論壇

黙らない女たち、かく闘う(上)

メトロコマース裁判原告インタビューから見えてくるもの

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

裁判て紙切れのやりとりばかりだなあ

傍聴席に毎度通いながら、いつも見させられるのは原告・被告双方の弁護士が書類の確認をするシーンばかりだ。テレビの法廷劇でお馴染みの丁々発止なんて、まず見られない。たまにあくびが収まるのは、被告側の弁護士が遅刻して現れない時とかか。馬鹿にしているのか、怒りで目が覚める。友人の起こした「メトロコマース裁判」の傍聴応援を続けてきたが、しかし何よりもどかしく、苦しんでいるのは原告の女性4名だった。

メトロコマース裁判の経過

昨年10月、非正規労働者が旧労働契約法20条に基づいて、待遇改善、差別の撤廃を求めて起こした複数の裁判に対して、最高裁判決が相次いだ。労働問題に関心のある方にはまだまだ記憶に新しいはずだ。そのうちの一つが、メトロコマース裁判である。東京メトロのホームやコンコースの売店(METRO‘S)で働く非正規雇用の女性4名が、正社員との非情なまでの格差・差別待遇に憤り、会社(株式会社メトロコマース)を訴えて起こした裁判である。

その大まかな経過をまとめると、以下の通り。

2014年5月1日 東京地裁に提訴(原告4名) 東京メトロの駅売店業務に従事する、期限の定めのない契約をしている正社員と、期限の定めのある労働契約をしている原告らが、同一労働をしているにもかかわらず賃金等労働条件で差別を受けているとし、労働契約法20条違反及び公序良俗に反するとして、差額賃金(本給・賞与,各種手当,退職金及び褒賞の各差額)相当額,慰謝料及び弁護士費用の賠償金を求める

2017年3月23日 東京地裁判決 原告1名の残業手当差額3609円と弁護士費用の一部500円のみ認め、4109円の支払いを被告に命令 他訴えは全て棄却

2017年4月5日 原告が東京高裁へ控訴(被告は3月31日)

2019年2月20日 高裁判決 原告3名に対し、本給・賞与の差額支払い、資格手当の支払いを認めず、住宅手当・褒賞金の支払い、残業手当の差額支払いを認め、既に退職していた原告2名の退職金を正社員の四分の一として認める。既に退職していた原告1名の訴えは労契法20条成立以前に退職していたとして全て棄却

2019年3月5日 原告が最高裁へ上告(被告は3月1日)

2020年10月13日 最高裁判決 退職金の支払いを認めず 他は高裁に同じ

要するに、手当の一部は認めるが、本給・賞与・退職金については正社員と非正規とを対等に扱う必要なしとの決定で、同じ日に出た大阪医科薬科大学を訴えたアルバイト女性への最高裁判決と対をなしている。ちなみに10月15日、日本郵便に各種手当を求めて訴えた非正規労働者への手当支払いを認めた最高裁判決とも足並みを揃えている。

全国2000万以上の非正規労働者へ冷や水を浴びせた判例となったが、私の疑問はここだけにない。1審で「公序良俗に反する」と訴えたのは、原告女性らの尊厳を傷つけた会社側の処遇に対してである。金銭や待遇だけに還元されない、「同じ人間として扱う」ということが、裁判ではまったく取り上げられないことに対する疑問なのだ。だからこそ、一つ一つ丁寧に仕事の内容やそれを取り巻く環境、そこでの心情について説明した原告側の訴えは事実認定に反映されず、上記のような判決しか生まなかった。しかも、裁判の結果を通して知ったのは、判決文そのものが原告らの尊厳をさらに傷つける刃のようなものだったことである。これが民主主義として機能している一機関なのか?疑問は増えるばかりの一方、彼女たちの声を私自身が聞いてみたくなった。

キャリア豊富な人生を否定されて

――知らずになってた「契約社員B」

瀬沼京子さん。4人の原告の中では一番の年長者で、最初に定年退職した。故に高裁判決の際、既に定年退職した2名が退職金その他を認められたのに対し、労契法20条成立時に既に退職していたのを理由にすべての訴えを棄却された。それまで団結して闘ってきた他の原告らとを、司法は分断してきたのだ。

