論壇

非戦の思想―崩壊する民主主義下で示す民意 

沖縄発―“そんなに戦争がしたいのですか”

季刊誌『けーし風』編集運営委員 親川 裕子

公約違反をした者は選挙で落とす

「甘えているのは沖縄ですか。それとも本土ですか?」、2012年11月、当時、那覇市長であった翁長健志氏が、朝日新聞那覇総局・谷津憲郎記者のインタビューで語った言葉だ(同月24日付け朝日新聞デジタルに掲載)。更に谷津記者の「利益誘導こそが沖縄保守の役割ではないか」との問いに対し翁長氏は「振興策を利益誘導だというなら、お互い覚悟を決めましょうよ。沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください。そのかわり、基地は返してください。国土の面積0.6%の沖縄で在日米軍基地の74%を引き受ける必要は、さらさらない。いったい沖縄が日本に甘えているんですか。それとも日本が沖縄に甘えているんですか」

続けて翁長氏は「沖縄の民主議員も、普天間の県外移設を主張したから、党本部とねじれて居づらくなった。もし自民政権になればああなるんだよと、仲間に言っています。自民の拘束力の強さは民主とは違いますよ。『県外移設』『オスプレイ配備撤回』などと議員が言えば、党は容赦ない。でもそれに従った議員は、その次の選挙で必ず落ちます。県民は許さない」。

翁長氏の言葉は2009年に政権交代を勝ち得た民主党が、選挙前には普天間基地の県外移設を公約に掲げていたにもかかわらず、舌の根も乾かぬうちに県内移設容認の立場を示したため、2012年の衆議院選挙では自公系候補者の格好の餌食となり、辺野古、大浦湾沖への米軍新基地建設に対し「県外移設」という公約を掲げた自公系議員の 西銘恒三郎氏、国場幸之助氏、宮崎政久氏、比嘉奈津美氏の全員が当選した。しかし、彼らが掲げた「県外移設」の公約は、民主党政権が掲げた「普天間代替基地の県内移設」に反対するパフォーマンス、謳い文句でしかなく、一方で、自民でも民主でも関係無く、ウチナーンチュにとっていかに普天間基地の即時閉鎖と県内移設反対が揺るぎない民意であるかを物語っていた。

しかし、2013年11月25日、自民党石破幹事長(当時)が沖縄県選出の自民党系国会議員5人(西銘衆議院議員、島尻あい子参議院議員、国場、宮崎、比嘉各衆議院議員)を横に並べて座らせ、得意げに「沖縄県選出の国会議員が辺野古移設を容認」との記者会見を行った(これは後述の当時の仲井真知事にも引き継がれ辺野古埋立承認「劇」に繋がる)。

この会見がいかにウチナーンチュの怒りに火をつけたか、2014年、昨年暮れの衆議院解散総選挙で明らかとなる。西銘、国場、宮崎、比嘉各衆議院議員の4人は各々の小選挙区で反自公候補に破れた。「あの会見さえなければ」と思った支持者もいただろう。石破氏が招いた結果とも言える(4人とも自民党比例で復活当選を果たしたが)。興味深いのは4区(糸満市、豊見城市ほか南部市町、石垣市および八重山郡、宮古島市および宮古郡)だった。自民現職の西銘候補の辺野古容認を受けて後援会長を辞任した元県議会議長である仲里利信氏が対抗馬となって出馬したのだ。自民現職と現職の元後援会長という対立図式。現職を相手にさすがに「厳しい」とは言われていたものの、現職の西銘氏は敗れ、仲里氏が勝利を収めた。

「公約違反をした者は選挙で落とす」当たり前のことを、民主主義の大前提を、沖縄は実践したに過ぎない。これは仲井真前知事の敗戦理由にもあてはまる。2010年の県知事選挙で県外移設を訴え、普天間基地を抱える当時の宜野湾市市長であった伊波洋一氏との争点ぼかしに成功し、二期目当選を果たした。仲井真候補の「県外移設」の公約は後援会長を引き受ける条件で翁長氏が挿入したものだった。

