特集 ●第4の権力―メディアが問われる  

説明責任を果たさせる報道が必要だ

メディアは日常的に権力監視を×私たちも政治・社会のあり方を決める主権者の自覚を

法政大学教授 上西 充子

世の中は20人が決めているのか

筆者は『政治と報道 報道不信の根源』(扶桑社新書、2021年3月)で、読者の立場からの政治報道への問題意識を世に問うた。

その問題意識を改めて整理すればこうなる――果たして記者は、そして報道機関は、政治を動かすのは誰であると考えているのか。彼らにとって読者とは、どういう存在であるのか。

朝日新聞編集委員の浜田陽太郎は、「くらし編集部」で年金や医療の取材をした後に小泉純一郎首相が率いる首相官邸の記者クラブに配属されたときのことを『「高齢ニッポン」をどう捉えるか』(勁草書房、2020年)にこう記している。

 

政治のデスクからは「世の中は、20人が決めている。それを取材するのが政治部」とたたき込まれた。(p.219)

 

政治報道の眼目は、「権力の中心軸」の位置と今後の動きを正確に見定めることだ。(中略)政党幹部など「世の中を動かす20人」には番記者がつき、片言隻句、一挙手一投足を記録し、その情報をもとに権力の状態を分析する。と同時に報じることで権力の有り様に影響を与える。(p.222)

 

確かに政治報道はそういうものが多い。首相や大臣が国会や記者会見でこう述べた、政府はこの問題についてこういう見通しを示した、といったオモテの動きを追った記事と、官邸幹部、政権幹部などと名前を伏せながらオモテからは見えない権力者の動きを伝える記事が毎日発信される。

しかし、「世の中は、20人が決めている」のだろうか。それでいいと政治記者は考えているのだろうか。それでは民主主義国家と言えないのではないか。

毎日新聞の社会部、経済部、北米総局特派員、統合デジタル取材センター長などを経て現在は編集編成局次長を務める齊藤信宏は、『ジャーナリストの仕事』(毎日新聞出版、2021年)の中でこう述べている。

 

最近なにかと記者の姿勢がやり玉に挙げられる場に、記者会見がある。(中略)だが、実際にはあのような衆人環視の下で本当のことが聞けるものだろうか。

もちろん記者会見であれば、首相自身に答えを求める数少ない機会なので、ずばり質問をぶつける価値はあると思う。(中略)しかし記者会見とはそもそもが「作られた場」でしかない。いくら会見の場で首相を攻め立てても、得られる情報は限られている。

相手の本音を本気で引き出そうと考えるなら、しっかりと人間関係を構築して、「この記者だったら自分のことをわかってくれる。信頼できる」と思ってもらうことがなによりも大事だ。(p.28-29)

 

しかし、「本音」を引き出すことは、そこまで重要なのか。そもそも、何のために「本音」を引き出すのか。公式発表はうのみにせず疑ってみる必要がある、それは理解できる。しかし説明責任を果たさせることよりも「本音」を引き出すことの方が重要だろうか。

安倍晋三前首相にしても菅義偉首相にしても、国会や記者会見などオモテの場ではまともな説明を行わないまま、官邸キャップや番記者とのオフレコの懇談会は繰り返してきた。そして読者の批判の目を気にしながらも、多くの報道機関がオフレコの懇談会に参加してきた。なぜそうするのか。そこで語られるのも、同様の見解だ。

「桜を見る会」問題のさなかの2019年11月のキャップ懇談会と12月の番記者懇談会、さらに翌年1月のベテラン記者との懇談会に出席した朝日新聞は、「首相と会食、権力との距離は 記者ら飲食ともにする懇談」(2020年2月14日)という記事を出し、円満亮太政治部次長がこう述べていた。

 

今回の首相との会食への参加には、社内でも議論がありました。桜を見る会をめぐる首相の公私混同を批判しているさなかです。しかし、私たちは機会がある以上、出席して首相の肉声を聞くことを選びました。厳しく書き続けるためにも、取材を尽くすことが必要だと考えたからです。取り込まれることはありません。

 

機会がある以上、とは言っても、親しく懇談し、相手の懐に入っていこうとすればするほど、オモテの場で厳しく問うことは難しくなるだろう。心情的にも権力者の目線に近づいていくだろう。それでもいいのだろうか。

浜田が政治部デスクから叩き込まれたという内容や、前述の齊藤の見解に照らし合わせれば、それでもいいというのが現在の主要な新聞社の政治部幹部のスタンスであるように見える。記者会見という「作られた場」で厳しく問わなくても、オフレコの場で「本音」に迫ることができればいいのだ、なぜなら、「世の中は、20人が決めている」のだから、と。「いや、そんなことはない」と、各社の政治部幹部らは反論するだろうか。

