特集●戦後70年が問うもの Ⅰ

国家保守主義と革命

求められる多元的な政治文化と政治実践

東京外国語大学准教授 友常 勉

壮士と団塊世代

尾崎士郎の『人生劇場』青春編に、早稲田に入学した主人公・青成瓢吉が、大学で出会う同郷の友人に夏村大蔵という学生が出てくる。仲間で学生運動をして放校処分に直面したり、コミンテルンの密命をおびて指名手配されるものがいたり、瓢吉のあぶなっかしい友人たちのなかで、思想信条にかかわりなく仲間を助けるきっぷのいい男である。この夏村大蔵にはモデルがいる。尾崎士郎の中学校からの友人であり、夏目国吉という。

夏目国吉は1897年(明治30)生まれ。千石船で朝鮮半島から大豆を運び味噌を作る廻船問屋を営む家に生まれ、ロシア革命やマルクス主義にも傾倒し、「大陸浪人」をして苦労したあとで、アジア主義・民族主義へと「転向」して戦後社会を「政治浪人」として、壮士然として生きた。その生き方はどこか安岡正篤を思わせる。

夏目国吉というこの人物は、新宿・新大久保で、日本語ができない外国ルーツの子どもたちへの学習支援の活動をつづけてきた、NPO法人「みんなのおうち」副代表をつとめ、多文化共生のさまざまな活動に取り組んできた小林普子さんのご父君である。小林さんは、ご父君から石橋湛山や岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄など歴代内閣の評価や政治の話を日常的に聞いて育った。

小林さんは1948年生まれ。大学・大学院でケインズ経済学を学び、助手としてアカデミズムにも籍を置いていたが、退職し、結婚し、子どもを育て、ひと段落したところで現在につながるかかわりを始めた。

私が教えている大学で開催された、多文化フォーラムのパネラーとしてご一緒させていただいた縁から、私はこのような話を小林さんから聞いた。私にとって印象深かったのは、「1968年」に政治の季節に不可避的にまきこまれていった団塊の世代には、人名事典に残ることもない多彩な経歴をもった親たちがいたということである。しかも、小林さんのお話からうかがえるのは、ご父君と思想信条は異なっても、一方で国家や政治を相対化し、他方でひとりひとりの人間の権利を尊重するという大事な倫理を、ご父君から受け継いでいるということであった。思想や経験の異なる世代が、信頼関係でつながっているのである。むしろ、多彩な経験や思想を共有する空間が存在していたといいかえるべきかもしれない。大正デモクラシー以降の思潮において、マルクス主義やアジア主義、民族主義だけでなく、アナーキズムや農本主義まで含めれば、当代の青年たちは何がしかそうした多元的な思潮に触れていた。多かれ少なかれそれらの思潮には、国家や資本主義、西洋型の産業社会を相対化する部分が含まれていた。

しかし、こうした、多元的で多彩な思想と経験を共有する空間は、戦後70年を迎える今日、日本社会から急速に失われている。そこには戦争経験を共有する場の喪失を付け加えてもいい。マイノリティや「弱者」が自己を語ろうとする場の喪失でもある。そうした空間の消失は、社会の多元的な部分を抑圧するのである。それを社会の均質化と呼びたい。

国家保守主義の形成

中野晃一『戦後日本の国家保守主義 内務・自治官僚の軌跡』(岩波書店2013年)は、国家の権力組織とその統治の技法と天皇制との関係について、示唆的な分析を提示している。中野は戦前内務省が戦後の自治省、総務省へと続き、世襲される官僚と閣僚によって、国家保守主義が形成され、それがあたかも「国家のなかの国家」として出現していることを、人的系譜の丹念な追跡で示している。一例として宮内府および宮内庁人事との関係である。1947年から2013年までの宮内庁長官と宮内庁次長を調べ上げると、戦後、内務省が廃止されたあとに、宮内庁長官・次長ポストが、内務省とその後継官庁によって占有されていくことがわかる。そしてつぎのように総括する。