しかし、仲井真知事は2013年暮れ、埋立承認に至るまでの茶番劇、座骨神経痛のためにわざわざ東京まで精密検査を受けに行き、自ら総理官邸に出向き安倍首相へ辺野古大浦湾沖の埋立承認を回答するという丁寧な猿芝居(座骨神経痛は沖縄の医療機関では精密検査が受けられないということの方が問題だ)を打ったため、翌2014年の県知事選では元後援会長に敗北を喫した。

整理しよう。ウチナーンチュは普天間基地の代替基地として、米軍キャンプ・シュワブの大浦湾を埋立てて新基地を建設することに強く反対している。ただそれだけだ。

工事強行を阻止しようと非暴力で闘い、翁長新知事は防衛局に工事の中止を申し入れている。翁長知事は県知事就任から何度も上京し政府首脳との面会を求めるが、政府は「日程調整がつかない」として拒否し続けている。安倍首相を初めとし「会わない」のではなく「会えない」のは言うまでもない。菅官房長官は会見で、民意、県民の総意を託された翁長知事の工事中止申し入れに「ありえない」とまで語っている。

「沖縄戦」という「経験値」が意味するもの

沖縄島最南端で最も多くの死傷者を出した糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」。沖縄戦当時、看護隊として従軍させられた沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の教師、生徒たちを戦後、「ひめゆり学徒隊」とよぶようになった。生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員され、そのうち136名が犠牲となった。資料館には戦争前、青春を謳歌していた頃の彼女たちの写真が展示されている。なぜ彼女たちが死ななければならなかったのか。写真を見る度に、生存者が記した証言をめくる度にやるせない気持ち、強い憤りで目頭が熱くなる。

これまで資料館では、ひめゆり部隊の生存者の方々が「二度と子どもたちを戦争に送らせてはいけない」との想いで自らの辛い体験を語り継いできた。幾度か映画化され、ドキュメンタリーなど映像をご覧になった方も少なくないだろう。

しかし、近年、証言者らの高齢化による体力的な負担を軽減するため、学芸員や説明員が証言を受け継いでいこうとの取り組みが始まっている。非戦争体験者が次の世代の非戦争体験者に実相を語り継いでいく。容易ではないこの試みは沖縄戦の風化への懸念と、戦前へと突き進もうとする政治、社会の動きに対する危機感を思う時「取り返しのつかないものを、取り戻すために」極めて重要な意味を持っている。

近年、医療現場でも戦争トラウマに関する研究がすすんでいる。「足が痛くて眠れない」という症状を持つ患者さんを精神科医が診療したところ、実は沖縄戦で死体を踏みながら戦禍を逃れた記憶に由来するものだったという。沖縄戦を体験した70代、80代の世代が半世紀以上を経てPTSDの症状を発症する。これまで沖縄戦の記憶を心の奥底に終い、戦後から米軍占領期を生き残るために奮闘した世代が、やっと落ち着き老後を過ごそうとしたところで、仕舞いこんだ記憶が無意識に蘇る。「最も深刻なのは日本軍による住民への人格の侮辱、破壊。そしてトラウマの世代間伝達。そして治癒されることなく放置されてきたこと」と語るのは精神科医である蟻塚亮二医師の言葉だ。

組織的戦闘が終わっても日本軍の敗残兵による食糧強奪などがあった。戦争体験者からの聴き取りから日本兵による住民虐殺も少なくなかったことがわかってきている。「食糧強奪のために処刑された」「投降を呼びかける住民が米軍のスパイだとして殺された」など。本来であれば住民を助けるはずの兵隊が、緊迫した戦場下で水も食糧も枯渇している中で、疲労困憊の住民を本来であれば非戦闘地域へと避難させることが役目の兵隊が、助けるどころか住民を殺すということへの恐怖感。

事例が示しているように、戦争という極めて特殊な状況下において、このような死を間近に体験するという苦痛を経験しながらも、生きていくための環境に適応するように、ある意味においては自らの心身を守るために心的記憶が失われる、もしくは意識が損なわれる「解離」という状態を経て、痛みが顕在化してくる。「幼児の泣き声が敵に見つかれば殺される。だから子どもを殺せ」と自分の子どもに手をかけた親。生きて虜囚の辱めを受けずと親類同士が手をかけた死。

