特集 ●総選挙 結果と展望

琉球遺骨返還訴訟が暴く京大の史的暗部

京都大学は「盗んだ」琉球の遺骨を返せ――旧満州731部隊に繋が
る「学知の植民地主義」

ジャーナリスト 西村 秀樹

昭和初期、京都帝国大学の人類学者が「研究目的」で琉球人遺骨を「盗んだ」。21世紀に入り、琉球(沖縄)の5人が京都大学に遺骨の返還をもとめ裁判を起こした。琉球遺骨を「盗んだ」京都帝大の人骨研究者の指導教官は、同時に中国で人体実験をした731部隊長の石井四郎の指導教官だった。原告は京都大学の「学知の植民地主義」を問う。

 

琉球の二つの遺骨問題

辺野古(沖縄県名護市)の米軍新基地建設で、埋め立て土砂の採取予定地に日本政府が県南部を指定した。2021年4月沖縄県議会は「沖縄戦の戦没者の遺骨がまじった土砂を使用しないように求める意見書」を全会一致で採択した。奈良県議会などが続き、反対運動が全国に拡がった。沖縄戦では県民の四分の一にあたる12万人が亡くなったが、激戦地の県南部での遺骨収集は不十分なまま、戦没者の遺骨は今も土の中に眠る。遺骨は人びとの人生を象徴する。それを軍事基地建設の埋め立てに使うのは死者への冒涜ではないのか。遺骨の問題は多くの人の心をざわつかせる。

琉球にはもう一つの遺骨問題がある。那覇から1200キロ離れた京都の地で琉球遺骨の返還を求める裁判が係争中だ。その裁判は大詰めを迎えている。

新聞のスクープ

百按司墓の1号墓

2017年沖縄の県域新聞『琉球新報』に大きなスクープ記事が載った(2月16日付け)。一面タテ四段に「京大に琉球人骨26体」との大きな見出し。サブタイトルは「学者収集 昭和初期から未返還」。リードを引用する。「昭和初期に人類学の研究者が今帰仁村なきじんそん運天うんてん百按司墓むむじゃなばかから持ち出した人骨が少なくても26体、京都大学(京都市)に75年間以上、保管されていたことが分かった。研究目的で持ち出され、現在も返還されていない」。

リード記事引用を続ける。「同様に研究目的で北海道大学に保管されていたアイヌ民族の遺骨が昨年(著者註:2016年)、遺族らに返還されたことから、一部の研究者らは『琉球人の遺骨も沖縄に返還すべきだ』と訴えている」。

この日の琉球新報は、一面のほか、社会面と第二社会面に関連記事、28面と29面に特集記事と圧倒的なボリュームで、京大による琉球人骨の記事を掲載した。

特集面の見出しは、見開き左ページに「先住民族 窮状今も」、右ページに「揺らぐ自己決定権」と続く。この新聞記事の基になったのは、地元の城跡がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に選ばれたことがきっかけだった。

2000年ユネスコは世界遺産に「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」の一つとして、今帰仁城なきじんぐすくの城跡を選んだ。今帰仁村は沖縄の県庁所在地那覇から北東に60キロ、本部もとぶ半島に所在する。この世界遺産認定の翌年(2001年)、今帰仁村の教育委員会は村内の文化財調査をスタート、琉球大学医学部助教授の土肥直美が報告書をまとめた(2004年)。「百按司墓周辺から採取されたと思われる人骨が京都大学博物館と国立台湾大学医学部に保管されている。京都大学で筆者等が確認した人骨は26体分だった」(『木棺修理報告書』今帰仁村教育委員会)。

つまり、昭和初期の京都帝大の研究者による琉球人骨収集の事実は、21世紀に入って、地元自治体の文化財調査と新聞記事がきっかけとなって、人びとの知るところになった。

京都大学へ事実関係を照会

この琉球新報の記事に一人の琉球人が反応した。石垣島出身で、京都で暮らす、松島泰勝だ。松島は、龍谷大学で島嶼経済を教えている経済学部教授。琉球新報のスクープ記事から二か月後、松島は、京大に対して保管中の遺骨を見たいと、照会をかけた。

