特集●混迷する世界への視座

人間を幸福にしない“資本主義”(上)

パラダイム転換を牽引する労働運動を

ものづくり産業労組JAM参与 早川 行雄

[資本主義の黄昏]

はじめに

1.20世紀文明の終焉

2.政治支配に対抗する社会契約の再構築

3.虚妄の金融資本主義

4.不条理な社会をもたらした株式会社

5.「戦後レジームからの脱却」の危うさ 

[格差社会の実相と労働運動の役割](以下次号)

1. 崩壊する中間層

2. 非正規労働者の著増が意味するもの

3. 放置される企業規模間格差

4. 危機に立つ労働運動

[資本主義の黄昏]

はじめに

かつてJ.J.ルソーは、不平等の起源を私的所有権の確立と国家によるその保護に求めた 。これに対しアダム・スミスは、私的所有のそうした影響を認めつつも、所有権の保護が生産活動へのインセンティブを高め、その結果としての経済成長が底辺の人々の生活水準をも向上させることを重視した 。経済が大きく成長する時代にあっては、スミス的な底上げ論にも説得力があり、事実近代社会はそのような経済成長を原動力としつつ発展してきたといってよい。

もとより先駆けて工業化を進めた先進国における成長の陰には、南北問題として顕在化した発展途上国や最貧国の犠牲があった。これら諸国にあってもモノカルチャー経済から輸入代替工業化の過程で国民所得の底上げが生じていたとしても、先進国による経済侵略の結果、伝統的な文化や社会が崩壊する一方で、市場の貨幣価値に換算された名目的所得水準が僅かばかり底上げされたことが、本当の意味で幸福をもたらしたとは考えにくい。資本主義のもとにおける経済成長は、問題を解決するのではなく、危機を先送りする時間稼ぎであったとみるべきなのであろう。

一方で昨今のように、先進国、新興国をはじめとして世界的に実体経済の成長が鈍化し、さらに金利の消滅とともに経済が停滞する時代においては、金融市場の規制緩和を媒介しつつ、株式のような擬制資本さらには想定元本に基づいた金融派生商品のような究極の擬制資本のみが利潤拡大の源泉となってゆく。とはいえ、バーチャルな金融市場が打ち出の小槌のように富を生み出すわけではない。富の真の源泉は実体経済が産出した付加価値以外にないのであって、端的にいえば資本の自己増殖は労働所得の抑制による労働分配率の低下によってのみ可能となるような状況が出現しているのだ。

現在進行中の「働き方改革」にいたるこの間の労働市場の規制緩和こそが、そうした労働から資本への逆再分配を促進する梃子の役割を果たしている。これらが今日の日本経済に及ぼした結果については後段で、「中間層」「非正規雇用」「中小企業」などの切り口から若干のデータとともに紹介することにより、いまや資本主義というシステムによって市場経済を動かすこと自体が格差や貧困の根因となっていることを明らかにする。そこで必要とされるのは、新たな時間稼ぎの方便ではなく、ポスト資本主義に向けたパラダイム転換である。

1.20世紀文明の終焉

ミネルヴァの梟は黄昏に羽ばたく。ヘーゲル『法哲学』序文の一節だが、いかなる叡智といえども、事象の本質を認識し得るのは、その事象が完結して終わる頃合いに至ったときであるとの趣旨だ。マルクスはこれを批判的に継承し『経済学批判』の序言で、変革の時期を、その時代の意識から判断することはできず、現存する対立から説明しなければならないとして、生産力の発展が経済体制の桎梏に転化することを説いた。今日この対立は1%対99%の軋轢として極点に達しているかにもみえる。果たして私たちは、近代の頂点を極めた20世紀文明という事象の本質を、遂に知りうる地平に到達したのだろうか。