渡嘉敷島出身の金城重明はこう語っている。

「渡嘉敷島は329人の犠牲者を出したが、私は辛うじて九死に一生をえた。生き延びたことに安堵感は全くなかった。戦後平和を迎えることによって、集団死体験の苦悩はエスカレートし、生きることに絶望した」(「強制された死―集団死の実相」p8『挑まれる沖縄戦「集団自決」・教科書検定問題 報道特集』2008年1月31日、沖縄タイムス社編集発行)。

米軍基地がなぜ沖縄に在り続けるのか

 改めてここで歴史を振り返り、平成25年3月に沖縄県が発行した『沖縄の米軍基地』から在沖米軍基地の生成過程を確認していきたい。

同書では「1.焦土の中の全島基地化」とし沖縄戦から始まっている。

(1)沖縄戦

1945年(昭和20年)3月26日の米軍の慶良間列島上陸に始まった沖縄戦は、太平洋戦争の最後の決戦であり、国内唯一の住民を巻き込む地上戦であった。日本軍は、できるだけ長く米軍に抗戦し米軍の損害を増大させ、それによって米軍の本土上陸の時期を延ばし戦力を消耗させるという持久作戦を展開し、『鉄の暴風』と呼ばれるような激烈悲惨な戦闘が行われた。沖縄戦は、同年6月23日、日本軍の組織的な抵抗が終わり事実上終了するが、この激しい戦闘により失われた人命は一般住民を含め20万人余に及び、その他生産施設や貴重な文化遺産などが破壊され、沖縄は文字どおり焦土と化した。

戦後70年近くたった現在でも、不発弾の処理、遺骨収集など、今なお戦争の傷跡が残っている。

(2)米軍占領と基地構築

1945年(昭和20年)4月1日に沖縄本島へ上陸を果たした米軍は、同年4月5日に読谷村字比謝に米国海軍軍政府を設置、布告第1号(いわゆる『ニミッツ布告』)を公布し、南西諸島とその周辺海域を占領地域と定め、日本の司法権、行政権の行使を停止し、軍政を施行することを宣言した。

沖縄を占領した米軍は、住民を一定の地区に設置した収容所に強制隔離し、沖縄全域を直接支配下に置き、軍用地として必要な土地を確保したうえ基地の建設を進める一方で、米軍にとって不要となった地域を住民に開放し、居住地及び農耕地として割り当てていった(後略)。

沖縄では1943年3月末から北飛行場(読谷)と伊江島飛行場の建設が始まっていた。地上戦が始まる前年1944年10月には「10・10空襲」で那覇はほとんど壊滅的な被害をうけた。同時に日本の南進政策で領土化されていた南洋地域、フィリピンが次々に米軍の攻撃をうけ、1945年2月にはフィリピンがほぼ壊滅状態となった。前述のとおり、同年3月末には慶良間諸島が、4月1日には沖縄島中部の西海岸、渡具知海岸(現在、読谷村)に米軍が上陸した。米軍は渡具知海岸からおよそ1.6kmにあった日本軍の中飛行場(現在の嘉手納飛行場)と北飛行場を占拠。日本軍司令部のある首里、那覇へと進んでいく。全く情報を断絶された住民は壕(ガマ)と呼ばれる自然の洞窟に避難しながら、ある者は北へ、ある者は南へと避難していくこととなる。その間、米軍は艦砲射撃、ロケット弾、ナパーム弾、機銃掃射で民家や農地を焼き尽くしていった。

あくまでも「本土防衛」のための時間稼ぎ、「捨て石作戦」にほかならなかった沖縄戦。およそ3ヶ月間の地上戦で沖縄島中南部はほぼ完全に焦土と化した。犠牲者のおよそ半数が一般住民であっただけでなく、戦闘員を補うため17歳以上45歳未満の男子は召集された。それに加え、中等学校以上の生徒らを学徒動員として戦地へ送り込んだ。

6月23日の牛島(陸軍)中将の自決により組織的戦闘が終わっても、日本軍の敗残兵が到る所に残っており、住民から食料を奪う、略奪する、時には住民をスパイとして虐殺するといったことが横行していた。敷きつくす米軍は沖縄島上陸当初から目的にしていた日本軍が建設した北飛行場、中飛行場を占拠し、中飛行場は住民を動員させ40倍に拡大し嘉手納基地とした。