松島と京大の間の窓口になった京大の教員は、次のように経過を説明する(駒込武・京大大学院教育研究科教授による集会での報告、2021年8月)。

「私は京都大学の教員ですが、京都大学の博物館の収蔵庫の中に立ち入ったことはありません。(琉球遺骨の問題が)教授会の議題に上ったこともありません。

松島さんが、2017年4月に『琉球のご遺骨を確認したいんだ。実検、実際に見せてほしい。どうやって集めたのか、聞かせてほしい』と言われ、そしたら博物館は『京都大学の人間の紹介が必要だから』と(打ち返したがあったので)、私が紹介者になった。

京都大学の博物館ははじめのうちは、説明するぐらいのことはするような口調でした。

あるとき、おそらく、大学の一番中心に相談した後でしょう、一切説明しない。ご遺骨の収納状態を見てもらうのができないのはもちろん、一切説明しない。

さらには、松島さんに『京都大学に立ち入るな』という」。

駒込の専門分野は、日本の植民地教育。最近、駒込編『「私物化」される国公立大学』(岩波ブックレット)を出版した。京大の中で数少ない松島の理解者だ。

京大は松島にダンマリで応え、遺骨の返還を拒否した。

琉球遺骨の返還を求め提訴

提訴した原告と支援者たち(京都地裁前、2018年12月)

松島は、知人友人に相談、1年半後(2018年12月)、京大で保管中の遺骨26体の返還を求め、京都地裁に裁判を起こした。原告5人のうち2人は、15世紀琉球王国をつくった琉球王家・第一尚氏しょうしの子孫、祖先は百按司墓に葬られ、原告亀谷正子と原告玉城たまぐしく毅はそれぞれ第一尚氏の家系図を所有する祭祀承継者だと主張する。原告亀谷は国立大学の薬学部卒業後、琉球のハンセン病療養所で薬剤師を勤めた。残る3人は「琉球民族であり先住民族」、社民党の国会議員、照屋寛徳と、彫刻家の金城實、それに松島も原告に加わった。

訴状によると、遺骨は、昭和初期(1929年)、当時の京都帝国大学(現在の京大)の人類学助教授、金関丈夫かなせき・たけおらが「琉球人の人類学的研究」という名目で運びだし、いまも京大が保管している。

留意点は、葬送儀礼が琉球と本土とでは大きく違うこと。琉球では、墓は家族単位ではなく親族いっしょに葬る。民法でいう祭祀承継者の概念が、琉球と本土では異なる。

文化も言語も本土と異なる。2009年ユネスコは世界で消滅危機にある言語2500のリストを発表した。その中に、アイヌ語と、琉球諸島の6つの言語(奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語)が含まれている。言語に関する国際的な基準によると、アイヌ語と日本語が別の言語であるのと同様に、琉球諸島の6言語は日本語と別の言語だ(方言と言語を区別するのはむつかしいと、言語学者ソシュールはいう)。

争点は何か

この裁判に強い関心をよせる同志社大学〈奄美−沖縄—琉球〉研究センターの教授板垣竜太は、この裁判の本質を「人類学と植民地主義」と指摘、争点を次のように解く。

「この民事裁判の法律上の争点は、被告(京都大学)が遺骨の占有権限を有しているかどうか。返還拒否が不法行為を構成しているかどうか。さらに、京都大学の返還拒否の背景と原因が、明治維新以降の日本国家による琉球王国の解体と植民地化の歴史、戦後も継続する日本国家と大学による琉球・沖縄差別にある。端的な表現で言えば『学知の植民地主義』を法廷で問うことこそが本訴訟の本質的事項である」と論点を整理した(原告側の『板垣意見書への解題』)。

明治以降の近代日本と琉球の歴史が重要で、琉球は日本と別の国だったことがポイントだ。

1429年琉球王国が成立(本土は室町時代)。江戸幕府が成立まもない1609年、薩摩島津氏が琉球に侵攻、支配したものの、琉球王国は存続し中国との朝貢外交を維持した。

幕末、江戸幕府と日米修好条約をむすんだ米国海軍の提督ペリーは、琉球王国と琉米修好条約をむすぶ(1854)。琉球王国はアメリカ、フランス、オランダと国際条約をむすぶ独立国だった。