近代社会の経済的基盤たる資本主義の起源については諸説あるが、産業革命を端緒とし、スミスの『国富論』をその理念的支柱とするのが順当なところだろう。スミスは市場経済(商業社会)に、絶対主義の頸木から解き放たれた市民的自由の淵源を見出し、それ故に重商主義の排他的特権およびそれと一体をなす株式会社制度を排撃した。しかし資本主義はスミスの楽観的予見どおりには発展せず、『企業の理論』でヴェブレンが明らかにしたように、古典的自由競争時代に物的厚生水準の向上を目指すとされた牧歌的な産業活動観は後景に退き、金銭的利得動機に基づく営利企業の市場支配がそれに取って代わる事態が出来した。これはポランニーが『大転換』において19世紀文明を、社会的生産と分配の秩序が、労働をも擬制商品に変える自己調整的市場という悪魔のひき臼に引き込まれる過程として描いたことと符合する。

20世紀初頭は、自己調整的市場というフィクションが失業と貧困、最終的には大恐慌によって破綻を来たした時代であった。こうした時代状況へのひとつの解答がニュー・ディール政策である。ハーバード大、タフツ大の7人のエコノミストによって『アメリカ民主主義のための経済綱領』が起草され、政府の介入による社会的公正の再構築が図られた。世に言うケインズ革命の一環である。果たして資本主義は生まれ変わったのか。第二次大戦後の不況なき黄金時代にあって、1950年代には都留重人の論稿『資本主義は変わったか』を契機にガルブレイス、スウィージー、ドッブらによる国際論争も展開された。

しかし永遠の繁栄をもたらすかにみえた20世紀福祉国家も、1970年代には国際的格差と貧困の拡大という南北問題や環境破壊などの不都合な現実が覆い難く露呈し、ロビンソンは「経済学第二の危機」として警鐘を鳴らしたが、固定相場制の崩壊と原油価格の高騰を直接の要因としつつ、歴史の後景に退いていった。宇沢弘文は『近代経済学の再検討』において、市民的権利を充足する社会的共通資本の政府規制または公共投資を通じた共通資本の蓄積を、経済学の危機を乗り越える方途として提唱した。

ところが実際に台頭してきたのは、暮らしを豊かにする物的厚生より貨幣換算された企業利益の極大化に狂奔し、『貨幣理論における反革命』を標榜するフリードマンらマネタリストの市場原理主義であった。マネタリストの反革命は、投機的にキャピタルゲインを追い求めるカジノ資本主義に帰着したが、その基礎をなした錬金術的金融工学が、サブプライム危機からリーマン・ショックを惹起して破綻した顛末は周知のとおりである。

水野和夫は近著で資本主義の終焉を語っているが、ポランニーに倣えば、私たちは20世紀文明の終末に立ち会っているのかも知れない。暮れなずむ資本主義の黄昏を目の当たりにしたとき、ミネルヴァの梟は、その本質と現状を正確に認識できなければならない。20世紀文明の再生か超克か、向かうべき方向を明らかにしながら、歴史の転轍機を切り替える、ポスト資本主義へのパラダイムシフトが焦眉の課題となっている。

2.政治支配に対抗する社会契約の再構築

現代は非政治的領域がほぼ消滅したといっても過言でないほど政治の干渉が肥大化した時代である。政治干渉は権力の行使にほかならない。現代における政治権力は、人間の営みとして、諸個人の自由を保障しながら社会の調和を保つという政治本来の姿から大きく逸脱し、人々の生活を包み込む経済の分野に止まらず、科学、芸術、宗教など他の文化的領域をも深く浸食している。それはあたかも人知の及ばぬ不磨の掟のように人間を支配するに至り、資本主義の腐朽化とともに第二次世界大戦後に階級和解として成立した福祉国家の社会契約は反故にされてきた。

一見抗いがたく制御不能にも思える政治化の時代は、一面において各種議会選挙の低投票率に象徴される政治的無関心の拡散する時代でもある。政治的領域が拡大しその影響力が強まるほど無関心が日常化するという奇妙な逆相関はなぜ生じるのであろうか。政治学者の加藤節は蔓延する政治的無関心に五つの要因をあげている。即ち①政治メカニズムの国際的拡大と複雑化②官僚化、非人格化した組織に組み込まれた個人と社会の断絶③利権や党利党略で抗争する政治屋的「おぞましさ」への嫌悪④視聴率や販売部数に拘束されたメディアの影響力拡大⑤現代人の多忙さがそれである。また政治的無関心は洗練された権力行使による政治的干渉の不可視化に由来するものとも考えられる。