沖縄全域を直接支配下に置いた米軍は新たな土地を求め、1953年から「土地収用令」を公布し、真和志村安謝・銘苅と小禄村具志、伊江村真謝、宜野湾村伊佐浜に次々と武装兵を出動させ、農民の頑強な抵抗を排除して「銃剣とブルドーザー」による土地接収を行った。銃床で殴りつけ、ブルドーザーで民家や農地を敷きつくした。いずれの土地も住民たちにとって食糧源としてのかけがえのない農地であった。土地を奪われるということは食糧を奪われることに等しかったのだ。自らが招いたわけでもない戦(いくさ)によって土地および食と職を奪われたのだった。

その後、1952年の日米安保条約発効と同時に、日本は米軍用地特別措置法を制定した。日本国憲法は戦争放棄を掲げていたため、軍事目的による土地の強制収用ができず、安保条約に基づく日本全土に軍事基地を置く権利を正当化しなければならなかったからだ。しかし、砂川闘争、伊達判決に見られるように日本「本土」における「米軍駐留は違憲」との判決が下る。

日本「本土」での米軍への基地提供が困難だとした日米両政府によって、沖縄への軍事支配強化の意欲が高まっていった。1960年には日本本土の米軍基地は4分の1に減少し、沖縄の米軍基地は2倍に増えた。元沖縄タイムス論説委員でフリージャーナリストの屋良朝博氏は「沖縄に駐留する米軍の多くが日本本土や韓国から移転してきた、という史実はほとんど知られていない」と語っている。(『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』2009年7月、屋良朝博著、沖縄タイムス社発行)以下、同著から引用する(p83)

メモ:海兵隊移転

「1956年2月、岐阜、山梨の海兵隊は沖縄へ移転してきた。本島北部の名護市辺野古にキャンプ・シュワブを作った。現在、米軍普天間飛行場の移転候補地となっている場所だ。

57年10月、海兵隊は北部訓練場を確保するため山野を接収。沖縄からの撤退が決まった米陸軍のキャンプ・ハンセン(金武町)、キャンプ・マクトリアス(うるま市)を譲り受けた。同八月までに二個歩兵連隊、一個砲兵連隊、一個戦車大隊の沖縄移駐が完了した。

58年にレッド・ビーチ(金武町)、キャンプ・コートニー(うるま市)、60年に安波訓練場を接収、普天間飛行場が空軍から海兵隊へ移管された。

65年、沖縄の海兵隊はベトナム戦争へ派遣された。第三海兵遠征軍司令部がベトナムで編成され、第三海兵師団と第一海兵航空団、第三役務支援群が指揮下に入った。沖縄海兵隊の現組織編成が完成した。

沖縄の本土復帰(1972年)の3年後、沖縄基地の全統括権が陸軍から海兵隊に移り、キャンプ瑞慶覧を司令部基地とした。77年にキャンプ桑江、78年に牧港補給施設を陸軍から引き継いだ」

沖縄に元々駐留していたのは陸軍で、陸軍が使用していた施設を海兵隊が引き継いだかっこうだ。しかし、朝鮮戦争の最中、岐阜や山梨といった場所からより朝鮮半島から離れた沖縄になぜ地上戦闘部隊の海兵隊が移駐されたのか。屋良氏は理由のひとつに山梨での反基地運動の激しさをあげつつも、「軍事的な合理性よりも政治誘導」と語っている。「自衛を目的とした最小限の防衛力整備にとどめるという平和憲法の体裁を保ちつつ、日米安保条約が定める米軍への基地提供義務は沖縄で果たしていく。―そんな筋書きがあったかもしれない」と。

つまり、日本「本土」に置くよりも日本人から見えない沖縄に置いておけばいい。ただそれだけだ。東西冷戦が終結し、世界規模の軍事的緊張関係が無くなった今日において、米軍の日本駐留の根拠、日米安保の意義は果たして何なのだろうか。軍事的な合理性はそもそも無く、ただ「政治」が横たわっているだけなのではないだろうか。

