この一冊

『デジタル・ファシズム』堤未果著/NHK出版/2021.8/968円)

立ち止まって考え直すだけでいいのか?

出版コンサルタント・本誌編集委員 黒田 貴史

『デジタル・ファシズム』

『デジタル・ファシズム』(堤未果著/NHK出版/2021.8/968円)

信なくば、デジタル化は進まない

普及率が4割にも満たないといわれるマイナンバーカードの普及のために、田中みな実や黒柳徹子を起用した広告を展開するなど政府が躍起になっている。しかし、普及率が低いのは、そもそも宣伝不足のせいなのか。あったはずの文書をないものとしたり、勝手に改ざんしたりしてしまうような政府を国民が信用できないからではないのか。

日本政府が世界に冠たると豪語していた国民把握の方法は、戸籍制度だった(過去形ではないか?)。夫婦別姓など民法改正に熱心な弁護士は、法務省の役人が戸籍制度こそ最上の国民把握の方法で、むしろ他国がそこから学ぶべきであるといっていたとあきれていた。

マイナンバーは、戸籍という家族単位で国民を把握する方法から一人ひとりに番号を振るという個人単位で把握する方法への転換だろう。納税のほかに紐づける銀行預金や健康保険など、果ては交通違反のような軽微なものから重大な刑事罰まで、生まれてから今日までが完全に把握可能になるだろう。いや、把握どころか、今の政府なら勝手に書きかえることまでやりかねない、と疑うのは少数ではないはずだ。

 

支持率が著しく低下して詰め腹を切らされた菅義偉政権の肝いり政策の一つがデジタル庁の創設だった。「特高顔」とまでいわれた菅首相が提唱するデジタル庁など、およそマンガではないか。

昔ながらの何者かを悪者にしたてて、制度を一気に塗りかえようというこの間さかんにとられた手法のなかで、今回はハンコが悪者にされた。生活保守主義者の私にはハンコのなにが悪いのかさっぱりわからない。月ぎめの新聞の契約から婚姻・離婚まで、ハンコのせいで著しく困惑した人などどれだけいるのだろうか? 行政文書を誰が決済したか、後々まで証拠が残るハンコを憎く思うのは、改ざん大好きな日本政府ということか。

昨今のデジタル万歳の風潮のなかに投じられたのが『デジタル・ファシズム』(堤未果、NHK出版新書、以下、本書)だ。本書は、「第1部政府が狙われる」「第2部マネーが狙われる」「第3部教育が狙われる」の3部で構成される。ごく短くまとめてしまえば、デジタル化によって日本の政府、お金、教育が他国(米中)に支配されてしまうという。

中南海の意向一つでフィリピンの電力が止まる

第1部の「政府が狙われる」では、はじめに東日本大震災にさかのぼる。震災から五か月後に「世界最大の米系コンサルティング会社アクセンチュア日本法人が、被災地である福島県会津若松市に、地域創生を掲げたイノベーションセンターを設立」した。ここで復興支援を名目に「会津地域スマートシティ推進協議会」が作られ、「アクセンチュアは震災復興プロジェクトの主要メンバーとして、デジタル化を主導していく」。「スマートシティとは、交通、ビジネス、エネルギー、オフィス、医療、行政など様々な都市機能をデジタル化した街」であり、政府主導で推進される中国やシンガポールをはじめ、米国ではビル・ゲイツが無人の砂漠に巨費を投じて開発を進めているという。

通常では民意をふくめさまざまな障害があってすすまない新自由主義改革を、災害という非常時に一気に押しすすめてしまうショックドクトリン(惨事便乗型資本主義)という手法がある。アクセンチュアによるスマートシティ構想も典型的なショックドクトリンといっていいだろう。

街として、さまざまな機能がデジタル化されるということは、他方で個人の情報も筒抜けになるというに等しい。「会津若松市では、手始めに個人の年齢や家族構成に合わせて提供される情報が変わるデジタル情報サイト……外国人訪日客向けの観光サイトや医療データ共有など、様々な情報がオンライン上でつながれた」という。そこで個人がなんらかの商品を注文したり、医療サービスにアクセスしたりすれば、より細かい個人の好き嫌い、病歴などが蓄積されていく。本人も知らないところでそうした個人情報が蓄積され、売り買いされていくのだろう。政治的な志向などは権力のしるところとなって、要注意人物と目されることになるかもしれない。

そこで、情報管理の厳密な法整備が必要になるはずだが、世界の潮流に乗りおくれるなとばかりに、住民自治を軽視し、個人情報の管理のハードルを引き下げる「改正国家戦略特区法(スーパーシティ法)」は「衆参両院合わせてわずか11時間の審議」で速やかに裁決されてしまった。