戦後間もない1947年に四谷で生まれ育ち、高校卒業後三井銀行に就職。待遇はよかった。23歳まで働いて、その後兄の写植工場で写植製版に携わる。

瀬沼: それが手作業でやってた時代があって、それがだんだんマッキントッシュに変わっていったんですよ。それで私、マックに変わって、機械も全部変わって、それがやりたくて、そろそろ兄貴のとこ出たかったんで、マックの設置されてる会社に移ったんです。それで、コンピューターの中でやる仕事が面白くて、ずっとやってた。パソコンで編集もやる。まだ1台50万くらいする時代。それみんなでそれぞれ買って。給料よかったから、あの当時。専門職ですよ。だから会社を動く度に給料アップするんですよ。

――マッキントッシュのDTPを初期から扱って、会社を移ってはキャリアップするいい時代。

瀬沼: 仕事を続けてて、50くらいになると、デザインとかセンスとかも、若い人にかなわないんで。会社も設備投資入れて、いろんなパソコン入れてやるんだけど、だんだん自転車操業みたいな所が多くなって、印刷屋さんがどんどんつぶれ出した頃なの。それでその会社も存続危ぶまれることになって、整理解雇みたいなことになって。それでさんざっぱらもう仕事はやったからいいやって、私はやめた。それは53くらい。

――その時は退職金とか出ました?

瀬沼: その時は出ましたよ。ちっちゃな会社だったけど、「私は縁の下の力持ちでちゃんと頑張ったんだから退職金くれ」って、社長に談判したの。20万だっけ、大した金額じゃないんだけどもらいましたよ。

――その頃から筋を曲げずに話し合おうって姿勢は一貫してるんですね。

瀬沼: やっぱり私ちゃんと頑張ってやってきたって自負があるから。この仕事に対して自分は投資してきたし、大好きな仕事だったから。

マンションも購入した。

瀬沼: 両親が私と住むことになったんです。その当時私団地に住んでたから。それで2,3年経って、今のマンション買って、移り住んだ。ローンは組んだけど、利息ばっかりじゃ悔しいんで、6年くらいでさっさと返した。

メトロコマースに入社したのが2004年9月、57歳。「社保完備」、時給1000円、契約社員と書かれてあったと記憶する。

――これまでキャリアがあって、次の仕事選ぶ時の選択は?

瀬沼: メトロの仕事は、友達が求人広告の雑誌を見て、「それ条件いいわよ」って言われて、まだ(求人が)紙媒体の時代だから、メトロっていったら超一流企業だし、ちゃんと厚生年金も入れさせてもらえるっていうんで。私はあんまり販売の仕事なんかやったことないけど。

ヘルパー2級の資格も取っていたが、時給1000円は当時としてはよく見えた。

瀬沼: 面接して、「みんな現場1対1で教えます。研修期間も2か月あるんだけど、1本立ちしても、10パーセントくらいしか残らない、すごいきつい仕事ですよ、大丈夫ですか?」って言われたから、もう後がないと思ってたから、「大丈夫です」って。多少見合わなくっても、いい歳だし、もう他には雇ってもらえないなと思ったのがあって、結局そこなんですよね。会社の付け込むところは。

瀬沼さんは最高裁において会社側が上告理由書で主張した彼女たちに対する「セカンドキャリア」という規定に心底から怒りを感じている。

「会社側の上告理由書では、私たち原告をセカンドキャリアで入社した人間とし、このように主張しています。『例えば長年、専業主婦であり特殊ないしは長期間の職歴もなく、経験・能力に際立つものもないが50歳半ばで入社した』として、原告らは子育ても終わってリタイアした人が残りの人生のために働いているだけで、しかも女性だから低い給料で構わないのだという内容です。非正規だから、正規ではないのだから、あくまで調整弁にすぎないのだから賃金が低くて当たり前と決めつけています。メトロス売店で正社員と同じ仕事をさせておきながら、一人の人間の勤勉なる職務に対して尊厳を傷つけるもので、非常に傲慢なその思考に怒りを感じます。売店で働く契約社員B(後述)は皆、豊富な人生経験をしてメトロコマースに入ってきた人ばかりです。だから人とお金を相手にする一番過酷な仕事も、とっさの判断も、そのキャリアを生かし頑張って対応が出来るのです。(上告審に対する原告側の要請書より)」