…宮内庁長官・次長ポストをめぐる内務省とその後継官庁の占有は、奇妙なことに、内務省が廃止された後につくられた戦後の慣行なのである。ここで重要なのは、この戦後の新しい「伝統」が、すでに存在しない内務省にいわば後づけで「国家のなかの国家」としての威光を付与する働きを持ち、このことがまたひるがえって、今度は内務省解体によって生まれた後継官庁に一定の権威を与えるという効果を生み出しているという事実である。誰かが仕組んだものとはとうてい考えられないが、結果として、廃止されて久しい内務省の亡霊に実体を与えている面があることは看過すべきではない。/さらに注目すべきは、戦後の民主化にもかかわらず、こうした不文律が新たに形成されたことは、日本の保守統治エリートにとって皇室がいかに大きな関心事でありつづけていたかを指し示すものといえることである。それどころか、国家のなかで皇室が持つ権威づけ機能への関心が、戦後直後よりもこんにちにおいてのほうが強くなってきている。このことは、1978年より次官級ポスト経験者であることが宮内庁長官就任への条件となっており、1994年からは同じ条件が宮内庁次長に対しても設けられたと見えることからも明らかである。(中野晃一『戦後日本の国家保守主義』岩波書店2013年20-21頁)。

近代日本の官僚は、「儒教的な仁政観と牧民官思想にもとづき、人民教化をもって自らの使命と考える内務省の国家保守主義の伝統」を継承してきた(同上、中野、70頁)。その伝統を守るため、官僚・閣僚たちはそれぞれの子弟の婚姻・姻戚関係の形成をとおして均質な集団をつくりあげてきた。そして数多くの天下り先という「準国家機関」をつくりあげることで、「国家のなかの国家」を社会のあちこちに配置してきた。たとえば警察系内務官僚出身の原文兵衛が初代理事長となるなど、旧内務・自治官僚が深く関与した「女性のためのアジア平和国民基金」もそうである。しかも重要なことは、こうした「国家のなかの国家」形成が、内務省廃止のあとで偶然の力学を通じて発生しているということである。中野はその起点を内務官僚出身で首相にのぼりつめた中曽根康弘内閣による「保守支配の新自由主義的転換」あたりにあるのではないかと推定しているようである(同上54頁)。なぜならそれまでは閣僚の主要ポストの占有には例外もあったし、官僚たちの出自も均質化されていない部分があったからである。そしてこの国家保守主義の転換のもとで、「保守的な秩序維持と近代化にともなう負担や責任を国家から国民へ転嫁する動きが相対的に強まる」のである(同上)。国民を臣民化するこうした統治の根拠に天皇制と皇室が存在している。そして国家保守主義は、その臣民をさらに均質な臣民として把握しようとしている。

社会の均質化というこの現象は、官僚の世界だけでなく、思想や文学の担い手たちにも、ほぼ該当するのではないだろうか。この均質化をひとつの「保守主義」と呼んでもいいだろう。社会の均質化がもたらす保守主義の功罪のひとつは、「国家のなかの国家」を形成し、民主主義を形骸化させていくことである。だが、官僚集団は、民主主義への参与の機会を国民から奪おうとしているのではない。

選挙権年齢18歳引き下げ

一例として、選挙権年齢を18歳に引き下げる公職選挙法改正をとりあげよう。2015年3月5日の現時点で、この法案は国会で成立する見通しである。これは、憲法改正のための国民投票法の投票年齢にあわせて急がれていた法整備であった。しかしこの改正は、民法の成人規定や国民年金加入年齢、さらに少年法改正など社会全体に影響を及ぼす。それどころか内閣と官僚は、そうした積年の課題を実現するために、便乗してさまざまな法改正に乗り出している。こうした政策体系について、国会も、世論も、十分に論議したとはいいがたい。だがそもそも憲法改正の政治スケジュールにあわせて選挙権年齢を引き下げる現政権のやり口は、国民への説明責任を果たしていない。

しかし、普通選挙権の獲得という観点からみれば事情は異なる。それは1945年に、20歳以上の男女に付与された普通選挙権に匹敵する歴史的な改革である。そしてまさしくそうした画期的な意味を有するからこそ、新たな有権者となる若者に向けて、主権者教育の内容をどうつくるかという課題が意識されている。