これら二つの現代的事象は危機に立つ民主主義の両側面である。ただしここでいう現代の射程は少なくとも19世紀後半まで遡る。爾来、常に民主主義の危機とその克服に向けた格闘が繰り返されてきた。民主主義の歴史すなわち社会の民主化は、決して素朴で単線的な進化を辿ったわけではなく、常に近代と前近代、進歩と反動の相克によって跡づけられてきた。

いまもまた、ある自民党議員は国民に主権などないと公言しているが、これは安倍政権の本音である。彼らの脳裏には、主権者とは非常事態に関して決定を下す者(これは必然的に独裁者である)と定義したシュミットの『政治神学』があるのかも知れない。その彼らが緊急事態条項を改憲の俎上に乗せようとしている。まさに改憲はナチスに学べ、である。民主主義の危機の時代にあっては、しばしば代議制批判などを媒介して国民主権を否定する政治思想がもてはやされてきた。その思想的淵源はおそらく、結果として専制政治の隠れ蓑となったグロチウスらの大陸自然法学派まで行き着くのかも知れない。

皮肉なことに、安倍政権によるあまりに粗暴で強権的な安保法案の国会審議が、むき出しの政治権力を可視化させ、多くの学生や市民が立憲主義の蹂躙に憤って反対闘争に起ち上がった。これまでの経過をみると言葉は悪いが、いまだなお強権政治への条件反射的な範疇に止まっているようにも思われる。この怒りを持続する変革の意志に転化する理論的根拠がいま問われている。詳細をここで論じることはできないが、その要諦は国家権力に対する主権者の優位、より本質的には政治に対する人間の優越性を、起源に囚われない普遍的価値として包含した社会契約に求められる。

安倍政権によって日本社会の軌道は戦争に向けて切り替えられた。あるいは日本の戦後史は徐々に戦争に向かう軌道上にあって安倍政権は単にそれを加速しただけなのかも知れない。いずれにせよ次のポイントでは平和に向けて転轍機を作動させなくてはいけない。もとよりそれで改革が成就するわけではなく、そこは社会変革の起点であり、そこからさらに永続的な民主化の営みが継続されねばならない。戦争という倫理規範からの究極的逸脱に抗して、平和のために、民主主義の道義的優位性を堅持した政治哲学を復権すること。それをもって、もっぱら主権者に依存した政治体制を構築し、精神的文化的豊かさをあまねく行き渡らすことができる市民社会を形成することこそ、現代政治におけるパラダイムシフトを牽引しようとする運動に課された至上のミッションなのである。

3.虚妄の金融資本主義

新自由主義政策の規制緩和は、労働市場と金融市場で集中的に進められた。なぜ金融市場なのか。預貸業務による金融仲介という本業を除けば、実物経済において財やサービスの生産を行わない金融機関の機能とは、長期停滞下において労働から資本へと所得を移転させることに、あたかも経済的合理性があるかのように見せかける壮大なフィクションにほかならない。資本主義の金融化を具体的な数字でみると、世界全体での金融資産総額(有価証券+預金)は2010年末には212兆ドルに達し、リーマン・ショック前の水準を超えてしまった。これは当時の世界GDP合計約64兆ドルの3.3倍に上る額である。

現在では世界の株価時価総額だけで世界GDP(約70兆ドル)に匹敵する規模ともいわれる。極めつけがCDSなどの金融派生商品(デリバティブ)の隆盛だ。デリバティブとは本来リスクヘッジの保険商品だが、実体経済に根拠を持たない想定元本に対するデリバティブが投機の対象となり、想定元本の累計残高はBIS(国際決済銀行)によれば2013年末で700兆ドル(7京円!)にも達する。まさに金融市場が実体経済を凌駕する事態となっている。