少し長いが瀬沼さんの文章を引用させてもらった。長らく専門的な仕事に携わってキャリアを磨いてきた誇り高い瀬沼さんにとっては、尊厳をずたずたに傷つけられる許しがたい言葉だったに違いない。そもそも入社する時から、不均衡な立場を自ら認めなければならず、会社はそれに胡坐をかいている。そのことを露骨に表明してみせたのが、会社側の上告理由書である。

そして、会社の主張する如く、彼女たちは「経験・能力に際立つものもない」労働者だったのだろうか?

新宿三丁目の売店で、マンツーマンで仕事を教わる2か月の研修が始まった。

瀬沼: 教える人がすごくきつい人で。契約社員Bの。すごくいじめられた。「オニババ」って呼んでたもん。それまで私は難しいことをやってきたんだから、こんなやさしい仕事でこいつに威張られてたまるかって思ってたから、徹底的に我慢した。2か月で研修終わったんですけど、新宿東口に行ってもらうことになるからって。

売店業務は2人が1セットになり、早番を片方が1週間続けたら、次の1週間は遅番になるというふうに早番遅番を1週間交代で繰り返す。ローテーションと組む相手は会社が決める。

――交代で働いてるとそのローテーションの相手としか基本的に会わない?

瀬沼: そうそう。で、社員さんとか契約Bでも休憩交代に来てくれたから、その時に違う人と話した。

――じゃあ、交代する相手と休憩交代の人が顔を合わせる人?

瀬沼: そうそう。だからそういう時の社員さんなんか来たりすると、社員さんと初めて仲良くなったことあって。

――交代の相手は社員がいたり、契約Bがいたり?

瀬沼: 私は契約Bしか。ローテーションの相手は契約Bのみだった。

会社は売店業務に従事する労働者を、正社員、契約社員A、契約社員Bの3つに区別していた。正社員は、2000年、営団地下鉄グループの再編成に伴い当時の「株式会社地下鉄トラベルサービス」(2004年株式会社メトロコマースへ変更)へ、売店業務を運営していた「財団法人地下鉄互助会」から正社員としてそのまま移動してきた者と、契約社員Aから登用されて正社員になった者の2つに大別される。

正社員は、例えば40歳以上は本給として一律72000円の年齢給プラス職務給として108000~337000円までが加算され、契約社員にない住宅手当家族手当、褒賞金(勤続年数の区切りごとに払われる)があり、ボーナスは年に二度本給2か月分に176000円を加えて支給され、退職金は本給に勤続年数に応じた支給月数をかけた金額を支給される。単純に計算するとボーナスは少なくとも年1072000円、退職金はウン千万円になるわけで羨ましい。

契約社員Aは月給制で本給165000円、これに加え、深夜労働・早出残業・早番・通勤手当等の各種手当があり、昇給制度も設けられ、ボーナスは年2回総額594000円支給、退職金は支給なしだった(2016年「職種限定社員」に変更時より退職金支給あり)。これに対してBは一律時給1000円(2010年組合の団体交渉成果で1年に10円ずつ昇給に変更)、各種手当は出るが、正社員にある住宅・家族手当や資格手当などと褒賞金、退職金は無く、ボーナスは年2回120000円ずつ支給された。(最高裁判決文に基づく)

ここで分かるのは正社員とのあまりに明確なトータルで手にする金額の格差である。契約社員AとBは本給についてはあまり差が無いように見えるが、月給制と時給性の違いがある。そしてボーナスの差が大きい。ちなみにAはBから登用されるが、2010年会社が登用試験の実施を始めるまで、BからAへの登用基準がはっきり示されていなかった。Bに至っては団交を開始するまでは時給1000円の昇給無しである。