私たちは「観客」か

「世の中は、20人が決めている」というスタンスで政治報道を位置付けると、メディアは、長期的な問題への地道な政策報道が難しい/制度・政策の複雑さを扱いきれない/有権者を「観客」扱いしてしまう、という難題を抱えることになると浜田は指摘している。そう、私たちは報道から「観客」扱いされがちだ。しかし、私たちは「有権者」であり、本来は、政治のあり方、社会のあり方を決める主権者だ。

政治部的な政治の見方に対抗するため、私はこの間のインタビューで、「政治の動きは津波じゃない」と語ってきた。津波であれば、私たちはそれを押し返すことはできない。だから、逃げ遅れないためには、できるだけ早くその予兆をつかみ、できるだけ早く報じてもらうことが大切だ。しかし政治は津波ではないので、私たちの生活を押し流そうとする動きがあるときに、それに私たちが反対することによって、押し戻すことができる。

押し戻した例を3つ、挙げてみよう。1つ目は、2018年の働き方改革関連法案から裁量労働制の適用拡大案が削除されたことだ。野党や労働組合、労働弁護士、「全国過労死を考える家族の会」、エキタスなどが反対していた内容だが、政府は規制強化策と抱き合わせの法案にすることによって押し通そうとしていた。同年1月29日に安倍首相が答弁で言及した裁量労働制をめぐるデータの比較に筆者が疑義を呈し、それを受けて野党が追及。安倍首相が2月14日に答弁を撤回。これを期に多くの報道が法案の隠された論点である裁量労働制の適用拡大に注目した。その後、元データに異常値が多数見つかる事態となり、予算成立をめぐる攻防も絡んで、政府は2月28日に裁量労働制の適用拡大案を法案から削除することによって事態の収拾を図った。

2つ目は、2020年5月の検察庁法改正案の見送りだ。個別の検察官が幹部にとどまれるよう特例的に政府が認めることが可能となるこの改正案について、野党は不透明な経緯によって行われた黒川弘務検事長の勤務延長の問題とあわせて国会で追及しており、日本弁護士連合会も反対声明を出していたが、大きな社会的関心を呼んでいたわけではなかった。

その中で、同年5月8日に「笛美」という名のツイッターアカウントによる「#検察庁法改正案に抗議します」との投稿をきっかけに、著名人にもツイッターデモが広がった。その広がりが新聞やテレビでも報じられ、さらにテレビの報道番組などに携わる有志の団体であるChoose Life Projectが連日にわたり野党議員や検察OB、学者、市民らの声を集めたネットの生放送番組を通して問題を詳しく伝えたこともあり、法改正により三権分立が損なわれる危険性に対する認知が広がった。

5月18日に政府は通常国会での同法案の成立を断念。黒川検事長と記者らとの賭けマージャン問題が週刊文春で報じられたのは、その後の5月20日のことである。報道に向けた動きを政府が察知したのかもしれないが、それだけが見送りにつながったとは考えにくい。なお、笛美さんはニュースをきっかけに問題意識をもち、YouTuberの「せやろがいおじさん」の番組を通して最初に問題の概要を把握したようだ(※1)

3つ目は、2021年5月の入管法改正案の成立断念だ。難民認定を求める人達が入管の施設で長期収容され、劣悪な処遇のもとにあるという問題は従来から支援者や弁護士、市民らが問題として取り上げてきたが、政府は3回目以降の難民申請では国外退去処分を可能にする形で法改正を行おうとした。これは国際基準に反すると野党は指摘したが、政府はその指摘を聞き入れようとしなかった。

しかし、留学生としてスリランカから来日したのちに入管に収容され、施設内で適切な処置を受けられないまま亡くなったスリランカ人女性・ウィシュマさんの問題が国会で議論となり、法務省がウィシュマさんのビデオの開示を頑なに拒み続けたこと、さらにウィシュマさんの妹さん2人が来日してビデオの開示を求めたことなどが毎日新聞の和田浩明記者らによって詳しく継続的に報じられ、入管行政への批判が高まった。国会前での反対行動も続き、同年5月18日に政府は法案の通常国会での成立断念に追い込まれた。

これらはいずれも、野党や関係団体などが反対していた問題が、報じられることにより市民の間に広く認知されるようになり、反対の世論が広がって政府が法改正の断念に追い込まれた例だ。野党の国会における質疑は問題点を明らかにするが、それだけでは数の力で押し切られてしまう。そこに幅広い世論がついてくることによって、政府は押し切ることができなくなる。では、その世論はどうやって形成されるか。ツイッターやネットメディアの力もあるが、やはり大手メディアがその問題に注目し、深掘りして、また、繰り返し報じることによって、世論が形成されると言える。