19世紀半ば、東アジアへの欧米帝国主義の侵略が始まる。アヘン戦争で清が英国に敗れ、日本は1868年、それまでの約300の藩による地方分権国家から新たに中央集権国家となった(明治維新)。翌1869(明治2)年、アイヌモシリ(蝦夷地)に開拓使を設置(まもなく北海道と改名)。1879(明治12)年、明治政府は武力で琉球王国を廃止した。これを琉球併合という(日本の教科書には琉球処分と書いてあるが、それは、明治政府からの立場。琉球では併合という。明治政府が武力で琉球王国を征服し、併合するプロセスは、国場幸太郎著『沖縄の歩み』岩波現代文庫に詳しい)

その後、大日本帝国は台湾、韓国併合と、周辺諸国をつぎつぎに植民地にしていく。こんどの裁判は、近代日本150年の歴史を問う。

原告・被告の主張

今回の裁判の舞台となった百按司墓を現地検証する丹羽雅雄弁護団長(2021年3月)

刑法(1907年公布)の第191条には「墳墓発掘ふんぼはっくつ遺骨領得罪いこつりょうとくざい」の規定がある。墳墓ふんぼを発掘し遺骨を領得すれば、3か月以上5年以下の懲役と定められている。墓から遺骨を取り出すことは犯罪なので、原告は京大が遺骨を「盗んだ」と主張する。

民法897条には、「墳墓の所有権は、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する」とした上で、ただし書きに「被相続人の指定に従う」とある。本土ではおもに長男が墓を継承する。原告たちは、それは本土の家単位で墓を継承する、いわゆるイエ制度の下の定めであり、琉球やアイヌでは墓を村落共同体で維持しているので、今回の百按司墓の場合、第一尚氏の子孫が祭祀承継者だと主張した。

原告は、こうした民法上の祭祀承継者や遺骨の所有権という主張のほかに、国際人権法を根拠に先住民族の諸権利を主張した。

一方、被告京大の主張に耳を傾けると、京大は当時の助教授金関丈夫が琉球で人骨収集した事実を認めた上で、それは「沖縄県庁の警察部長を通して手続きを行った。百按司墓の祭祀承継者は久しく途絶えていた。返還する法的根拠はない」と反論した。

では本当に「正当な手続き」なのか。

幕末、アイヌの遺骨をめぐって興味深い事件がおきた(植木哲也著『新版・学問の暴力〜アイヌ墓地はなぜ暴かれたか』)。慶應元年(1865年11月)、箱館(現在の函館)から40キロ離れた森村のコタン(集落)に、英国人3人が訪れ、アイヌの墓をあばいた。翌月には、英国人は近くの落部村おとしべむらを訪れ、アイヌ墓地から頭骨ら遺骨があばいた。二度目には目撃者がいた。

村びとは箱館の奉行所に訴えた。箱館奉行小出秀実こいで・ひであきは英国領事館をすぐに訪ね、小出は「罪もないのに墳墓をあばかれるという残酷な行為は和親国のやるべきことではない」と叱責した。目撃証言があったので英国側は英国人二人の犯行を認めた。箱館奉行小出は幕府に報告、日英間の外交問題に発展。結局、英国は人骨2体を返還、355両を支払い、在箱館英国領事ヴァイスを解任。新しい英国領事は森村と落部村を訪れ謝罪、アイヌの墓碑を建立した。

その数年後、イギリスの民族学会でアイヌの頭骨研究の結果が発表された。英国人研究者が森村へ別人の骨を返還し、本物のアイヌの遺骨は英国にこっそり持ち出したのではないのか、この事件の著者は疑う。

大事なことは、幕末、日英両政府ともアイヌ遺骨の発掘が犯罪行為だと認識していた事実だ。

「学知の植民地主義」

日本の刑法には墳墓発掘の刑罰の定めがあるにもかかわらず、京大は沖縄県庁の手続きを経たと合法性を主張する。

この裁判の原告松島泰勝はその合法性を疑う。「戦前、戦後を問わず日本において、遺骨の持ち出しは本来なら刑法で処罰の対象になる。しかし、琉球では琉球併合後、行政、教育の上層部を日本人が占有するという植民地支配が行われた。日本人研究者はそれらの人びとや、同化された琉球民族を共犯者として遺骨を盗んだのである。そのような野蛮な行為を『窃骨』と呼びたい」(松島泰勝編『大学による盗骨』)

