特集 ●歴史の分岐点か2022年

東アジアの民主化と平和の思想

追悼・池明観さん――韓国の対日文化開放を成しとげた、歩き、思索し、
対話する人

本誌編集委員・出版コンサルタント 黒田 貴史

亡命者の部屋

「小さなラジオよ、亡命の間も真空管がこわれないように、気を付けて家から船に、船から汽車にお前を運んだ。敵どもの声がこれから先も私に届くように。僕のベッドのわきでお前は僕を苦しめる。最終放送はま夜中、一番は早朝。敵の大勝利ばかり知らせ、僕には苦痛だ。約束してくれ、お前は突然に黙りこんだりはしないと」(ブレヒト「小さなラジオに」、岩淵達治訳)

池明観さん(2015年8月)

ドイツの劇作家ブレヒトがナチの独裁から逃れた亡命先でつくった詩。この詩にはブレヒトの盟友といえる作曲家ハンス・アイスラーが曲をつけている。1分ほどの短い曲だが、シューベルト、シューマンらのドイツ歌曲につらなりつつも、個人の心情を歌いこんだ19世紀作曲家たちとは異なる新しい叙事的な世界に私たちを導く。

この曲を耳にするたびに、私は40年近く前の記憶にひき戻される。当時、都内の私立大学に通っていた私は、講師として週に一回開講されていた池明観先生の講義を聞いていた。数人の仲間とともに講義の終了後も先生をつかまえては、あれこれの質問をぶつけていた。

「韓国で独裁政権を批判していたころ、軍と警察のスパイにいつも尾行されていました。ただ、警察のスパイは生活のためにその仕事をしているだけで心情的には民主化運動にシンパシーをもって いたようです。

ある月末、家を出た私に近づいてきて、こんなことをいいました。『先生、今月は予算を使い切ってしまって今日は尾行できません。それでも報告書は書かなければなりません。今日どこに行ってどんな話をするか教えてください』。では、こう書いておきなさいと、その日の私の予定を教えました。

それからしばらくして、同じように朝、私に近づいてきましたが、とても緊張していました。『先生、今日は軍がおかしな動きをしています。今からいうところは危険ですから、絶対に近づかないでください』。

軍の独裁政権といっても、こうして民はしたたかに生きています。おそらく、ファシズムの時代の日本はもっと厳しかったでしょう。韓国では、民衆が私たちを支持してくれているという実感があったからけっして孤独ではありませんでした。むしろ、三木清のような日本の知識人は本当に孤独だったのではないかと思います」

英雄的な話が多い「韓国からの通信」には登場しないこういう話を伝えることで、若い日本の学生に、一枚岩ではない韓国社会の多様な姿を伝えようとしていたのかもしれない。

私たちは、こんな話を聞き出しては、文字のうえでしか知る機会がなかった韓国の人びとのことを思いうかべていた。そうやってしつこく食い下がっていたためだろう。その年のクリスマスに、早稲田にあった先生の部屋によばれることになった。

「今は、ワイフがソウルから来ていますから、ごちそうできます」といわれ、数人の仲間たちとうかがった。当時は、ソウルにいた息子さんたちは出国できず、ただ一人夫人がソウルと東京を往復して家族をつないでいた。2DKくらいの部屋にはスチールの本棚が2つほどと机、それに料理が並ぶテーブルしかなかった。そのときに亡命者の暮らしとはかくも質素(味気ない)なものかということを思いしらされた。人は日常生活を送っていれば、往々にしていろいろなものがたまっていく(ムダなものを含めて)。そこにはまったくといっていいほどムダなものはない。ただ、読み、調べ、書くためだけの空間のようだった。国や仲間、家族、無言で支持してくれる人びとと離れ、異郷で一人戦う孤独を思った。

そのころは、TK生としての執筆はつづけていたが、定職はなく(東京女子大教授になるのは、もう少し後のこと)、いくつかの大学の非常勤のかけもちであり、経済的にも大変だっただろう。

