特集 ●歴史の分岐点か2022年
かつて「一人の命は地球より重い」という言葉
があった
コロナウィルス感染症による死者の行方について
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
七回目の問題提起
コロナウィルス感染症が、世界中に蔓延し始めてから二年以上が経った。日本でも、二年前の今頃から、これは大変なことになると騒がれ始め、小中高の全国一斉休校、全世帯への布製マスクの配布、国民全員定額給付金支給などの対策が打たれ、日本全体に事態の深刻さの認識が浸透していった。本誌でも、容易ならざる事態に直面して、緊急声明を発しようということになり、筆者に原案の執筆が任されることになった。「新型コロナが我われに突きつけるもの」(本誌22号「緊急発信――新型コロナの危機に直面して」)がそれである。
その中で筆者は、次のような問題を指摘した。すなわち「危機をもたらすものは、直接的には未知のウィルスに違いないが、それを増幅させているのは人間の愚かさである。根拠のない希望的観測、硬直した先例主義、権力欲、自分だけ良ければという利己主義、差別・偏見、呪術的信念による現実逃避、意識的・無意識的な情報の歪曲・隠蔽・操作、善意に装われた欺瞞等々の愚かさとそれを隠蔽しようとする小賢しさが、対応の間違いや遅れを招き、事態をさらに悪化させる」と。
それから約二年が経過した今、ここで指摘した問題は解消しただろうか。ワクチンと治療薬の登場で局面は変わった、コロナウィルスは変異を重ねて弱毒化した、もはやインフルエンザかただの風邪になった、オミクロン株の蔓延もピークアウトしつつある、欧米諸国に比べて感染者も死者もはるかに少ない、経済が止まれば自殺者が増える、いつまでも自粛は続けられない、感染者数より重症化率を重視すべきだ、検査で感染は防げない、医療提供体制を守るために自主隔離、検査なし診断を認めるべきだ、オミクロン株はもう別種のウィルスだからこれからはウイズコロナでいくべきだ、欧米諸国ではそれに向けて舵をきっている、等々、コロナパンデミックから以前の日常生活への復帰を主張する声が、このところ一気に高まった感がある。
しかし、現実は厳しいままである。一月中頃から感染者数は急激に伸び始め、日に日に最多を更新し、とうとう一日に十万を越えるに至った。すると、たちまち抗原検査のキットやPCR検査の試薬が不足し始め、検体採取用の綿棒すら底をつくという事態になった。ワクチン接種要員も足りなくなり、三回目のブースター接種者の比率は一桁にとどまり、OECD加盟国中最下位という不名誉な状態。治療薬の処方も、感染初期の有効な時期に間に合わない可能性が指摘されている。ある程度予想されていたことではあるが、急激な感染者の増加によって、コロナ以外の患者ケア、救急対応にも支障が生じ、医療崩壊が始まり、その一方で重症者・死者が増加するという深刻な状況が迫ってきた。
こういう状況に対して、政府・自治体は、必要な人に必要な医療を届ける、感染防止と経済・社会活動の維持の両立を図る、というもっともらしい位置づけの下に、検査なし診断とか、抗原検査による自己判断にもとづく自主隔離を容認するという感染の実態把握を困難にする方策を採用し始めた。実態把握は、感染症対策の基礎中の基礎のはずであるが、政府・自治体はどういうわけかそれに熱心ではない。コロナパンデミックのごく初期に保健所業務の逼迫が問題になり、ファクスによる情報集約の非能率が批判されることがあったが、いまだにその実態が改善されず、一万数千件の感染情報が登録されていなかったことが明らかになった。感染の広がるスピードに追いつかない脆弱極まる検査体制、統計の基準となる症状分類あるいは自主申告・検査抜き診断の集計方針の不統一、検査・統計をめぐる混乱は、どうやら初期段階からある対策の基礎をどこに置くかという問題意識の低さに起因しているとしか考えられない。
筆者は、前述の声明執筆以来、毎号コロナパンデミックについて原稿を書き続け、これで七回目になるが、このように初期段階で指摘した基本的問題が未解決のままであることに、正直に言えばいささかガックリせざるを得ない心境である。しかし、パンデミックに終わりが見えたと確信できるまでは、何回でも問題提起をつづけるしかないとも思う。
相変わらず「やってる感」のオンパレード
これも初期段階からよく見られた光景であるが、パンデミック対策として何か新しい事を企てると、必ずと言っていいほど、自治体の長達は、キャッチフレーズを書いたボードを掲げて記者会見をおこなっていた。マスクをしたり、災害時用の衣装を着たりして「やってる感」をみなぎらせていた。また感染症対策の新しい施設が作られたりすると、政治家がお供を引き連れ、視察をする姿がテレビの画面に映し出されていた。近頃は、新しいキャッチフレーズも考えつかなくなったか、その効果に見切りをつけたか、ボードを掲げる姿はあまり見かけなくなったが、施設の視察は、相変わらず行われているようだ。