韓国併合のもと朝鮮半島での支配構造を想起させる。ちょっと考えたら判るが、そもそも沖縄県庁の警察部長に墓の発掘を許可する権限があるだろうか。権限は祭祀承継者にしかないのではないか。この裁判が「学知の植民地主義」を問う裁判だというのは、こうした植民地の権力構造が背後にあるからだ。

形質人類学の勃興

19世紀、形質(自然)人類学という学問が力をもっていく。「白色人種の優越という意識のもと、頭骨ブームが生まれた。アイヌの頭骨も注目を浴びた」(前掲、植木『新版 学問の暴力』) 欧米のこうした潮流は明治期の日本に及び、1880年代、日本に人類学会がスタート。東京帝大医学部の解剖学講座教授、小金井良精よしきよは、1888年北海道でアイヌの遺骨収集を開始した。小金井は「アイヌの人びとを説得し、その承諾を得ようとは試みなかった」(前掲、植木)。その半世紀後、北海道帝国大学医学部教授の児玉作左衛門は、北海道、千島、樺太などで千体を超すアイヌ遺骨を収集した。

北海道庁は、1934年、「人骨発掘発見二関スル規定」を公布、人骨を発掘しようとするものは目的など五項目を北海道庁長官に報告し許可を求めること、違反者への罰則規定も明記された。北海道庁はこの規定に基づいての発掘許可をださなかった。琉球大学名誉教授の波平恒男によると、「沖縄県にこうした規定はなかった。法理論上、刑法の条項を無効化するような県の規定を定めることは不可能だと、合理的に推定できる」と述べている(『波平意見書』)。極端なことをいえば、警察幹部の許可があれば殺人を犯しても無罪となるのか。刑法に定めのある犯罪行為を、警察幹部の許可で無効化できるだろうか、できるわけがない。

1960年代になって、ベトナム反戦運動、黒人の公民権運動、フェミニズム(女性解放)など人権擁護の声が世界中に拡がった。1980年北海道ウタリ協会が北大へ遺骨の返還を請求したが、北大は返還を拒否したものの、2年後、北大医学部は1004体のアイヌ遺骨の保管を発表、可能な限りの遺骨返還と学内に「納骨堂」建設を約束した。

1990年代、アイヌをめぐる法整備が進んだ。1997年アイヌの聖地に建設する二風谷にぶたにダムをめぐって、アイヌ初の国会議員・萱野かやの茂らがおこした工事差し止め訴訟で、札幌地裁は判決でアイヌを先住民族と認定した。同じ年、アイヌ文化振興法が成立(それまでの法律は「北海道旧土人保護法」という差別的な名称だった)した。この時期、わたしは二風谷の萱野の自宅を訪問したが、戦前からのアイヌ差別のひどさ、20世紀末になっての権利回復を喜ぶ笑顔が印象的だった。

2007年9月、国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、遺骨を故郷に迎え入れる権利が明記された。2011年文科省は全国の大学にアイヌ遺骨の調査を命じ、さらにアイヌからの遺骨返還請求訴訟が二度、三度おこされた。2016年北大とアイヌの人びとの間で和解が成立。2020年に開館したウポポイ(国立アイヌ博物館など)の一画に慰霊施設が設置され、遺骨が埋葬され、アイヌの先住民の権利回復が進んだ。

なぜ京大は遺骨を返さないのか

琉球民族への人類学からのアプローチは、京都帝国大学医学部教授、清野謙次が開始した。清野は、1924(大正13)年、樺太でアイヌ遺骨を収集後、こんどは琉球での遺骨収集を弟子たちに命じた。

世界遺産となった「今帰仁城の城跡」。百按司墓はその東にある

助教授の金関丈夫は、1929年、およそ3週間かけて、琉球で遺骨を収集した。金関は自著にそのときの模様を記録した。金関の著作を引用する(『琉球民俗誌』法政大学出版局)。

「心配があった。それは骨を首尾よく持って帰れるか否かの問題である。これには官民諸方面の有力者に、でき得る限り多くの紹介状を用意した。私は遺骨採集に関して警察部の許可を得るため、午前中に県庁に出頭した。諸般のあっせんを依頼する」。