それだけ報道の力は大きいのだ。しかし報道が政府与党の動きを報じているだけであれば、このような世論は形成されない。

求められる論点に即した報道

危うい政治の動きを世論の力で止めるためには、何が問題であるのか、論点をわかりやすく整理した報道があることが重要だ。「これは危険な動きではないか」と市民が察知するきっかけはツイートや短いニュースなどであっても、問題を深く理解する手がかりがなければ反対の動きは広がらない。報道が適切に問題を整理し、有識者へのインタビュー記事なども含めて論点をわかりやすく提示していくことが、世論の形成には大きな力を果たす。

筆者が『政治と報道』で「野党は反発」「野党の追及は決定打を欠いた」「首相はかわした」など対戦ゲームのように国会が報じられている現状を問題視したのもそのためだ。国会質疑を見れば、野党が政府の対応の問題点や法案の問題点を具体的に指摘していることがわかる。

例えば検察庁法改正案であれば、日本共産党の山添拓・参議院議員が複雑な問題を明晰な論理で整理して指摘しており、政府側がまともに答えないことによって法案の問題性がよりクリアになる展開が見られた。その様子を論点に沿って報じてくれれば、何が問題であるのか、読者にはわかる。しかし「野党は反発」のような報じ方では、なぜ野党が反対しているのか、わからない。まるで野党の国会質疑すべてが政府の失点ねらいの質疑であり、国会は各議員がみずからの存在感をアピールするための場であるかのように見えてしまう。

政局に重点を置いた政治報道と、「野党は反対ばかり」「野党はモリカケばかり」のようなネット上のネガティブな印象操作が呼応して、国会質疑の実情を煙幕のように隠してしまう。そうなると、いま政治の領域で何が行われようとしているのか、そのことの何が問題であるのかという、私たちが知るべきことが伝わってこない。

市民が何をどう考えようとも「世の中は、20人が決めている」のであれば、国会で何が議論されているか、詳しく報じる必要はないだろう。政権交代によりその「20人」が変わる可能性だけを探っていればよいだろう。しかし、そういう世の中にしないためにこそ、国会の役割があり、報道の役割があるのではないか。

立憲民主党の小川淳也議員はネット番組の中で、与野党の役割を野球にたとえてこう語っている(※2)。政権与党の仕事は守備について国民生活を守ることである。他方で野党は、国民生活が被害を受けないように、守備の粗(あら)を見つけて、守備位置を整えさせるプレッシャーをかけるのが仕事である、と。

守備の粗(あら)を見つける。それは法案であれば、その法案を成立させたときに起こりうる問題を指摘することだ。例えば、裁量労働制を拡大すれば残業時間に応じた残業代を払わなくてもよい裁量労働制の適用労働者に過重な負担が負わされ、彼らの心身の健康が損なわれる事態に陥る危険性が高い。国会でのそういう野党の指摘が適切に報道されていれば、「働き方改革」という、あたかも労働者のための改革であるかのように装われた法案の中に、経営者のための法改正が隠し込まれていることに多くの人が気づき、警戒心を持つことができただろう。実際には安倍首相の答弁撤回という「政局」があってはじめて多くの報道が裁量労働制の適用拡大という論点に目を向けたわけだが。

他方で同じ働き方改革関連法案に含まれていながら、「政局」にはならなかった高度プロフェッショナル制度の創設については、裁量労働制と同様の問題があり野党は法案の「粗」を指摘し続けたにもかかわらず報道の扱いは小さく、幅広い人々の関心をひかないまま創設に至ってしまった。本当は「労働時間の規制をはずす」とはどういうことかという丁寧な解説記事があれば、何が行われようとしているかに気づいた人が増えたはずなのだが、そうはならなかった。NHKは「時間ではなく成果で評価するとして労働時間の規制をはずす高度プロフェッショナル制度」という政府の言葉をそのまま繰り返した。まるで労働者のための改革であるかのような表現を使い続け、土壇場になるまでまともに注意喚起をしなかった。

記者会見を通じた日々の権力監視の重要性

野党が国会で政府与党の行う政治の「粗」を指摘し、その粗を正そうとするのと同様に、記者は記者会見で問題を指摘し、説明を求めることによって、政府にいいかげんなごかましを許さず、適切な対応を迫ることができる。国会における野党質疑のように厳しい口調で追及する必要はない。しかし、「受けとめを」のように相手が自由に語るままにさせて何らかの情報を得ればそれでよしとするのではなく、聞かれたことにはきちんと答えるように毅然と求めるべきだ。