戦後、「搾取」の構造

2014年10月29日、朝日新聞に「沖縄が問いかけるもの」とのタイトルで知事選を前に各氏のインタビューが掲載された。国際政治学者で流通経済大学教授の植村秀樹氏、政治学者で地方自治を実践する試みを続ける琉球大学の島袋純氏と県内建設業界大手の照正組社長照屋義実氏のインタビューが掲載された。

植村氏は沖縄に海兵隊基地が存在する理由は太平洋戦争で米海兵隊のいわば「戦利品」であるためと語っている。有事の際、在沖海兵隊員は佐世保基地からの船を待ち、隊員と必要物資を載せなければならない。時間のロスがあるにもかかわらず沖縄に海兵隊が駐留することは「戦利品」だからなのだ。

島袋氏は「沖縄振興(開発)」予算の高率補助が結果的に自治体の財政を圧迫する自治破壊システムであることを説明する。「建設費の100%を国の費用でまかない住民のニーズそっちのけでハコモノを作ってきた」。雇用も増えず、所得も上がらない。経済波及効果もほとんどなく維持管理費が一般財源で補填され、財政を圧迫。結果、単独事業もできず補助金頼みという負のスパイラル構造に嵌ってしまう。さらに島袋氏は自身の専門であるスコットランドの自治と比較して「自分たちの意志に基づいて地域社会に参加し、社会契約によって自分達の望む政府をつくろう、という開かれたナショナリズムです。だからヘイトスピーチも生まれない。私たちが求めているのは、こういう自己決定権です」と述べている。さらに「今の憲法がある限り、その枠の中で最大限に沖縄の自治を求めたい」と語り、「しかし国民が国家を縛るという立憲主義を否定し、戦前に戻すかのような自民党改憲案が成立するなら、沖縄はその日に独立すべきです。我々の人権も一緒に心中するわけにはいきませんから」と断言している。

照屋氏は米軍占領下から復帰後まで公共事業依存型の建設業が伸びてきた一方で、他の製造業が成長しなかった歪な産業構造があると語る。前述の島袋氏同様、振興予算依存の体質を指摘しながら、苦難の歴史の中で沖縄には長いものには巻かれろという事大主義が存在することも語っている。そのうえで、「しかしそれは、沖縄だけの責任でしょうか。本土側にも問題がある」。「沖縄は基地で飯を食っている」「基地があるから振興策をもらっている」という偏見。こうした基地経済を過大評価する本土目線が、「自立的な経済発展をずっと模索してきた沖縄の前に立ちはだかってきたとも言えるのです。とにかく沖縄に基地を縛り付けておきたい政府には、この偏見は都合が良いでしょう」。沖縄は「基地とカネ」だから、「基地を集めても大丈夫。これはやっぱり差別ですよ。この差別構造がある限りはポテンシャル(潜在力)を生かした自立的な経済成長にはつながらない」と語る。

つくられた偏見によって沖縄の潜在力を搾取されることは構造的差別にほかならない。「沖縄問題」は沖縄に問題があるのではなく「日本問題」であり、日本と日本人自身の問題である。

沖縄から問う「そんなに戦争がしたいですか?」―伝わらない沖縄の現実

沖縄戦では20万人もの犠牲者を出した。戦後も米軍統治下では、1955 年には幼女が米兵に暴行され殺害された由美子ちゃん事件。1959年に沖縄島北部の石川市(現在、うるま市)の宮森小学校米軍ジェット機墜落事件では小学生11人の命が奪われた。1963年、青信号を横断していた少年が信号無視で突っ込んできた米軍トラックに跳ねられ亡くなったにもかかわらず、運転していた米兵が軍法会議で無罪となった国場君事件。1965年読谷村で落下傘を取り付けた米軍のトレーラーが民家の庭先に落下し、遊んでいた小学5年の女子生徒が亡くなった。「日本本土復帰」後も繰り返し続く米軍関連の事件事故。犯罪者である米兵に日本の司法権がおよばない仕組みになってる日米地位協定。

最近再び話題になっている写真について昨年の琉球新報の一面コラム<金口木舌>を読み返してみたい。

今を撃つ30年前のコピーが話題に(『広告批評』1982年6月号に掲載される)