4年後、金関と同じ京都帝国大学医学部の講師三宅宗悦そうえつが、奄美大島と沖縄本島の百按司墓に赴き、三宅は二度目の遺骨持ち出しを果たす。

三宅が百按司墓を含む南島調査で収集した遺骨は主任教授の清野謙次に渡され、遺骨は「清野コレクション」という遺骨リストに記載された。

21世紀に入って、事態は大きく動いたことは、冒頭に書いた通りだ。

提訴から1年後(2019年9月)、衝撃的な事実が明らかになった。同志社大学教授の板垣竜太が、改めて、京大の記録を事細かにチェックしたところ、金関は1934年台北医学専門学校(のち台北帝国大学)教授に赴任する際、自分が収集した人骨を台北に持参したこと。現在、京大総合博物館に保管中の遺骨は三宅に由来するものだと突き止めた。つまり、訴状の基礎的な事実関係が違うことになったが、京大から特に指摘はなかった(原告側は京大へ情報公開を求めたが、京大は応じていない)。

では、京大の研究者は蒐集した遺骨からの研究結果を社会に還元したのだろうか。三宅は旧満州へ兵隊に召集され戦死し、人骨に関する発表はない。

1949年に清野自身も『これ〔沖縄諸島の人骨〕に関するまとまった研究は未だ成し遂げ得られない』と述べていた。こうして医学部の人骨は放置された(『板垣意見書』)

これは何を意味するかというと、京大での人骨の保管がずさんで、一つ一つの遺骨の由来がきちんと記録されていないこと。研究者が研究発表をしていないこと。京大は提訴後、学内で事実関係をきちんと調査せず遺骨返還を拒否という態度をとり続けたことがハッキリした(このほか、京大構内から「清野蒐集人骨番号」と記載された板がゴミ箱から発見されたこともあった。これも遺体の管理が不十分なことを疑わせる)

裁判で一番の疑問点は、「なぜ京大は遺骨を返さないのか」という疑問だ。冒頭の論点整理でいうところの「返還拒否が不法行為を構成しているかどうか」という点だ。

京大の大義名分は「学術研究」。自然人類学者はどう考えるのか。アイヌ遺骨をめぐる政策推進会議のヒアリングで、国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長の篠田謙一は、研究の必要性を力説する。「人骨を対象とした研究のうち、系統学的研究は、人骨の形態とDNAの研究によって先住民集団の成立過程を知るためにも必要だ」と、研究は現在も進行中だと反論する。

琉球遺骨の裁判で、日本人類学は会長の篠田謙一名で、2019年8月、「古人骨は国民共有の文化財として保存・継承され、研究に供与されるべきだ」と琉球遺骨の保管継続を求める要望書を京大に提出した。

一方で、2008年10月、国連の自由権規約委員会は総括所見を採択し、国連は琉球民族を先住民として認定した。

旧満州の731部隊

学問研究目的なら、何をしても許されるのか。こんな実例がある。

琉球遺骨の二人の研究者の指導教官は、その清野謙次だが、その清野が勤める京都帝大医学部の微生物学教室の卒業生に、731部隊長、石井四郎がいる。琉球遺骨の人骨研究と、満州731部隊での人体実験、その二つの「学問」の結節点が、京都帝大医学部教授の清田謙次だ。

731部隊は、アジア・太平洋戦争当時、日本がつくった傀儡国家・満州国に所在し、正式名称を関東軍防疫給水部という。「清野は731部隊の母体である陸軍軍医学校防疫研究室の嘱託として、京大の自分の教室員を数多く石井機関に送り出した」。

「七三一部隊は、十年間に二千とも三千とも言われる人を人体実験によって殺害していた。人を死に追いやる人体実験が許されないのは言うまでもない」(常石敬一著『七三一部隊』講談社現代新書)

 

「七三一部隊」(常石敬一著、講談社現代
新書、1995年)  

   旧満州のハルピン郊外にあった日本陸軍・関東軍防疫給水部
   ボイラー室跡

敗戦後、731部隊の関係者をさばいた軍事法廷ハバロフスク裁判で、部隊の幹部将校は、中国人やロシア人捕虜など3000人の人体実験をしたことや中国国内で細菌戦を実施したと証言した。幹部将校は有罪となり、シベリアで抑留された。その一方で、石井四郎は、アメリカに対して人体実験などのデータを提供する代償として、自らの免訴を要求し、冷戦下、アメリカはアメリカで、ソ連への人体実験データ流出を恐れた結果、アメリカは石井と闇取引をし、石井は処罰を免れた。