権力監視はジャーナリズムの大事な役割だろう。その権力監視とは、スクープによって巨悪を暴くことだけではない。日々、日常的に権力の監視をおこなっていただきたい。記者会見やぶらさがり取材はそのための重要な場であるはずだ。

『政治と報道』では、東京新聞政治部の村上一樹記者の質疑に注目した。加藤勝信官房長官の記者会見で、論理だった質問を繰り返している記者だ。

例えば2020年10月7日午後の記者会見では、日本学術会議の任命拒否問題について、政府が過去の国会答弁と考え方を変えたのではないと答弁しつづけていることについて、1983年の国会答弁と2018年の文書の内容に言及した上で、「考え方を変えていないのであるならば、今も推薦者は拒否をしないということになりますが、どうしてそうなっていないんでしょうか」と問うた。加藤官房長官が問題はないかのように答弁したのちにもさらに、「1983年の国会での答弁も現憲法下でなされているということになりますと、83年の段階で『推薦をしていただいた者は拒否はしない。形だけの任命をしていく』、この答弁というのはそもそも妥当だったんでしょうか」と問い直している。これについても加藤官房長官はまともに答えていないが、政府の説明が整合性を欠いていることを浮き彫りにした質問だった。

こういう質問を他の記者はどう見ているだろう。「どう聞こうともはぐらかされるなら、結局報じるに値する情報は得られないし意味はない」と考えているだろうか。しかし、例えばオリンピックをめぐる海外メディアの報じ方を見てほしい。2021年7月21日のCNNはこう報じた。「Tokyo 2020 boss not ruling out last minute cancellation of Olympic Games」「東京五輪、組織委事務総長は土壇場の中止の可能性を否定せず」。同様の報道が海外メディアで相次ぎ、日本では報じられない事態を海外メディアはつかんでいるのかとツイッター上では話題になった。

だがこれは海外メディアが独自につかんだ情報ではない。大会組織委員会の武藤敏郎事務総長が7月20日のIOCの総会後の記者会見で語った内容を記事にしたものだ。日刊スポーツは同じ記者会見を7月20日にこういう見出しで報じた。「五輪開催中の中止や延期『そういう状況が出てきた時に考える』武藤事務総長」。この記事には次のように記されている。

 

海外メディアから今後、新型コロナウイルス感染拡大で、開催中での中止や延期の可能性について質問があった。武藤氏は「今の段階では感染拡大するかもしれないし、収まるかもしれない。具体的には、そういう状況が出てきた時に考える」と話すにとどめ、検討に入る感染者数の目安など具体的な説明はなかった。

 

私たちがこの武藤事務総長の言葉を耳にすれば、何も答えず、言質を取らせずに済ませた、と考えるだろう。朝日新聞や毎日新聞はこの武藤事務総長の言葉を報じていないようだ。報じるに値する情報が含まれていないと判断したのだろう。しかしこの発言をCNNなど海外メディアは「中止の可能性を否定せず」と報じたのだ。

「中止の可能性を否定せず」と日本のメディアで大々的に報じられたら、「いや、そんなことは言っていない」と武藤事務総長は慌てただろう。土壇場での中止もありうるという報道が行われたら、「ならば中止を」と世論がわきあがる可能性がある。だから中止の可能性を示唆するような言葉は口にしてはいけないと考えながら慎重に答えたのだろう。しかし、中止の可能性を問われてこのように答えたということは、論理的に考えれば中止の可能性を否定していないということだ。だからこのCNNの報道は、特に踏み込んだ報じ方をしたわけではない。

なのに日本ではこのような報じ方が行われない。はっきりした返答が得られなければ、新たに得られた情報がなく、報道価値がないと判断して報じないままにされてしまう。あるいは上記の日刊スポーツの記事のように、答えた言葉をそのまま紹介するだけになってしまう。何度も尋ねても返答が得られない場合にも、「……と述べるにとどめた」「……と繰り返した」といった報道になりがちだ。

しかし答えるべき大事な問いに答えないということは、それ自体が説明責任を放棄しているという重大な問題であり、報じる価値があるニュースだと考えるべきだ。その点、「中止の可能性を否定せず」というCNNの報じ方は、「何を語らなかったか」に焦点を当てた報じ方だった。その背後には、「責任ある立場の者は、重要な問いにはきちんと答えるべき」という考え方があるのだろう。