このように一緒に働いている者同士で格差が設けられていることを、契約社員Bとして雇用された本人たちはBという格付けであることも何も知らされていなかった。

瀬沼: 当時は週一で「点呼」があり、新宿エリア単位で事業所に集まってました。だから、正社員とAとBがある事は仕事をして行く中で、割と早期にだんだんと分かって行ったのかも。最初はただただ仕事に早く慣れなきゃと思ってたし、こんなにも待遇差があるとも知らなかったので、気にもとめなかった。ただ、見習いもベテランも時給1000円てのは変な会社だ!とは思いました。とにかく秘密主義の会社なので、「あの人はAだよ、だから凄い威張ってる」とか、悪口・ウワサ話でその都度、知って行ったというのが実態です。

瀬沼さんが雇用された当時、彼女の知りうる限りではメトロコマースの事業所は日本橋、霞が関、池袋の3か所あり、各事業所に週1回早番を終えた従業員が集まって「点呼」を受ける(「点呼」の間隔と場所はこの後、事業所が後楽園1つにまとまり1か月に1回、3か月に1回と減っていった)。各売店でのローテーションの相手や休憩交代員と話をする他は、「点呼」後、一緒に帰宅する従業員同士のお喋りが、バラバラに働く者たちにとって重要な情報交換の場だった。そこで少しずつ知っていったのが、会社の明かさない待遇の格差である。同僚と交わすひそひそ話の中に、少しずつ疑問と不満が溜まっていった。

あなたたちに専業主婦は出来ますか?

――売店の仕事はこんなにハード

加納一美さん。メトロコマースに勤めたのは4人の中で一番早い2004年4月。年齢は瀬沼さんより1つ下で佐賀県の生まれ。海苔の産地で有名な町で育ったが、父はサラリーマンで古風な考えの持ち主。東京へ行きたかった加納さんの希望は「女だから」という理由で叶えられず、2年間地元で事務員を勤めた後、満を持して「1年間だけの各種学校だから」と母から父に説得してもらって念願の東京へ。四谷左門町に住み、お料理、お茶と花嫁修業のような学校に通った後は、もう地元へ帰る気はないのでさっさと就職。赤坂見附にある「A設計」という大きな建築設計事務所で受付と事務などを担当した。

加納: 受付でハンカチもらったことある。初めて見たわよ、あんな綺麗な刺繍のハンカチ。

まあナンパだ。結婚した相手も受付で加納さんに一目惚れしていた。27歳で同じ会社の工務部に勤める青年と結婚。

加納: 向こうから付き合ってくれって。付き合ったのはそんな長くない。何回かで「僕の嫁さんになってくれ」って言われたから。周りの人もどんどん結婚してたし。私は100パーセントその人が好きじゃなかったけど。それで結婚したら、まあなんて素晴らしい人、うちの父と全然違う!

専業主婦となり、7年後に子供が出来た。不便な場所の1戸建てからマンションを購入して移る。一級建築士だが工務部の現場通いが多い仕事で、日帰り出張を繰り返す夫の体に異変が起こった。

――旦那さんは亡くなった?

加納: 子供が高2の時に。病気っていうか突然に。心臓。もっともっと長生きして欲しかった。53で亡くなって、私が52。間に合わなかった。ショックだった。だんだん好きになってきた人。

退職金と遺族年金は出たが、高2の息子を抱えて、働かざるを得ない。

加納: 義理の妹の紹介で、板橋区の学校事務のアルバイト。で、3年やってたんだ。6か月で更新しなきゃいけなかったの。それで同じ学校にいられなくて、違う所に行かされるの、6か月毎。どうせ働くなら、私はフルタイムで一所懸命働きたいと思った。8時間(労働)じゃなかった。時間制限があったからあれ以上は働けなかった。何時間か忘れたけど、もっと働きたいと思った。時給1000円もらってない。

前にも述べたが、会社側が2019年5月に提出した上告理由書で、「それは、例えば長年専業主婦であり、特殊ないしは長期間の職歴もなく経験・技術・能力に際立つものはないが、子育てなどが一段落つき、セカンドキャリアとしてフルタイムで仕事や一定の賃金を得たいという層である。
 このことは被上告人ら4名がいずれも年齢が50代半ばのころに応募し、雇用された事実からも明らかである。」と規定した契約社員Bは、一見元専業主婦であった加納さんの例に当てはまるように思われるが、切実な生活上の必要に基づき職を求める人間に対して、ついでに働くような決めつけは通用しない。しかも「際立つ能力がない」などとは、そもそも高い能力を持たないと維持できない家事労働に従事してきた専業主婦に対する侮辱である。

――セカンドキャリアなんて言われてどうでした?

