・「核兵器」について、私にとっては議論の余地なく、「即刻廃棄!」と考えているが、あまりにも遠大すぎて、実はこれもまた非現実的な願望なのかもしれない。どのようにして、「核兵器反対!」の世界的同意が得られるのか、また、たとえ万一、それが叶ったとして、現実的にどのような科学的処置によって、世界の核兵器が「廃棄」可能なのか・・・実は、私もまた、思考を停止したままなのである(というより、手に負えない?)。

E・トッドは、躊躇うことなく「核兵器」についても自説を堂々と述べているが、この点については、私はやはり保留したい。ともあれ、「核兵器」が存在している人間界には住みたくない!は、偽りなき心底からの願望だからである。

――核兵器は、軍事的駆け引きから抜け出すための手段であって、核の保有は、私の母国フランスもそうであるように、攻撃的なナショナリズムの表明でも、パワーゲームのなかでの力の誇示でもありません。むしろパワーゲームの埒外に自らを置くことを可能にするのが核兵器です。核とは「戦争の終り」で「戦争を不可能にするもの」なのです(p.⒔)。

――使用する場合のリスクが極大である核兵器は、原理的に自国防衛以外には使えないからです(p.⒕)。

日本を憂うるー「直系家族病」としての少子化

本書のタイトルは『老人支配国家 日本の危機』である。全面的に「日本の危機」が分析され指摘されているものと早やとちりしたのは、私だけであろうか。実際は、上記のとおり、「英米国の歴史と、歴史を創り変える力」「EUとユーロ批判」が半ば以上を占め、肝心の「日本への警告」は後半におもむろに登場している。

ただ、「ソ連崩壊」や「中国経済の隘路」を予言し指摘してきた彼の「家族形態論」「人口統計」を根拠にする方法論に基いているため、日本の「進行し続ける少子化社会」への批判は、断固として揺るぎがない。

――核家族システムのフランスでは、親を養おうという意識なんて希薄ですよ。婚外子の存在も普通のことですし、ひとり親でも子育てできる社会システムが整っているので、出生率も2.01にまで押し上げられています。

日本では、直系家族の価値観がますます少子化を進めていると思います。歴史人口学者として言っておきますが、日本における最大の問題は、「人口減少」と「少子化」です(p.225)。

「直系家族」の利点が今や「短所・病」に

――「家族」を重視することで、日本の優れた社会の基礎が築かれてきたわけですが、例えば子育てのすべてを「家族」で賄うことなど、もはやできません。老人介護も同様です。「家族」の過剰な重視が「家族」を殺す-「家族」にすべてを負担させようとすると、現在の日本の「非婚化」や「少子化」が示しているように、かえって「家族」を消滅させてしまうのです。「家族」を救うためにも、公的扶助によって「家族」の負担を軽減する必要があります。/日本の「少子化」は「直系家族の病」と言えます。日本の強みは、「直系家族」が重視する「世代間継承」「技術・資本の蓄積」「教育水準の高さ」「勤勉さ」「社会的規律」にありますが、そうした〝完璧さ”は日本の長所であるとともに短所に反転することがあり、今の日本はまさにそうした状況にあるのではないでしょうか(p.15)。

「少子化対策」と「移民受け入れ」

――移民を受け入れない日本人は「排外的」だと言われますが、私が見るところ、そうではなく、仲間同士で摩擦を起こさずに暮らすのが快適で、そうした〝完璧な”状況を壊したくないだけなのでしょう。しかし出生率を上げると同時に移民を受け入れるには、〝不完全さ”や〝無秩序”をある程度、受け入れる必要があります。子供を持つこと、移民を受け入れることは、ある程度の〝不完全さ”や〝無秩序”を受け入れることだからです(p.16)。

――私は基本的に移民を擁護する者、移民主義者です。ただし、移民の無制限の受け入れを無責任に擁護する者ではありません。移民の受け入れは人々の文化的な差異に注意しながら慎重に進めるべきだからです(p.73)。

――そもそも「移民受け入れ」と「少子化対策」は、二者択一の問題ではありません。双方を同時に進める必要がある。というのも、低出生率のまま移民受け入れのみを進めてしまえば、若い世代において「ホスト国住民」と「移民」との人口バランスが崩れてしまうからです。そうなると、移民の健全な社会統合もできなくなります。移民を受け入れるためにも、出生率を上げ、若い世代を増やす必要があるのです(p.72-73)。

以上が、E・トッドの日本社会の「家族形態」と「少子化」現象への警鐘、およびいくつかの解決のための提言である。

しかし、社会の基底部分である「家族」のあり様を変えていくことはなかなかに手強いことである。しかも日本の場合は、政権与党を初めとして、「日本の伝統的家族」への拘りがいまなお根強い。そのためか、「選択制」の「夫婦別姓」を進める法案ですら、30年近く棚ざらしである。

また、いわゆる「世間」においても、以下の「常識」は「したたか」である。

・結婚相手の選択軸は、男性の経済力/女性の「若さ」「家事力」

・子育てにおける、母役割の強調

・子育ての「成果」としての「学校進学」「有名大学選択」 etc.

一方、E・トッドは、「日本は秩序の社会で、決定が上から下される社会ですが、それでいい、『上からの改革』に合った社会だからです」(p.82)と奇妙な誉め方をしている。だが、「タテ型社会日本」では、官僚内部では「忖度」、書類やデータの破棄、さらには統計の改ざんも目新しくはない。

ただ、そうだとしても、E・トッドの指摘する「日本の少子化」にまつわるさまざまな「危機」に対して、「上」も「下」も、傍観が許されないのは事実であろう。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

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