なお、紙面ではスぺ―スの制約もありなかなか難しいだろうが、デジタル記事では記者会見のやりとりをそのまま文字に起こして示すこともできる。「赤木ファイル」をめぐって麻生太郎財務大臣が記者会見で質問する記者に対しまともに答えずに嘲笑的・威圧的な言動を繰り返している問題については、東京新聞がその方法で動画も添えて問題を可視化した(※3)

説明責任を果たさせる報道を

政治家が質問にまともに答えないなら答えないことそのものを記事にする。そのことを通して、記者の質問に誠実に答えない姿勢そのものが問題であることを可視化し、その認識を読者と共有していく。そういう報道姿勢を筆者は政治報道に望みたい。どうせ記者会見ではまともに答えないだろうとか、どうせ国会でははぐらかすだろう、とみなしてその状況を見過ごすべきではない。

オモテの場ではどうせ答えないからオフレコの場で、と考えてオモテの場を軽視するならば、結局、記者は政治家にうまく取り込まれてしまう危険性が高い。オモテの場で答えることを求め続ける記者がいても、オモテの場を軽視する記者がいれば連帯してまともな説明を求めることもできない。その状況が続けば、まともに説明できない政治家が、それを許されたまま、権力を握ってしまう。官房長官時代に記者の質問にまともに答えなかった菅義偉が首相となったのは、説明しない政治家であることが致命的な問題だとみなされてこなかったからだ。

あまりにもみずからの言葉を持たず、用意された答弁書を一方的に読み上げることを繰り返すばかりで、問題に向き合う姿勢も相手に向き合う姿勢も見せない菅義偉が、このコロナ禍の状況において首相であるという不幸を、私たちは日々、実感させられている。このような状況を私たち自身の手によって変えることができるように、私たち自身が状況を認識し、問題を考える手がかりを政治報道は提供してほしい。また、「20人」が世の中を決める政治を観察し描写するだけにとどまらず、他にも政治を変えるアクターは存在することに注目して報じてほしい(※4)。同時に私たちにも、そのような報道を買い支えて応援していく姿勢が必要だろう。

【脚注】

※1 笛美『ぜんぶ運命だったんかい』亜紀書房、2021年

※2 「今夜は小川淳也がじっくり語ります! これまでの政治、コロナ後の社会」 2020年5月26日

※3 2021年7月7日「『その程度の能力か』『頼りねえ顔』 記者の質問を遮りはぐらかす、麻生氏の不誠実さ<取材ファイル>」/2021年7月7日「【動画】麻生氏 森友改ざん『再調査しない』 本紙記者に『わかってるね?』容姿にまた言及」)

※4 毎日新聞2021年7月4日のデジタル限定有料記事「『私には声がある』 入管法改正に反対した高校生の学び」は、入管法改正案に反対する国会前行動に参加した18歳の宮島ヨハナさんを取り上げ、なぜ彼女がこの問題に声をあげるに至ったかを10分あまりの動画も付けながら丁寧な取材で紹介していた。記者はデジタル報道センターに所属する菅野蘭記者。紙面の制約のないデジタル記事だからこそできた深掘り記事であり、政治を動かすのは「20人」だけではないことを実感させる記事だ。政治部・社会部などの枠を超えた深掘り報道を可能とするデジタル報道センター(旧称:統合デジタル取材センター)の取り組みについては、筆者が2019年7月に齊藤信宏センター長(当時)に取材した内容を『政治と報道』に収録している。本稿の本文では齊藤の見解を批判的な文脈で取り上げているが、デジタル化への新聞の対応という点では、その取材記事で語られた内容も『ジャーナリストの仕事』で語られた内容も非常に興味深い。ぜひご覧いただきたい。

 

 

『政治と報道――政治不信の根源』

・権力者と報道機関の距離感はどうあるべきなのか?

・政府の「お決まり答弁」を生み出す、記者の質問方法の問題点。

・なぜ「桜を見る会」の問題を大手メディア記者は見抜けなかったのか?

・政権与党による「世論誘導」に、知ってかしらずか加担する大手新聞社

・新聞社はどのように変わろうとしているのか?

(扶桑社新書/2021.3/1056円)

うえにし・みつこ

1965年生まれ。法政大学キャリアデザイン学部教授。東京大学大学院経済学研究科第二種博士課程単位取得中退。日本労働研究機構(現在の労働政策研究・研修機構)研究員を経て、2003年法政大学専任講師、13年教授。著書に、『大学生のためのアルバイト・就活トラブルQ&A』(共著、旬報社、2017年)、『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)、『国会をみよう―国会パブリックビューイングの試み』(集英社クリエイティブ、2020年)、『政治と報道―報道不信の根源』(扶桑社新書、2021年)など。

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