<金口木舌>
2014年5月9日「こんなポスターがある。両端に武装した2人の自衛隊員。少し腰を曲げ、出迎えのホテルマンのように手を広げ、真ん中へ導く。「まず、総理から前線へ。」の文字▼最近のきな臭い空気を映したものかと思っていたら、1982年にコピーライター糸井重里さんらが作ったという ▼同じ思いを持つ人は100年前にもいた。大正期の評論家・長谷川如是閑によると、デンマークの陸軍大将が「戦争絶滅受合(うけあい)法案」を発案した。内容はこうだ。開戦後10時間以内に、砲火飛ぶ最前線に次の順で一兵卒として送り込む。(1)国家元首(2)その親族(3)総理、国務大臣、次官(4)国会議員(戦争反対者を除く)(5)戦争に反対しなかった宗教指導者。さらにその女性親族は最前線の野戦病院で看護に当たる ▼戦場を見た軍人だけあって、戦争の本質を鋭く突いている。戦争をやりたがる権力者は安全な地で声高に危機感をあおるだけ。犠牲になるのは庶民という構図は歴史の常だ ▼時の政権が「戦争ができる国」へと前のめりになっている。「人のけんかを買って出る権利」(思想家の内田樹氏)である集団的自衛権の行使容認に向け憲法までも誤読を企てる。戦場に送り出される心配のない特権階級の人たちが、机上で描く悪魔の青写真だ ▼安全圏にいる安倍さん、絶滅法案こそ正しい意味の「積極的平和主義」だと思いますが、どうですか」

在京の友人は学生時代、関東出身で在住の日本人から面と向かって 「沖縄全体を米軍に使わせたらいい。住民は九州にでも移住させたらいい。そうしたら基地の危険性とか問題にならない。沖縄の産業なんて観光しかないんだから国として失うモノはない」と言われたという。友人は「あの時は本当に相手の胸倉を掴みかけた」と憤った。「だってしょうがないじゃん」という諦めに加え「私は現実的な意見を言っています」という変な虚勢を張っていた、とも。友人は「おそらく情報を手にしても、それで「頭だけではなくて心を動かして理解することができているか」ということだと思う。どんなに辛いのか、悔しいか…と想像する力、それがないんだと思う」と語っていた。

ヤマトから見れば沖縄に米軍基地を押し付けておくことは無条件に当然のこととお思いだろう。だから新聞もテレビも取り上げる必要性を感じていないし故に報道されない。沖縄については日本人に都合のいいパラダイスや癒やしだけで十分なのだろう。それ以外の日本人にとって都合の悪いオキナワは要らないということだろう。想像力の欠如、否、他者の痛みに想いを馳せることができない。それに対していかに無自覚であるか、日本人の本音だと思うと胸騒ぎが起こった。では、原発もしょうがない、のだろうか。集団的自衛権行使容認も仕方ない、のだろうか。沖縄戦を経て米軍統治という経験をした沖縄の地から見るとヤマトの壊れゆく民主主義が手に取るように感じ取れる。戦後、いや、敗戦から70年。非戦の声が届きますように。

【参考資料】

・『沖縄現代史 新版 岩波新書』2005年12月、新崎盛暉著、岩波書店

・『挑まれる沖縄戦―「集団自決」・教科書検定問題 報道特集』2008年1月、沖縄タイムス社編集発行

・『沙上の同盟 米軍再編が明かすウソ』2009年7月、屋良朝博著、沖縄タイムス社

・『沖縄 苦難の現代史』同時代ライブラリー275 、沖縄県編、岩波書店

・『沖縄の米軍基地』http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/okinawanobeigunnkiti2503.html 2013年3月 沖縄県

・琉球新報<金口木舌> http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-224989-storytopic-12.html 2014年5月9日

おやかわ・ゆうこ

1975年生。宜野湾市出身。2008年沖縄大学大学院現代沖縄研究科・東アジア地域研究専攻修士課程修了(地域研究修士号取得)。沖縄大学地域研究所特別研究員。季刊誌『けーし風』編集運営委員。非正規労働者。

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