しかし、著者の危惧はそればかりではない。こうした情報が集中するサーバーがどこに置かれるのか。さまざまな規制をゆるめ、多国籍ベンチャー企業に業務を委託した結果、サーバーはアメリカや中国にもっていかれてしまうという。デジタル化を急ぐあまり、電力網のサーバーを中国に握られてしまったフィリピンの例が紹介されているが、中南海の意向ひとつでフィリピン中を停電させることまで可能になってしまう。主権はどこにいってしまうのか。

電子マネーは万能か

今は、コロナのせいで出かけることもむずかしいが、しばらく前から韓国や中国に旅行に行くと、現金を持ち歩いて買い物しているのは同行の日本人だけで、現地の人たちは厚ぼったい財布など持たず、カードの決済で済ましていた。中国の土産物店で、何度も現金を透かしたり、手触りをたしかめたりされた日本人観光客は多いだろう。ここ数年は、さらにスマートフォン決済が加わるようになった。ほとんど笑い話のように思えるが、中国では物乞いもスマホをもっていてそこにQRでお金を渡すという。

ここでもデジタル万能・万歳主義者たちは、日本も早くキャッスレス決済を広く行き渡らせるべきだという。

2018年6月に開かれた「デジタルイノベーション実現会議」で「竹中平蔵氏は、韓国や中国を先進的な例として挙げ、日本が世界の経済競争に負けているのはキャッスレス化が遅いからだ、と強く批判し」、「この問題を解決しない限り、次には進めません」と発言したという。

「竹中氏らの有識者会議から出てくる規制緩和政策には一つの特徴がある。規制緩和を望む企業群を広告スポンサーに持つテレビ局が、一斉に足並みを揃える」。「ワイドショーがキャッシュレスの便利な機能を紹介し、中国や韓国の若者がいかにスマホ決済を使いこなしているかが取り上げられ」る。

コロナ禍で支給された特別定額給付金の支給が遅れた理由も現金優先だからという議論まで登場しているという。しかし、給付金の支給が遅れたのは現金優先だからというよりも、あいだにはいった電通やパソナなどの「お友だち」企業に委託していたからではないのか。「中間マージンを取っていた『サービスデザイン推進協議会』が決算報告すらしていないことが後になって発覚するというお粗末ぶり」で、それは「デジタル化以前の問題」だろう。

韓国でなぜカード決済が早くに普及したのか。これも一種のショックドクトリンのようなものだろう。1990年代半ばにアジア通貨危機でIMFの管理下に置かれた韓国で、国をあげてのキャッスレス化が進行した(このときに全国にデジタル網を広げたことが、韓国のデジタル化の成功にもつながっている)。

「国民のクレジットカード利用率を一気に引き上げるために、韓国政府は大胆な政策を実行する。300万ウォンを上限に、年間カード利用額の20%を税控除の対象にし、一定以上の売り上げがある小売店にはカード決済の導入を義務化した」。

しかも、韓国ではクレジットカードと国民登録番号が紐づけられているため、いつ、どこで、何を買ったかが記録される。小売店も帳簿によるごまかしはできなくなるから税逃れはできなくなった。

こうして大量のカードが発行され、15歳以上ならだれでもカードをもつことができ、1人平均4.1枚のカードをもっているという。こうなってくれば、想像通り、カードの負債を次のカードで支払い、また……というカード地獄に落ちる人も増えていく。個人にとってはカード地獄、国の経済にとっては不良債権の山という地雷になる。

では、スマホ決済の天国・中国はどうか。スマホならカード以上に、だれが、いつ、何を買ったか、どこに移動したかが把握できてしまう。それらは巨大マーケットのアリババやテンセントにすべて吸いとられているという。性、年齢、居住地、学歴、収入……さまざまな属性から趣味・嗜好から思想まで、マーケットにとって喉から手がでるほどほしいだろう情報が、鴨が葱をしょってくるように集まってくる。しかも、中国では企業がもっている情報は、そのまま中国政府に吸いとられる。究極の個人情報の収集・管理が可能になるだろう。

そして、中国のデジタル人民元は、ドルが中心の世界の通貨体制を人民元に置きかえる野望をもっている。「この問題を解決しない限り」といって慌ててキャッスレス化を押しすすめる先には中国のサーバーが大きな口を開けて待ちかまえているというのが著者の結論だ。

教師は1人でいい?