この金融デリバティブの“想定元本”という表現は、現代金融市場の虚構性を示唆して象徴的である。これは利潤のレント(rent)化にほかならない。レントは元来地主の不労所得である地代の意味だが、一般に利子、配当などの不労所得生活者をレンティア(rentier)と呼ぶ。ケインズの予測に反し、金利生活者(rentier)は安楽死するどころか、あべこべに利潤のレント化を通して、「実業家」が不労所得に依存するレンティア化するという逆転現象が生じている。具体的には、企業部門や金融機関において生産的な投資に向かわない膨大な余剰資金は、過剰流動性として、金融市場においてキャピタルゲイン狙いで投機的に運用されることとなる。

これこそ、金融資本主義(いわゆるカジノ資本主義)が世界経済を席捲してきた背景である。これら余剰資金は税収として政府部門に移転するか、給与所得等として家計部門に移転することにより総需要を拡大できる。最も望ましいのは企業自身が有効で生産的な投資を拡大することであり、この観点から同じ企業部門内でも、下請け単価の適正化などを通して、常に償却不足傾向にある中小企業に余剰資金を移転することが有効であろう。だが、金融資本主義の隆盛は、実のところ民間企業を主体とした実物経済の衰退と表裏をなしている。金融機関は本業に軸足を戻して、成熟社会における社会的共通資本の諸事業に資金を供給することに専念すべきなのである。

4.不条理な社会をもたらした株式会社

①近代株式会社の発達史

資本主義成立の起点を何に求め、どの時代と定めるかにかかわらず、資本主義の初期から今日的な株式会社が存在した分けではないことは明らかである。株式会社が成立する以前の資本主義における企業の原初的形態は出資者が一私人の個人企業である。相対的に規模の大きな事業を行う場合には複数の出資者が資金を出し合う、今日でいう合資会社などのような持ち分会社が設立された。これらの企業形態は現在でも多く存在するが、当初は個別の事業が完了する毎に利益(または損失)を配分清算していた。

貨幣資本のさらなる集中と事業や企業組織の継続性を特徴とする株式会社の始まりは、17世紀初頭頃に設立されたイギリスやオランダの東インド会社(英1600年、蘭1602年設立)である。しかしこれらは重商主義政策の下で国王から交易の独占権を与えられた勅許会社であった。18世紀の経済学者アダム・スミスは『国富論』において、交易を独占する株式会社を、国民経済や世界貿易の発展にとっての障害であると厳しく批判した。

市民革命を経た19世紀に入ると、近代的な所有権にかかわる法の整備が進み、ほぼ現在と同様な株式会社が誕生してくる。マルクスが『資本論』において、株式会社は山師と予言者の二つの顔を持つと論じたように、一方では少数の大資本による多数の零細資本の淘汰・収奪を促進して市場の独占化が進み、擬制資本(有価証券など)の破綻による信用恐慌(バブル崩壊)を惹起するなど、かつての勅許会社以上に社会進歩の阻害要因ともなるが、他面では信用制度を前提とした資本蓄積の最高形態であり、多数の出資者(株主)を利子生活者に転化することで、資本主義的枠組みの範囲内で私的所有を制限し、将来の社会的所有への通過点ともみなされたのであった。

因みにいえば大塚久雄も、ヒルファーディングの『金融資本論』に触発されつつ、経済学研究の端緒において、資本主義市場経済の発展段階を特徴付ける研究対象であると同時に、私的な性格を止揚しながらパラダイム転換の物質的基礎を準備してきたものとして、株式会社の発生史に着目したところである。

20世紀に入ると資本蓄積の最高形態である株式会社は、金融資本の拡大強化によって一層洗練された。株主層の拡大=大衆化という株式市場「民主化」の逆説として、持ち株会社を中核にますます少数の株式保有で企業を支配するようになったコンツェルンが発達し、金融資本による不在地主のような寄生的支配が強まり、独占が経済民主主義を押し切る形で資本主義の最高段階への到達と腐朽化が進行した。

②洗練された封建制という不条理

安倍政権の安全保障関連法制にかかわる国会審議の有様をみると、議会制民主主義が予定する適正手続きにあまねく違反し、憲法が為政者の権力行使を規定するルールにことごとく背いた反動の極みであり、立憲君主制以前の前近代への逆行として、社会の再封建化をみる思いである。しかし安倍政権は近代社会の鬼っ子として突然変異のように登場したわけではないし、たまたま希代の悪党が政権を握ってしまったわけでもない。