日本の焼き肉店の焼き肉やビビンパなどしか知らなかった私たちは、本来の韓国の料理はこんなにごま油の香りを効かせるのかとはじめって知った一夜だった。

遊歩のスタイル

池さんに実際に会ったことがある人はとても小柄な人だったことを覚えているだろう。講義で慣れているのか、声は張りがあるしっかりした声だった。どんなときにも笑顔を絶やすことがない。そして、歩くスピードはとてもゆっくりだ。

同志社大学で講演する池明観さん(2015年8月1日、ジャーナリスト・西村秀樹さん写す)

ゆっくり歩くのは、ただの習慣にとどまらず、大事な思想のスタイルだった。ルソーやベンヤミンをもちいてゆっくり歩く理由を語っていた。「目的に向かって一目散に歩くだけではだめです。道ばたの花や生物、建造物、人びとの暮らしを観察しながら歩くことに無限の喜びを見つけられます」と『孤独な散歩者の夢想』やパサージュ論を引きあいに出して、19世紀的歩行、遊歩の思想を体現していた。

それは、同時に韓国の知識人(両班)のスタイルでもあったのだろう。朝鮮王朝時代の両班は、毎日、村のなかを散歩しながら自然を愛でながら、村に飢えた子どもはいないか、悲しんでいる農民はいないかを確認していたという。

数年前(池さんはすでに90代前半)、いくつかの講演を依頼され、東京に半年ほど滞在していたことがあった。真夏のとても暑い日に宿泊していた富坂セミナーハウス(文京区)から水道橋、神保町までを途中で昼食を食べつつも歩き通したことを思い出す。私たちは心配してタクシーを使ってはと提案したが、「たいした距離ではないでしょう」といいながら、悠々と歩き通した。

おそらくこのスタイルにはもう一つの意味があったのではないか。目的に向かって最短距離を一目散につき進むのは軍人の思考だ。目的に至るまでのあいだの反対も抵抗も、そして犠牲も顧みずに突きすすんだ韓国の軍事独裁政権に対する批判が根底にあったのだろう。

可能性を見抜く目

池さんが東京女子大の現代文化研究所所長をつとめていた時代に、研究所の教員と話をしていたときのこと、「池先生は、とても面倒見がいいから、どんな学生も先生のファンになってしまいます」と聞かされたことがあった。

東京女子大で教えていたときに、現代思想のゼミで、どうしても勉強に身がはいらない様子の学生がいたという。ある日、研究室に呼び出してその学生がどんなことに関心があるのか、じっくり話を聞くことにしたそうだ。聞けば、おそらく人文学よりも音楽をやりたかったのだろう。子どものころからピアノを熱心に学んでいたことがわかった。

そこで、ひとつの提案をした。アドルノにとても重要なベートーヴェン研究があるが、自分は音楽にはくわしくはないからよく分からないところもある。この本を読んでゼミで報告をしてほしい。

「彼女はじつにみごとなレポートをしてくれました」といってうれしそうに笑っていた。

大なり、小なり、池さんにこのように可能性を見出された学生は数知れないだろう。

そして、その最大の人物は詩人の金芝河かもしれない。池さんが韓国で軍事政権と言論で対峙していた時代、総合誌『思想界』の編集主幹を努めていた。ある日、ソウル大学の学生を名のる人物から不思議な原稿が届いたという。後に言論統制事件にまきこまれていく「五賊」だ。

私たちが知る詩というジャンルにおさまりきらない破格の作品。日本語の翻訳でも370行をこえる(『金芝河詩集』姜舜訳、青木書店、1974)。ソウルに現れた財閥、国会議員、高級公務員、将星、長・次官の五賊の悪行をコミカルに描き出した。高尚なことばからもっとも下品なスラングまでを縦横に駆使した作品だったという。五賊を日本語翻訳で読んだ私たちにはよく分からなかったことだが、じつは金芝河の作品は朗読される詩ではなく、歌い演じられる形式(パンソリといわれる語り歌われる芸能)に近いのかもしれない。後に本人朗読といわれる録音(五賊ではなかったと思うが)に触れたときに、野太い声で朗々と歌っているのに驚いたことがある。