最近も、無症状の陽性者、軽症の療養者を収容する施設を視察する都知事の様子が、テレビのニュース番組で取り上げられていた。感染症対策の基本からすると、無症状・軽症を問わず感染を広げる可能性のある陽性者を隔離することは、検査によって感染者を発見することと並んで極めて重要な役割を果たす処置である。自宅療養や自主隔離では、他者との接触を完全に断つことが難しく、陽性者を専用の施設に収容する方がベターであることは間違いない。当初、隔離のための施設は、ホテルを借り上げるという方法で調達された。しかし、ビジネスホテルの狭い部屋に閉じ込められ、賞味期限切れ寸前の弁当で十日も我慢しろというのは相当の無理があった。また、ホテル側の不慣れもあって、部屋の運用にも無駄が多く、利用しようという陽性者も多くなく、空きが多いという問題があった。
そこで、建物全体を隔離専用にし、収容者も狭い部屋に閉じ込めるのではなく、それなりにくつろげる共用スペースも準備した施設が整備されたという。知事もその施設を視察し、いかにも新しい対策をとったかのような振りをしていた。ところが、その施設の収容人数たるや必要数の十分の一にもみたない数で、感染者が急増した事態においては焼け石に水と言わざるを得ない体たらくで、「やってる感」を演出しただけと批判されても仕方のない状態であった。
これと同じようなことは、第五波の流行期にもあった。入院先が見つからない重症化寸前の患者のための臨時の酸素センターも、やっと動き出す体制ができた時には感染のピークは過ぎていた。事程左様に、政治・行政のやることには、「やってる感」を見せるだけですか、と言いたくなるようなことが少なくなかった。
考えてみると「やってる感」などという言葉も妙な言葉である。筆者だけの造語ではないと思うが、筆者の場合は、政治家が乱発する「スピード感をもって」という言葉に倣って、実体は無いのに、あたかもそれがあるかのように人に印象付けるだけの行為を表現しようとして使うことにした。「スピード感をもって」というのは、「スピードを上げて」ということではない。人がスピードを上げてやっているように感じられるように何事かをなすということを意味する。そこでは、実際にスピードが上がっているかどうかは問題ではない。速そうに感じられればそれで十分なのである。
もちろん、「スピード感をもって」という言葉を乱発している政治家に、その言葉は上述のように解釈できますよといえば、とんでもない、一生懸命速くやるつもりだと答えるに違いない。実際、そう思っているのかもしれない。しかし、「スピードを上げます」というと、それではどのくらいの速さでとか、いつまでに、とか具体的に返答を要求されることになるので、そういう追及を避けたいという心理が働いていることは否めないだろう。その心理からくる誤魔化しの表現法は、政治家や官僚の習性になって彼らの精神に深くしみついているように思われる。
そのように習性化した、政治家や官僚の事態への対し方を「曖昧化戦略」と命名しよう。この曖昧化戦略は責任逃れと連動し、正確な情報の蓄積と公開を忌避する態度とも相まって、事態の展開に追いつかない「後手後手政治」の原因となっているのである。
経済優先政治への転換を妨げているもの
ワクチン接種が進み、検査体制も確立し、感染が拡大しても重症化率は下がり、死者も増えていないとして、欧米諸国のなかで感染対策の規制を解除する動きが広がっている状況に刺激されたか、日本でも規制緩和政策に転換すべきだという「経済優先派」の主張が強くなってきた。彼らは、ウイズコロナに転換せよ、インフルエンザ並みに感染症法上の扱いを改めろ、検査は無駄だ、経済を回せ――最近は、「経済社会を回せ」、「社会を動かす」というような表現をとることが多くなってきたが――という主張を繰り返している。「社会を動かす」というのは、オミクロン株の強い感染力のためにエッセンシャルワークの担い手が奪われる事態に対して、感染したか濃厚接触者になった場合の隔離期間を短縮せよという要求で、規制緩和を「経済を回す」よりも受け入れやすいと思われる「社会を動かす」という名目で実現しようという判断が背後にあるようだ。
それはともかく、日本では経済優先派の声が相当高まっており、民間の資本家、経営者、マスコミ、評論家、コメンテーター族さらには政治家、官僚などの間に相当浸透していると思われるが、政府や自治体は経済優先・規制解除に踏み切ろうとはしていない。政府や自治体の中にも、新自由主義や自己責任論にシンパシーを持つ政治家、首長、官僚は少なくないはずだが、イギリスのジョンソン首相やデンマークのフレデリクセン首相のように明確に規制解除を宣言しようという動きは見えていない。それは、明らかに新自由主義的であり、自助・自己責任を強調した菅政権の失敗を受けて登場した岸田政権の姿勢によることもあるであろう。