加納: 私ほんと傷つけられたと思う。馬鹿にしてるよね、専業主婦を。じゃあ、あなたたちは出来ますかって。24時間ですものね。ほんと外で働いている人が偉いっていう男の(考え方)。

小竹向原の駅で、売店の方を見たら「急募」っていう張り紙が目の前にあったから、(連絡先)記録して、面接に行ったのが3月。「来て下さい」って。で、「いつから働けますか?」「4月から」って。契約書とかマニュアルとか、そういうのなかった。

――売店のポスター見て入った理由は?

加納: フルタイムで働けるっていうこと。1時間1000円。週40時間て書いてあった。だけど(入ったら)私は7時間で、土曜5時間で。仕事きついと思わなかったけど、私接客好きだったから。2人いるじゃない、私はもう1人の意地悪い人から教わった。すごいストレスだった。ひと月研修受けたけど、この人からでは覚えられないと思ったの。怒られるのが恐怖で。で、上司にね、代えてくれって言ったの。そしたら淡路町の丸ノ内線コンコースの売店に移動になった。

55歳の4月に入社。有楽町線の池袋駅ホームに配属になり、契約社員Bから指導を受けたが、瀬沼さんと同じようにきつい扱いを受け、移動を願い出て、認められた。この話を聞く度に、日本陸軍の初年兵いじめを思い浮かべる。階級制組織の抱える構造的な暴力、いわゆる「やられたらやり返せ」。

加納: 定年退職した人が延長でやってたとこだから、ちゃんと仕事教えてくれたね。正社員。65で定年退職して、あと契約Bになるんですよ。

この当時、契約社員Bは65歳定年後の雇用延長は認められていなかったが、正社員はBとして延長することが出来た。この差別をのちに団交によって正すことになる。

勤務は基本、交代制の7時間労働で月曜から金曜まで、土曜は5時間働いて、週休1日で週40時間の計算になる。

加納: 1日7時間で土曜もやる所と、8時間(で週休2日)と。開店時間も違う、場所によって。でもそれも最近でしょ、最初入った頃は一緒だったと思った。

ここで売店のタイムテーブルを見てみよう。

時期と売店によって違いはあるが、1日7時間勤務、開店時間6:30~22:05の早番の一例で見てみると、

開店前に早出して電気類(ハンディといわれる納品等の端末やパスモの読み取り機)に電源を入れ、前日の新聞返品数をハンディに入力、新聞梱包、返品の新聞・雑誌や折り畳みコンテナ(オリコン)、ラック類を売店の外に出し、毎朝のチェック表に記入、釣銭用意、トイレに行き、雑誌の納品数チェック、シャッターを開け、納品数をチェックしながら新聞をラックに収納、雑誌も同様、本日発売の札を付ける。ここまで開店前にやっておかないと並べながら新聞等売るはめになるので、早出せざるを得ない。

開店後、店内の全ての商品(タバコ・菓子・飲料・雑誌等)は常に補充しながら販売業務、9時には集金センターに渡す納金袋・伝票の準備、飲料業者が複数あるのでそれぞれに用意、注文の電話、納品毎に納品状況をハンディに入力、伝票はファイルに収納。10時にトイレ交代要員が来てくれる。

雑誌の陳列チェック、補充、11時には夕刊紙のために新聞陳列を直し、休憩交代用に釣銭用意、休憩交代要員に注文の引き継ぎ、パスモの点検表プリントアウト、11時40分から1時間休憩だが、トイレに行き、売店に戻り中で食事、食事終わり次第すぐ届いた商品の検品・収納、外に回って商品補充、13時ゴミ出し、13時半朝刊引き上げ、返品数チェック、ハンディに各新聞毎入力、梱包、14時掃除、遅番とレジ交換、売上金を計算し納入袋に入れ、テレカの売上表に記入、遅番に仕事の申し送りし交代、14時半にハンディへ退店入力、勤務終了。