「植民地時代に日本語で教育を受けた私たちには、とてもこんな韓国語は書けなかった。読んでいて嫉妬すら感じました」とそのときの衝撃を聞かされたことがあった。あまりの破格の詩の評価をまちがえていれば、「韓国民主化運動を代表する詩人」も生まれなかったかもしれない。

聞く人の政治的な知恵

1987年に韓国が民主化され、池さんが帰国する条件も整った。20年ちかい日本での亡命世活を終え、韓国に帰国したのは1993年だった。韓国の翰林大学日本学研究所所長を経て、98年の金大中政権発足とともにそのブレーンとしての活動がはじまる。

韓国政治のなかで池さんの最大の功績は日本文化の開放にあるだろう。それも、当初ささやかれていた部分開放や選別してから導入するというような方式ではなく、一気に全面開放に舵を切ったことにある。

韓国民主化後は、実質的には留学生や在日コリアンとのパイプを介して多数の日本文化は「密輸入」されていた。親戚の家のビデオで「となりのトトロ」を見て日本語や日本文化に興味をもったという学生も多かった。しかし、他方で日本文化の過剰な暴力や性の表現を私たちも知るところではある。そうした低俗、悪質な日本文化まで韓国にいれる必要はないという議論もかなりの多数を占めていた。

しかし、これも文化の両義性であり、暴力や性の表現は時代とともに評価が変わる可能性があり、暴力を描いたからといって暴力を肯定する作品とは限らないというものもある。「これはよくて、あれはだめ、そんな識別ができるわけないでしょう」というのが池さんの考えで、中途半端な開放は意味がないという。

さて、強固な部分開放論の人たちをどう説得したのか。「部分開放にするべきだという人たちの意見を徹底的に聞きました。何時間も、何日も。みんな疲れてくるでしょう。もうわかりまし た。全面開放してくれというまで聞きつづけたのです」。

南アフリカで弁護士をしていた時代のガンジーは、家庭内では暴君だったという。ところが、ある日気づいたことは、黙って自分の暴力に耐えているように見えていた妻が思う方向に自分が導かれているということだったという。後のガンジーの戦略のヒントがここにもあったという。

日本のマスコミに登場する「韓国政治」解説者たちの多くは、判で押したように韓国の革新派は反日で、保守派は親日だと図式化する。それで何かを解説できているつもりでいるのかもしれないが、対日文化開放を実現させたのは、革新派だった金大中政権の時代だったことを忘れているのだろうか。池さんは常々、韓国に日本をよく知るエリートが減って困っているといっていたが、同様のことは日本にも言えることだろう。

池さんは、金大中時代の5年間と次の盧武鉉大統領の就任までの期間、現実の政治に深く関与した。盧武鉉大統領の就任演説の草稿は池さんが起草している。しかし、盧大統領就任直後に袂を分かったという。理由をたずねると、あまりに党派的(セクト的)な人事に異議をとなえたが、聞き入れられなかったからということだった。

一国の大統領になった瞬間からは、選挙中の対立・対決を乗りこえて国・国民を代表するリーダーにならねばならない。党派的な人事はその地位にふさわしいものではないという。

金大中時代の末期にも大統領周辺の人物たちの金にからんだ話への嫌悪感を語っていた。政治にはお金がかかるのでしょうといいながらも、どこか淋しげな様子だった。

政治に直接かかわった5年あまりは、生涯のなかでももっとも辛かった時期ではないかと思う。政治家と金の問題、党派化(セクト化)していく政治集団、ポピュリズムに流れる大衆民主主義……。かつて目指していた民主化の結果もたらされたものに深く絶望していたのではないか。亡命の時代は、まだ希望を語ることができた。しかし、せっかく手にした民主主義の時代は、思い描いていたものからはるかに遠ざかっていく。

東アジアと民衆連帯

池さんは、日本で研究をしていた時代に次のような考えを提唱している。パックスロマーナ(ローマの平和)と同じように東洋にも「唐の平和の時代」があったのではないか。大国・唐が軍拡に疲れはて軍事優先の政治から転換した時代に東洋の平和の時代がおとずれた。唐は文化によって栄え、日本は「あをによし」と歌われ、朝鮮半島も統一の時代を迎えた。

