この一冊

『戦後入門』(加藤典洋著 ちくま新書 2015年)

終わらせる「戦後」と継承すべき「戦後」

筑波大学非常勤講師 今井 勇

◆終わらせるべき「戦後」=対米従属

「戦争に敗れてから七〇年もたって、なお戦後七〇年ということが問題になるのは、その『戦後』が終わっていないからです。」(「はじめに」より)

本書は、『アメリカの影』(1985)、『敗戦後論』(1997)と一貫して「戦後」を問い続けた著者の集大成ともいえる一冊である。戦後70年を迎えた自分の住む国が今とんでもない状態になっているという強い危機感から、その源流を日本がいまだに終わらせることのできない「戦後」に辿り、「戦後」を終わらせることによる現状の打開を提言する。終わらせるべき「戦後」とは何なのか。

その終わらせるべき「戦後」の核心こそ、米国との従属的な関係であり、その象徴たる在日米軍基地の存在である。しかし、対米従属からの自立は決して容易なものではない。それは吉田茂首相によって設計された戦後日本の「顕教」・「密教」システム(近代天皇制を「顕教」・「密教」という概念で分析した久野収にならった概念)こそが、対米従属という現実から国民の目を逸らせ、戦後日本の安定を支え続けてきたためである。ここでいう「顕教」とは日本は憲法九条に基づく平和主義の独立国家であるという認識であり、「密教」とは対米従属のもと軍事的負担を最小限度にとどめ(自衛隊の存在)経済大国化をめざすという現実である。

その「顕教」・「密教」システムが限界に達しようとする中で、本来影に潜むべき「密教」の論理で「顕教」を征伐しつつあるのが安倍政権による暴走の真の姿であると著者はいう。そのため、従来どおりの政権批判によって再び「密教」を「顕教」の論理で押さえつけたとしても、対米従属の現実は何ら揺らぐことはないのである。問われるべきは対米従属の現実そのものであり、そのためには対米従属の現実という「密教」を覆い隠し続けてきた「顕教」の論理もまた同罪といえる。 そこに、終わらせるべき対米従属ではなく、終わらせるべき「戦後」として提起される理由を読みとることは可能であるが、それは同時に、真に終わらせるべきは「戦後」そのものではなく、対米従属の現実を糊塗し補完し続けた諸要素であることを示しているともいえるのではないだろうか。

◆「左折の改憲」による対米従属の克服

そして、終わらせるべき対米従属からの脱却の道筋として著者が示すのが、憲法九条の国連中心主義に基づく改正構想である。その憲法九条の改正にあわせて米軍基地撤去を進めることによって、国際社会における孤立を回避した対米独立の実現が可能となる。その道筋が単なる空論ではないことを1987年のフィリピンにおける憲法改正、米軍基地返還の実例を示しながら、著者は「左折の改憲」による対米従属からの脱却を強く訴えかけるのである。

それでは、なぜ護憲ではなく改憲でなければならないのか。それは、先にみた戦後日本の「顕教」・「密教」システムにおいて「顕教」の論理を支える最大の根拠が憲法九条であることから、現行の憲法九条の放置=護憲こそが「顕教」・「密教」システムの延命を許し、結果的に対米従属の継続につながると考えるのである。内田樹の議論を引きながら自衛隊は憲法九条と相補的であるばかりでなく、「憲法九条が米軍基地の永続化を補完してしまう」との主張は衝撃的ではあるが、決して無視すべきでない主張といえよう。

そして、一見唐突にさえ思える憲法改正の方向性としての国連中心主義については、第一次世界大戦以降の世界史的な「国際秩序と国際理念」の変遷を丁寧にひも解き、憲法九条の戦争放棄の規定が本来の国連の理念と適合的であることを示すことで、単なる反米ナショナリズムに拠らない対米自立の可能性を示した論理は説得的である。

◆継承すべき「戦後」とは何か

結局、自衛隊が国連軍の一翼を担うということは国軍化を前提とし、国連軍への参加は集団的自衛権の容認以上に際限のない戦争への道を歩ませるのではないか。そのような論点は尽きないものの、現安倍政権による「右折の改憲」に敢然と対峙し、安倍路線の内包する自己矛盾と限界を明らかにしながら、従来の護憲の主張を乗り越え、さらに平和主義を徹底させるための具体案として「左折の改憲」を提起した著者の主張は一読に値する大作といえる。

ただ、それにしても終わらせるべきは「戦後」総体でなければならないのであろうか。著者自身も認めるように、著者の提案は「急に天からふってきた突飛なもの」なのではなく、日本の戦後史において「その時々に声を上げてきた平和理念に立つ主張の、現在の姿にほかならない」とするならば、やはり終わらせるべき「戦後」と継承すべき「戦後」の存在を明らかにし、耳障りのよい「戦後を終わらせる」という言葉に集約すべきではないのではなかろうか。

そして、継承すべき「戦後」の存在は本書の至るところで散見でき、なかでも政治的(合論理的)リアリズムと理想主義の対立・分離に反対し、結論ともいうべき「在日米軍基地撤廃による国連中心主義」が内包する「論理的な不整合の共存」を容認する理由について述べた以下の言葉は、継承すべき「戦後」の存在を示して余りあろう。

この論理的不整合の貫徹に意味があると感じさせているものこそ、私にいわせるなら、現在もなお、体験としては枯渇しかかっていても思想としてはなお私たちのうちに残る戦争体験・戦後体験からの影響なのです。(「おわりに」より)

最後に、蛇足ではあるが、その善意に基づく無心・無策ぶりは言及されながらも、米軍普天間基地の国外移転を要求し、既成従米勢力と米国の一部日本対応者によって叩き潰された民主党鳩山政権について、「国際的な基準に照らして正当な要求」であったとする主張は、沖縄の現状とも決して無関係ではないことは確認される必要がある。

いまい・たけし

1976年、香川県生まれ。専門は、日本近・現代史。主要論文に、砂川基地闘争における反原水爆の意味」(『歴史評論』778、2015.2)、「三好十郎 弱き大衆が獲得した強き確信」(『三好十郎研究』6、2013.12)など。

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