まあ、お店1つの仕入れ、注文、返品、収納、販売、補充、清掃、金銭管理、伝票管理等の業務を超コンパクトな空間で一手に引き受けている感じだ。しかも商品の種類と数が半端でない。新聞は朝日・毎日からジャパンタイムスに至るまで、土曜だと競馬新聞も入荷する。雑誌は週刊誌から漫画雑誌(瀬沼さんの挙げた例では雑誌の納品総数が月曜約460~500冊、水曜約320冊、木曜330冊)、タバコは言うに及ばず、飲料、ガムやその他諸々の菓子、雑貨、そのほとんどの値段とどこにあるかを記憶し、暗算で素早く売り、万引きにも目を光らせながら、売る都度商品を補充していく。

このハードな業務を50代でこなす女性たちを、会社側は前述の上告理由書で、「固定売店業務は、接客を伴う業務であるが、扱う品物の単価も低く、扱う品数も多くなく、購入者に対して商品の説明を要さない、特殊な技能を必要としない単純業務である」「経験はもちろん、特殊な対応を要する技術や能力が求められないものであり、その反面、経験を積むことによる技術や能力の上昇の可視化も困難なものでもある」と決めつけた。

実態を見ていないなら評価も出来まいが、瀬沼さんの話によれば、会社の人間が、「10パーセントの人しか残らないきつい仕事」と面接時説明していたのだから、「能力が求められない」「能力の上昇の可視化も困難な」仕事ではないと、少なくとも認識していたはずである。それとも、やむを得ず働かざるを得ない事情を抱える女性が、きつい労働を我慢するのは当然だとでもいう意味で見下しているのなら、なおさら看過することはできない根源的な差別がそこにある。

――このタイムテーブルを見ると、朝開店前にかなりサービス残業している。

加納: そう。だからこれをやらない人は開店してからまだやってんの。また(売る度に売店に)入って、また(新聞等を)入れてって。それがいやだから。大変な思いしなきゃならないから。私が入った時、開店前に来て準備するのは当たり前。誰でもそういうふうに教え込まれてるから。第三者から見たらおかしいよね。でも、私たち、(組合結成後)団交して、それを認めさせるようなことしたのよね(組合の団交については後述)。

加納さんは売店の移動も多かった。池袋ホーム、淡路町、銀座一丁目、宮益坂、池袋中央、この後休憩回りなど、内幸町口、大手町ホーム北、市ヶ谷JR口、茗荷谷で10か所。ちなみに瀬沼さんは7か所、この後登場する疋田さんは8か所、後呂さんは売店で5か所、土産物店(後述)で4か所である(瀬沼、疋田さんは休憩回り含む)。

加納: 私はけっこう変わったの。

――それは選べない?

加納: 勿論。気分で動かしてるんだよね。会社が言うには、通勤に便利なようにしてるって言うけど、ずいぶん遠くに通ってる人いたよ。「近いとこにしました」なんて言うけど、私は逆に「遠いとこがいいです」って言ってあげたの。

後に裁判で、「正社員は業務の必要により配置転換等を命ぜられることもある(最高裁判決文より)」のを理由に、正社員と非正規は待遇の違いがあっても不合理ではないとの理由が繰り返されることになるが、実質東京勤務が前提のメトロコマースのような会社(「正社員であっても転居を必然的に伴う配置転換は想定されていない<高裁判決文より>」)で、勤務地について比較するなら、会社都合で勤務する売店を移動させられる契約社員Bの方が、むしろ正社員の契約並みに扱われているのではないか。

同じ早番の同僚と帰りながら仕事の「おかしさ」について話すようになった。

加納: おかしいよねえおかしいよねえ、って、毎日話し合ってても、なんの解決にもならないでしょう。だから、労働組合とかね、そういうの入った方がいいよねっていうふうに作ったんだけど。ともかく、このまんまじゃ何にも改革にならない。陰で言っただけで満足しちゃいけないと思ったの。

――会社に睨まれるのが怖くて怖気づく人の方が多いけど、そこを踏み込んでいく強さがあると思うんですよ。怖くなかったですか?