市場経済は資本主義システムの下で定常状態に逢着したが、そこにいたる過程で社会の前近代への遡行が着実に進行してきた。経済的な支配権を握る特権階層が、そのことを通して政治権力をも掌握して人民を支配するのが封建制度。農業主体の中世・近世にあっては封建領主の土地所有が経済的支配権と政治権力の基盤であった。現代の再封建化現象は、市場における自由競争と政治的民主主義というフィクション(擬制)が、大企業への経済力集中と資本による政治支配が確立する過程で崩壊した結果としてたち現れたものと考えられる。

少なくとも政治的民主主義はGDPの単純な関数ではなく、あえて比喩的にいえば資本主義の発展過程のある段階で、両者を結ぶパラメータの符号が逆転するように思われる。そしてこの逆転を導いた主役として、株式会社の成立と発展が大きな役割を演じてきたのである。今日の経済の中軸をなす株式会社形式の巨大営利企業は、経済力の集中と合わせて政治権力の中枢をも掌握することで、法人税の軽減や各種の法人優遇税制、さらには輸出補助金的性格を有する消費税還付など税制上の特権を獲得している。

また営利本位の企業から国民生活を守る諸規制も構造改革などと称して緩和が進み、今日的にはTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)など多国間投資協定にかこつけながら企業の利益機会拡大がはかられている。ここでは政治主体としての国家が経済主体としての企業の行動をコントロールする力を失い、かえってその利益に奉仕する組織に転化してしまっているのである。

国家のこの変容は、現代的に洗練された封建制とでもいうほかない。民主主義の深化を歴史的前進の尺度とすれば、歴史の進歩に対する反動を最も端的に示しているのは、新自由主義政策に基づく、公益産業から医療、教育にいたるまでの民営化である。民営化とは、ヴェブレン=宇沢における社会的共通資本の最適な形態での建設とは完全に逆行して、社会的共通資本を国家の庇護を受けた(国家権力を私物化したというべきか)私的営利企業の領域に流し込むものである。

5.「戦後レジームからの脱却」の危うさ 

資本主義の経済的な機能不全が顕在化する社会にあっては、明確な対抗軸を持った政治潮流や労働運動の台頭がない限り、必ず似非民主主義的大衆翼賛政治が跋扈するようになる。日本における安倍政権の登場もそのひとつの典型ととらえてよいであろう。安倍政権の一枚看板的経済政策であるアベノミクスも相当のアナクロだが、時代錯誤という意味においては「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍首相の政治姿勢こそ、その最たるものといえよう。安倍首相は1年で政権投げ出しに至った第一次内閣においては、「美しい国(逆から読めば、憎いし苦痛)づくり内閣」を標榜し、当初から国家主義的タカ派色も鮮明に、教育基本法改正、防衛庁の省昇格、憲法改正に向けた国民投票法制定などを強行したが、メディアから「お友達内閣」と揶揄された閣僚の失言、不祥事、自殺などが相次ぎ、内閣支持率も急速に低下。発足一年後に病気を口実として辞任に追い込まれた。

第二次安倍内閣では、前回の蹉跌を教訓化したのか、国家主義的心情を隠蔽しつつ、景気対策や成長戦略といった経済政策と、その見かけ上の成果でメディアや有権者の歓心を買うことに腐心してきた。しかし、やがて内閣支持率も安定してきたとみるや、安倍首相は本性を露呈しはじめた。ひとつの転機は2013年4月28日に挙行された政府主催の「主権回復の日」式典であろう。沖縄では式典に強く抗議する「4・28『屈辱の日』沖縄大会」が開催されたが、政府式典には天皇・皇后を政治利用して臨席させ、その退出際には天皇陛下万歳を三唱してみせるという右翼モード全開の進行であった。いろいろと問題含みの式典であったが、メディアや有権者からの批判は、沖縄を除けば大きくないと見定め、安倍首相は国家主義路線の推進に自信を深めたものと思われる。