コロナ禍とともに、ICT教育の推進が一気に学校現場にもちこまれた。小学生から1人に1台のパソコンをもたせて、インターネット通信やパソコンソフトを使った教育が教室にもちこまれた。

算数・国語などの勉強をみている小学5年生が身近にいるが、学校で渡されたパソコンでなにをしているのか。ドリルのような使い方のほかに、コロナのなかで登校したくない子どもがオンラインで授業を受けるというのが主な使い方のようだ。学校もお試しというところなのだろう。

しかし、本格的にICTが導入されるようになれば、本書の著者が危惧するような問題も拡大するだろう。つまり、グーグルなどの巨大デジタル産業が子どもたちの個人情報を収集可能になること。教科書のデジタル化などが進行し、「オンライン授業用のアプリと連携させたタブレットを、これまでの鉛筆やノートと同じように使う。使えば使うほど生徒個人の学習データが蓄積され、その子のレベルに合わせた問題が出されるので、効率よく学ぶことができる仕組み」ができあがる。しかし、それはバラ色ではない。

これは同時に、子どもの多様性をくみ取って教育する多様な教員が不要になることを意味する。「教師が求められるのは、授業を面白くする工夫ではなく、タブレットを使いこなす技術」になってしまう。つきつめれば、教員は、各教科ごとに1人だけでいいということになる。そこにあるのは、教育の画一化であり、子どもに合わせた教育ではなく、機械(デジタルデバイス)に合わせた子どもという訓練対象だけだ。

大学入試改革を旗印にこの間目の前に展開されたドタバタを思い出してほしい。英語試験に民間テストを導入しようとしたり、論文の採点に教育産業が深く介入していたり、およそ、「改革」とは無縁な巨大教育産業の利害が見え隠れしていた。政治家と深く癒着した教育産業が自己の利益のために教育をゆがめている。同様のゆがみが、もっと巨大なかたちに拡大する姿がデジタル教育の推進の裏に隠れているのではないか。

「考え直す」だけでいいのか

以上のように著者は、急激なデジタル化は「街も給与も教育も」すべてが巨大産業の食い物にされるだけであり、さらにその背後には世界を支配しようとする米中が待ちかまえているという。とにかく急げの掛け声に対して、立ち止まって考え直すべきだというのが本書の結論だ。

その結論には同意するが、それだけでいいのか。それだけなら、「デジタルなんぞよくわからん。だから使いたくない」というオジさんたちの溜飲を下げるには十分だろう。問題は、溜飲は下がっても、デジタル化の進行は著者の危惧をこえて先に進んでしまうことではないか。

肝心なことは、本書にも一部登場するが、デジタル化の成功例、台湾や韓国、エストニアなどをもっと知ることではないのか。韓国ではデジタル化を推進するにあたって「韓国電子政府法」を制定した。役所にいかなくても住民票などが取得できるなどのその結果だけが紹介されてもてはやされるが、この法律の最も重要な部分は、デジタル化を推進するに当たってデジタル技術を提供する側がすべての責任を負っていて、利用者はその責を負わないことではないのか。

つまり、使い方がわからない高齢者などが不便を受忍するのではなく、そのための便宜を図ることを提供者側に義務づけていることにある。いわば、オンライン上のコロナワクチンの接種予約ができない高齢者がその不便を強要されることなく、行政側がその不便を埋める努力を義務づけられている。韓国でデジタル化の満足度が高いといわれる由縁はそのあたりにあるはずだ。

デジタル化を何のために推進するのか。電子化された国会図書館や国立公文書館は、これまでにくらべて数段使いやすくなった。これからは、あらゆる行政文書が、ある年限を定めて電子化されて公開されるべきだ。要は、デジタル化をだれのために推進するかにある。

国民、個人を監視するためにあるのか、国民・個人のために行政サービスを効率化するためにあるのか。公権力の文書を隠蔽・改ざんするためにあるのか、すべてを公開し、後の教訓とするためにあるのか。その岐路に立っていると考えるべきであり、立ち止まって考え直すよりも後者の方向にデジタル化を推進する政治的な勢力を拡大させる道を探すことが重要なのではないか。

★本書カバーの写真を2枚掲載しました。地味なほうが本当のカバーですが、著者の写真が大きく写りこんだ派手なカバーを本当のカバーの上にかけて書店に並んでいます。じつは、派手なほうは、本来は「帯」と呼ばれる宣伝用のつきものです。最近、この手の全面帯を採用する出版物が増えていて、出版界の流行になっています。

くろだ・たかし

1962年千葉県生まれ。立教大学卒業。明石書店編集部長を経て、現在、出版・編集コンサルタント。この間、『談論風発 琉球独立を考える』(前川喜平・松島泰勝ほか、明石書店)、『智の涙 獄窓から生まれた思想』(矢島一夫、彩流社)、『「韓国からの通信」の時代』(池明観、影書房)、『トラ学のすすめ』(関啓子、三冬社)、『ピアノ、その左手の響き』(智内威雄、太郎次郎社エディタス)などを編集。本誌編集委員。

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