加納: 全然。そんなのどうとも思わなかった。少しでも会社が変わってくれればそれでいいと。

組合入って強くなる

――早出は「サービス」当たり前?

疋田節子さん。瀬沼さんの3つ下で、母の実家である石川県の裕福なお寺で生まれた。女学校を2つも出て、僧侶の免許も持つ聡明で美人の母親に仏教の説法で諭されながら育ち、手一つ上げられたことがない。父の仕事の関係で3歳くらいの時に東京は浅草の菊谷橋に住まい、遊び場は松屋デパートの屋上だった。親の意向で仏教系の高校へ進学したが、本当は陸上競技をやっていて日大付属に行きたかった。

疋田: つまんねえ学校。私の性に合わない。勉強は苦手で。母親に言ったことあるよ、何で妹は頭がいいのに私だけ悪いのって。「あなたは素晴らしい人です。あなたは社会性が抜群です。お話の仕方も上手だし、何といっても美しい」と。

隣で父親も頷いていたそうだ。こんな親に育てられたいものだ。高校卒業後、資生堂へ入社し、デパートで美容部員を3年ほど勤めた。その後は家にいて、運転免許を取ったり、料理学校へ行ったりしながら父親の仕事を手伝っていたが、電車の中で声をかけてきた男性と結婚。親の反対した通り、ギャンブル狂だった。疋田さん自身はギャンブルというものがこの世にあることも知らなかった。

5年後、3つと1つの幼い子供を連れて、親に頭を下げ離婚。実家にいながら事務員の仕事を10年勤めたが、その間家にはお金を入れずに暮らしていたので結構お金が貯まり、近くの賃貸マンションを借りて移った。妹が広告の企画制作会社を興し成功、そこの会計事務を手伝っていたところ、再婚を勧められお見合い、結婚。東伊豆の旅館で調理師をしていた男性のためそこへ引っ越したが、2004年の4月、帰宅した夫に理由も分からずいきなり腹を蹴られた。次の日勤めていた魚屋へ行ったが、どうにもならず医者へ。脾臓が破裂する重傷。

疋田: ドクターヘリ乗って、長岡の順天堂行ったの。私乗り物大好きで、ヘリコプター初めて乗れて、感動しちゃった。

どこかいつも呑気な疋田さんだが、DVには黙ってはいられない。損害賠償を求めたが、またもや母親に諭されて1円も得ず、結局離婚届を翌年に出した。実家へは2004年6月に戻って2か月ほど療養していた。

疋田: 仕事を探してるって言ったら、友達に「じゃあ私の友達にこういう売店に勤めてる友達がいるから紹介してあげようか」って言われて。それがメトロコマースの下請けで売店持ってた企業っていうか。

メトロの売店にはメトロコマース直営と他社に業務委託した店舗と2種類あった。

疋田: そこは下請けの下請けだから、そこで働くかそれともメトロコマースの直で働くか。直で働くと時給はいいよって言うの。あの当時で(メトロコマースは)1000円で、(下請けは)900円くらいだったのかな。もっと下だったかも知れない(当時850円)。4つあんだよ、メトロコマースの「四即売」っていうんだけど。そこで時給がいいから、メトロコマース紹介してもらったの。それで面接受けて、「はいどうぞ」。8月の6日だったかな、入社日。私ずっと正社員で働いてきて、メトロ入ったら時給じゃん。それがピンと来なかった。事務員も妹のとこも魚屋さんも正社員で。

(註―「四即売」とは、新聞や雑誌を納入する4つの会社のことで、売店の数が多かった頃、この納入会社に等分で売店業務を委託した。半分以上の売店が四即売だったこともあるという。定年退職後の正社員や契約社員Bの再就職先として、受け皿にもなっていた)。

研修は丸ノ内線の銀座駅ホームで受けた。

疋田: 突然やめる人もけっこういたのかな。朝早い、夜遅いで。研修習ったのはバリバリの正社員。だから怒られたことあんの。6時半に来いって言うから6時半に行ったら「もっと早く来い」って言われて。開店7時くらいだったの。でも新聞入れる、雑誌入れる、とにかく朝は忙しい。それこそ京成の朝一番の電車で行ったよ。働かないと食べていけないと思うとやっぱり力入るんだよね。だって新聞だって1社や2社じゃないでしょ、ジャパンタイムスやら全部あるし、雑誌だって、見たこともない漫画とか。またよく売れるんだよ、ジャンプとか。5時40分とか6時くらいに(着いて)。やっぱり1時間くらいはかかるわけ。