戦前から、日本の官僚集団、とくに内務省は、普通選挙権の付与にあわせ、国民の政治参加と自治を促す政治教育という課題を強く意識してきた。それが戦後の自治省、そして現在の総務省に引き継がれている。実際、総務省はすでに主権者教育のための参加型学習教材を開発している。官僚集団は、憲法と民主主義を国民のなかに定着させようとする意志を失ってはいないのである。ではこの官制の主権者教育のどこが問題なのか。

それは、国家主義を強めている日本と東アジアの政治状況がその効果を減殺してしまうからである。そして、多元的な政治文化を国家と国民=臣民の単一な関係に還元してしまうからである。

民主主義社会にもとめられている政治文化の核心とは、主権者による自治と自発的な政治参加にある。官制主導の主権者教育が念頭においている政治文化の対象とは、一律の基準で把握された国民である。そして、均質な経験だけが許容される、均質な国民文化である。国家がつくりだしているわけではない、ツイッターなどSNSを通したネットユーザーたちの主張もそうである。ネットユーザーは政治的な主張を表明しているようにみえる。しかしその多くがとりつかれているのは、他者に対する呪詛である。同時に、この呪詛を共有しない思想や経験の多元性は集団的に排除される。

この呪詛はどこからきたのだろうか――それは、国家を相対化できないことに起因すると私は考える。

これに対して、国家を相対化する政治文化の形成という実践は、世界のあちこちで発生している。カリフ制を施行した「イスラム国」による領域的な国民国家に対する軍事的な展開もまたそうである。そこには西洋中心主義のパラダイムに対する革命がある。だが、その国家的軍事行動は領土拡張戦争でもある。これに対して、国家権力をもとめない民主主義の実践であるような政治闘争という点から、昨年、香港の「雨傘革命」や台湾の「ひまわり革命」と呼ばれた、学生たちの政治運動をあげたい(これに、韓国での米国産牛肉の輸入自由化反対運動を付け加えてもいい)。香港では、香港行政長官選挙における普通選挙要求であり、台湾では、中国とのサービス貿易協定の撤回と、それぞれの要求の内容は異なる。しかし共通しているのは、国民の政治参加を拒絶した国家と、対等にわたりあおうとする姿勢であった。国家を相対化し、対等にわたりあうということは、国家の法的統治を逸脱するということである。台湾では立法院を580時間以上に渡って占拠し、香港では中心部を2カ月に渡って占拠した。そこで実現されていたのは、国家の不正をただすためにはイリーガルな行動も辞さない市民的不服従の思想である。

急激な経済と政治のグローバル化に対応するため各国政府は強いトップダウンの政治決定を選択する。それが国家のなかに多くの密室や、国民を無視して独善的に突っ走る官僚集団をつくる。そしてかえって国家の権威を失墜させてしまう。さらにそうした国家は国家間で悪影響を及ぼしあう。 こうした連動する国家主義に対して、国家に対決する政治文化は国境を越える必要がある。ひとびとの呪詛を止めさせ、多元的な政治文化と政治実践をとりもどすことが必要である。そのために必要なのは国境を越えることである。その場所こそが国家を相対化できるからである。

冒頭のエピソードにもどろう。小林普子さんがご父君の生涯を好意的に想起し、心のつながりをどこかで維持することができるのは、小林さん自身が国境を越えて、国家を相対化する政治文化のなかに自らを置いているからである。その立場においてこそ、ご父君の政治文化が評価できるのである。

急激な近代化と西洋化と、それに対する反動としてのマルクス主義とロシア革命の洗礼を受け、しかし国家主義を「発見」したアジアの後発資本主義国の青年たちの経験があり、その子どもたちの代になって、成熟した国際主義的な市民運動が形成された。戦後70年とはそれだけの時間でもあった。逆にいえば、成熟した市民革命には、世代をまたがったそれだけの経験と時間が必要だということでもある。その経験がなしくずしになるかどうかの瀬戸際に私たちはいる。

ともつね・つとむ

1964年生まれ。東京外国語大学准教授。主な著書に『戦後部落解放運動史――永続革命の行方』(河出書房新社)、『脱構成的叛乱』(以文社)など。

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