安倍首相は歴史修正主義の観点から、従軍慰安婦への日本軍の関与を認めた河野談話や侵略と植民地主義について謝罪した村山談話への嫌悪感を露わにしている。また2013年末には特定秘密保護法を成立させ、同時に設置した国家安全保障会議(日本版NSC)を両輪として、NHK役員人事への介入などと併せて言論・思想の国家統制に強い意欲を見せている。さらに同年12月26日には念願の靖国神社参拝を敢行して中国・韓国を激怒させ、アメリカは「失望」を表明した。これらの挑発的言動により中韓両国との尖閣、竹島を巡る領有権争いは緊張の度を高め、排外主義の世論を煽りながら、内閣法制局長官の首をすげ替えてまで集団的自衛権に関する憲法判断の変更(解釈改憲)にも手を染めた。

今年(2017年)の通常国会にはテロ対策を口実にした共謀罪の提出が画策されている。最終的には憲法9条を改正して戦争ができる国への再軍備路線(積極的平和主義?)に邁進しようとしている。

これらはいずれも安倍首相が目指す「戦後レジームからの脱却」路線上にあるものだが、大きな内部矛盾も含んでいる。すなわち一方で、「大東亜戦争」の侵略性はおろか無条件降伏敗戦の実態をも否定し、平和憲法下で築かれレジームを破壊することは、ポツダム宣言を反故にし、ヤルタ体制後の世界秩序を覆すこととなり、世界のどの国からも容認されない。しかし同時に、異端の安倍首相といえども対米従属を本旨とする戦後保守政治の外交路線から逸脱することはできないし、日中関係においても政経分離を基調とした「裏安保」と称される共存体制を崩すこともできない。今日企図されているのは、近隣諸国の軍事的脅威を煽り立てて軍備を拡張せんとする「軍事ケインズ主義」とでもいうべき政策である。

戦後日本の政治体制において、こうした矛盾が爆発せずに温存されてきたのは、経済的な社会基盤の安定と、その上に立った民主主義バネがそれなりに作用していたからであろう。いま、そのいずれもが機能不全に陥り、矛盾を意に介さない反知性主義的デマゴーグを台頭させる政治モードが拡散しつつある。ここで必要なことは、あえていえば、民主党政権末期に野田首相も提唱していた分厚い中間層の再構築ではなかろうか。大企業本位の成長戦略よりも、所得の公正な分配で民主主義の基盤となる経済的に均質な社会を再生し、ファシズムの温床を駆逐してゆくことが喫緊の課題である。


次号では、資本の自己増殖の基盤であった経済成長が止まり、もっぱら労働から資本への逆再分配が利潤の源泉となった今日の日本経済の実態を「中間層」「非正規雇用」「中小企業」などの切り口から若干のデータによって紹介する。同時に、これに対処すべき歴史的役割を果たしえていない労働運動への(自己)批判と課題を提起する。(文中敬称略)

【参照論文・小論一覧】

「自民党安倍政権における経済政策(アベノミクス)の実像」労働法律旬報 2013年9月下旬

「雇用と暮らしを脅かすアベノミクス」自治研究 2014年6月

「文明の黄昏」連合総研DIO 2014年6月

「ポスト格差社会に向けて/持続可能な市場経済への挑戦」月刊JAM 2014年12月

「定常状態経済と社会の再封建化」労働法律旬報 2015年11月下旬

「社会契約説再考」連合総研DIO 2016年2月

はやかわ・ゆきお

1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員などを経て現在労働経済アナリスト・JAM参与。最近の主な論説として「TPP協定交渉参加国労働組合の見解 その背景にある思想ととりまく情勢」(『農業と経済』2012.5昭和堂)、「自民党安倍政権における経済政策(アベノミクス)の実像」(『労働法律旬報』2013.9.下旬 旬報社)、「あるべき賃金をめぐる論点について」(『Business Labor Trend』2015.3 JILPT)、「定常状態経済と社会の再封建化」(『労働法律旬報 』2015.11.下旬 旬報社)など。

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