この時代をもたらした基盤は何か。対等な国際関係、共通の価値観(仏教思想)、共通の制度(律令制)、この3つだと指摘している。では、この条件を現在に当てはめたとき、なにが共通の価値観、制度にあたるのか。それは、人権思想と民主的な政治制度ということになる。

今日、東アジアでこの戦略の核になりうるのはどこか。一党独裁の中国・北朝鮮にはむずかしい。国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の憲法をもつ日本と民主化の途上にある(後に成功する)韓国ではないか。そしてさらに、20年に及んだ日本で暮らした時代、その時代は、日本の市民運動がもっとも韓国の民主化運動支援に積極的に取り組んでいた時代でもあった。後にこの時代を回想して次のように記している。

「70年代から80年代にかけて、日本と韓国との市民のあいだでは、それまでになかったような互いに助けあう時代を初めてつくることができた。韓国は民主化し、それは一応成功した。その間日本は韓国の民主化運動を励ました。日本が、世界の国々と韓国市民との関係をとりもちながら。

最初は、日本のキリスト教教会がはじめたのだったが、だんだんと日本の市民全体へと広がっていった。日本の知識人はヨーロッパと連携しながらベトナム戦争のとき戦ったが、その勢力がベトナム戦争後、韓国の民主化に立ちむかったともいえよう」(『「韓国からの通信」の時代』影書房、2017)

そして常々口にしていたことは、「政治家たちは自分たちの利益のために勝手なことばかりする。今は、官よりも民が強く、賢くならなければいけない。対立を煽るような政治家に一喜一憂することなく、韓国と日本の市民の交流をつづけていかなければならない」ということだった。

じつは、日韓関係にからんでもう一つどうしても忘れられないことがある。私がまだ大学で池さんから学んでいたころ(1980年代前半)、池さんははじめて沖縄をおとずれた。直後にお目にかかる機会があったが、そのときのことばが忘れられない。

「先日、沖縄に行って来ました。日韓関係についての講演を頼まれて話をしてきましたが、こんなに自信がない話をしたのははじめてです。那覇に到着してすぐに県立博物館に行きましたが、私の予想を裏切るものでした。ここは日本ではない。用意した講演の原稿がまったく役に立たないものであることが分かりました。

沖縄の歴史は、日本の歴史の一部ではありません。にもかかわらず、日本の犠牲にされている。過剰な米軍基地を押しつけられて、経済はまるでかつてのソウルを思い出すような植民地経済です。

ただ沖縄には100万の批判的な人びとがいます。私は当分のあいだ、韓国に帰ることはできないでしょう。ならば、後半生を沖縄に行って沖縄の人びとといっしょに運動するという選択もあるのではないか。黒田さんも沖縄に行ってみるといいです」

現実にはそのような選択には至らなかったが、今でも琉球からTK生が東アジアの平和を発信する通信を思い描いてみたくなる。

私が韓国・朝鮮、琉球の本を主に編集する今の仕事をつづけていることも池先生の導きによるものなのかもしれない。その志をこれからも引きついでいかなければならない。

池明観先生、さようなら。湯島や富坂セミナーハウスで3回も、別々の機会にこれが最後になるかもしれないからといわれて、別れのあいさつをしたことを思い出します。とうとう本当のお別れのときがきてしまいました。

どうぞ、今は安らかにお休みください。

伝記をくわしく知りたい方は、以下の2冊をご覧ください。

◇『池明観自伝 境界線を超える旅』(岩波書店、2005)

◇『一亡命者の記録――池明観のこと』(堀真清、早稲田大学出版、2010)

くろだ・たかし

1962年千葉県生まれ。立教大学卒業。明石書店編集部長を経て、現在、出版・編集コンサルタント。この間、『談論風発 琉球独立を考える』(前川喜平・松島泰勝ほか、明石書店)、『智の涙 獄窓から生まれた思想』(矢島一夫、彩流社)、『「韓国からの通信」の時代』(池明観、影書房)、『トラ学のすすめ』(関啓子、三冬社)、『ピアノ、その左手の響き』(智内威雄、太郎次郎社エディタス)などを編集。本誌編集委員。

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