しかし、経済優先・規制解除に踏み切らせない要因は、もっと深いところにあるようだ。岸田政権といえども、しょせん自民党政権である。自民党政治に構造化された情報改竄、責任逃れの曖昧化戦略をとる「後手後手政治」には、良いことであれ、悪いことであれ、思い切った方向転換はできはしないと見ることもできるかもしれない。
筆者には、そのような根拠ではまだ不十分な気がしてならない。そういう政治の世界の論理ではなく、社会的意識とでもいうべき領域に決断をためらわせる要因があるように思われるのだ。「一人の命は地球より重い」という言葉に象徴されるような生命観・倫理観が、社会的意識として相当浸透していることが、そうした決断を妨げる根拠になっているのではないだろうか。そういう生命観が、医療が逼迫し、誰にでも等しく治療が受けられる条件が失われ、治療を受けられる者と受けられない者とを選別しなければならない状況を受け入れられないか、そういう状況を避けるために最善を尽くさなければならないと考えさせようとする。
「経済を回さなければ自殺者が増える」ということが、実は証明されていない命題であるにもかかわらず、一定の社会的理解を獲得しているのも案外同じ根拠に基づいている。多くの人は、「経済を回す」という言葉よりも「自殺者が増える」という言葉にまず反応しているのである。そして、極めて逆説的であるが、この反応には、「経済を回せ」という論理を批判する可能性が潜んでもいる。経済を回わしても、格差が拡大する一方なら自殺者は減るどころか増大する。「経済を回さなければ自殺者が増える」というなら、「経済を回したら自殺者が減る」と言いうるのか。そのことも、簡単には証明できないはずである、と。
生命の重さを再確認するために
ところで、「一人の命は地球より重い」という言葉は、何時頃から言われるようになったのであろうか。インターネットの検索で得られる情報では、ダッカ空港日航機ハイジャック事件の際に、犯人側の要求に応じた当時の首相福田赳夫が発した言葉から広がったとされることが多いようである。1977年バングラデシュのダッカ空港で、日本赤軍派によって引き起こされたこの事件では、乗客・乗員百数十名が人質となり、赤軍派を含む服役あるいは勾留中の左翼活動家九名の釈放と多額の身代金が要求された。福田首相は、人質救出を最優先とし犯人側の要求に応じた。この措置は、当時の日本の法制度上では根拠づけが困難であったが、人命救助のための「超法規的措置」として実行された。この措置の妥当性について問われた首相が、その言葉を以て答え、それから社会に広がったというのである。
しかし、筆者の記憶では、その言葉はそれ以前から聞いていた。今はコロナ下でなかなか調べに出かけられないが、小学校や中学校で、戦争が語られる際にその言葉そのままではないかもしれないが、同じ趣旨の言葉は何度も聞かされたような気がしてならないのである。そういう経験が積み重ねられ、社会的に広がっていたからこそ、首相が超法規的措置を正当化する根拠になり得たのであろう。
つまり、戦後の反戦平和教育によって育まれた生命観・倫理観が、一歩間違えれば優生思想に転落しかねない新自由主義的経済優先思想・自己責任論に基づく弱者切り捨てのコロナ対策放棄を阻止していると言っても過言ではないかもしれない。コロナによって引き出されたものが、人間の愚かさばかりであるとすれば、それはあまりにも寂しすぎる。二万人に近づいた死者の魂も、行き場を失って彷徨うばかりになりかねない。
そう言えば、政治家・官僚のみならず、規制解除を主張する「専門家」や評論家の口から死者を悼む言葉が発せられるのをあまり聞くことがなかったような気もする。マスコミでも、志村けんさんの死に対して示された問題、たとえば親族といえども臨終や火葬に立ち会えない、葬儀も十分にはできないというような問題がどうなっているのかについての報道も著しく少なくなっている。もちろん経済活動の復活の必要性を否定するわけではないが、死者をどう遇するかということも、人間にとってエッセンシャル中のエッセンシャルな問題であることに思いを致さないわけにはいかない。コロナパンデミックも二年目に入り、その関連の問題を論じるのも七回目になったが、取り組むべき課題はますます重くなってきた。軽々に「コロナ後」を論じるわけにはいきそうもない。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
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