731部隊であからさまに表現されているが、そこには「学知の植民地主義」がある。帝国日本国内ではできないような人体実験を、植民地満州や中国人捕虜などを相手に平気な顔をして実施した歴史がある。

そして本来なら、第二次世界大戦の反省にたって、国際連合総会で「世界人権宣言」が採択されたように、第二次世界大戦後は人権が尊重される平和な世界になるはずだった。しかし世界はそうはならなかった。なぜか、冷戦だ。

731部隊の隊長はなぜ戦争犯罪人として処罰されなかったかというと、人体実験のデータを求めたアメリカが冷戦の対立相手ソ連邦へのデータ流出を怒れた結果だ。

日本は、日本国内310万人と国外2000万人の死者と、本土の焼け野原をもたらした「過去の清算」がもとめられた。しかし、それは「冷戦による封印」で不十分に終わった。

731部隊の問題が典型的だが、本来、ひどい結果が生じたら、事実関係をきちんと見つめ、その原因を探し、再発を防止する「過去の清算」が行われるべきだった。しかし、「冷戦による封印」で、臭いものに蓋をしてしまった。

日本全体もしかり、政治家、司法、メディア、そして帝国大学もしかり。敗戦後、「過去の清算」をおこなうべきであったが、「冷戦による封印」の結果、「過去の清算」は不十分におわった。

脱・植民地主義

国際社会ではちがった。国連は、2001年、南アフリカのダーバン(人種隔離政策アパルトヘイトの発祥の地)で国際会議を開催し、人種差別や世界の南北格差の原因が過去の植民地主義にあるとの脱・植民地主義を謳ったダーバン宣言を採択。2007年には「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を締結するなど、植民地主義を克服する試みは主にアフリカやアジア、南アメリカなど、いわゆる第三世界と呼ばれる、かつて植民地にされた被支配国や先住民族の尽力の結果、実を結びつつある。

日本国内でも、アイヌ民族に対して、1997年アイヌ文化振興法の制定、2019年アイヌ施策推進法の制定、2020年国立アイヌ博物館を含むウポポイがオープンした。しかし、琉球民族に関する法的措置はないのが現状だ。

 

永く大日本帝国の植民地にあった台湾でも政権交代のあと、脱・植民地主義の動きが盛んになり、2019年3月、台湾大学は旧台北帝国大学時代、金関が持参した琉球人遺骨63体を沖縄県教育委員会に返還した(ただし、県教委はその台湾からの遺骨を文化財として保存する方針を打ち出した。今回の裁判の原告亀谷正子らは、今帰仁村の百按司墓への再風葬をもとめ、住民監査を請求した)。

国連の先住民の権利宣言を受け、欧米では博物館から先住民への遺骨返還がどんどん進んでいる。日本でも北海道大学はアイヌの遺骨を返還したのに、なぜ京大は琉球遺骨を返還しないのか。人骨研究を進めるには当事者の承諾が必要ではないのか。多様性というのは、相手の自己決定権をみとめることではないのか。いろいろな素朴な疑問が頭をめぐった。人骨を研究する場合、科学研究の倫理的・法的・社会的な議論が必要だ。

日本には琉球民族に先住民族の権利を認めた国内法は存在しないが、国連はすでに先住民と認め、国際人権法を日本政府は批准している。琉球遺骨返還請求訴訟は近く結審し、来年春にも判決を予定するなど大詰めを迎えた。

被告京大だけでなく、司法(京都地方裁判所)の人権感覚が問われている。
(文中敬称略)

 

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問い合わせ先:「琉球遺骨返還請求訴訟全国連絡会」
大阪市北区西天満3丁目14−16 たんぽぽ総合法律事務所 気付

にしむら・ひでき

1951年名古屋生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日放送に入社し放送記者、主にニュースや報道番組を制作。近畿大学人権問題研究所客員教授、同志社大学と立命館大学で嘱託講師を勤めた。元日本ペンクラブ理事。

著作に『北朝鮮抑留〜第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫、2004)、『大阪で闘った朝鮮戦争〜吹田枚方事件の青春群像』(岩波書店、2004)、『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房、2019.6。韓国で翻訳出版、2020)、共編著作『テレビ・ドキュメンタリーの真髄』(藤原書店、2021)ほか。

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