――開店は7時だと給料は7時からしか出ない。

疋田: そう、出ない。

――1時間はサービス残業。

疋田: そう、ずうっとサービス残業だった。まあ組合立ち上げて、さんざん言って、やっとその早出残業、手当を取った(後述)。7時になるともうラッシュが始まるから、ものすごいわけよ、忙しくてさあ、計算出来ないと、「(早く)計算してくれよ!」って。

――レジは最後まで入れなかった?

疋田: 全部暗算。飲み物買って新聞買ってガム買ったり、雑誌買ったり、大体は2つだったけど、時々3つ以上買う人いる。昔ソロバンがあったんですよ、電卓もね。こっちからも手が出る、次から次から手が出る、使ってるヒマがないの。

銀座に南と北の2売店あって、最初南口の方の売店に行って研修受けて、反対側の北側の方の売店で、そこで独立。その後に飯田橋の有楽町線のコンコース行って、池袋のサンシャインのある方のコンコース、その時に、電車に走って乗ろうとして、閉まるところで、バーンと。そしたら肩の骨(折った)。それで3か月休んだ。その時に、我々は、有給(14日)使ったらもうアウト。休業手当が出ないということがわかった。社員は出るんだよね。そこの差だよね。まるまる3か月休んだのか。

そしたらお金が無くなって、貴金属持ってたの売り払って、生活費にしたの。ここ(マンション)のローンがあったわけよ。10年ローン組んで、返す6万にここの修繕費が2万くらいあるから8万弱くらいあったの。それをずっと払っていかないと、それもあってもう必死。

ケガをしたなどのトラブルがあると、はっきりと正社員と非正規の違いがあぶり出される。後に裁判によって会社側から開示された情報では、正社員は減額だが6か月間有給とある。

疋田: 3か月半くらい休んで、すぐには復帰できないって言って、休憩回り(トイレや1時間休憩の間の代行業務)をやったの、1か月半くらい。その後に千代田線の北千住行ったの。あそこは忙しかった。狭いし。ホームだから排気がすごくて、鼻の穴真っ黒だよ。

――どこも排気は悪い?

疋田: もうすごい。公害だよね。だってそこに8時間いるんだから。町屋の前は新御茶ノ水、千代田線のホーム。2か月くらいしかいなかったの。掃除大好きだから、きれいにして。売店の中も汚いし、飲み物の後ろの煤、こんなあった。片付け大好きなのね、苦にならない。だから町屋の売店の時は、こんな汚い売店見たことないって。組合やってたから、「我々組合員はこんな汚い所で仕事は出来ない、トラック持って来て」って、会社の人に言って、「見てみろ」って。とにかく要らない物全部撤去させて、ほんとトラック1台分あったの。

――強くなりましたね。

疋田: それからずっと町屋。カンパももらったり、いろんな人から。(今勤めている)店でも来て、いろんな物買ってくれるし。長いよね。

――移動する方が辛い。

疋田: 辛い。町屋は家が近いし、体にも楽だったし、すごく楽だった。

――組合の人とはいつ知り合った?

疋田: 結局、組合員が来て、全売店に「組合立ち上げました」っていうビラ配ったわけよ。私も何で同じに働いてんのに待遇が違うって、すごく不満に思ってた。2人で売店やってるでしょ、相手が休むと社員か契約社員Aが入るのよ。仲良くなって喋ると、私たちと違う契約だな、ボーナスがいっぱい出たとか、私たち一律12万円だし。食事補助券なんてあるし、あの時デニーズかなんかで使えたのよね。(会社が)半分負担して半分自分が負担する、紙の金券みたいなの。何で私たちには無いんだよ。ものすごく不満に思ってた時に、「東部労組に入りませんか」みたいなビラが配られて、私は入ったの。(以下次号に掲載)

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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