コラム/歴史断章

47年ぶりに再会した脱走兵キャル

ベトナム反戦運動の一断面

ジャーナリスト 小山 帥人

人生70年を過ぎると、人生で心残りのことを整理しておきたいという気持ちにかられるものだ。  

ベトナム戦争当時、ぼくは知り合いに頼まれてアメリカ人脱走兵を京都の実家にかくまったことがあった。たった3日間だったが、お芝居のまねごとをしたり、酒を飲んでふざけたり、戦争について討論したり、繁華街のスナックに遊びに行ったりした。1968年3月のことだ。キャルという名の彼は19歳、ぼくは25歳だった。

その後、キャルは根室から漁船に乗って日本を脱出し、ソ連経由で中立国スエーデンのストックホルムへ逃れたと聞き、「やった!脱出成功だ」と心から喜んだ。

ところが翌年、キャルのことが新聞に出た。関西で医師、大学教授、カメラマンの家にかくまわれたという記事を読んでぼくは驚いた。「あいつ、みんなしゃべっちゃったんだ」

その後、彼の行方は知れなかったが、キャルのことはずっと気にかかっていた。そして2015年の夏、ぼくはキャルに会うためにアメリカに向かった。

ベトナム戦争と反戦運動

ベトナム戦争が終わって40年。ジャングルの戦闘も、焼かれる農民の家の映像も遠くなった。当時、「泥と炎のインドシナ」(毎日新聞)、「戦場と民衆」(朝日新聞)などを読んで、人びとはベトナム戦争の実情を知った。日本テレビのノンフィクション劇場「南ベトナム海兵大隊戦記」の放送中止事件のように、権力からの介入を受けながらも、ベトナムの血なまぐさい映像や記事はジャーナリストの活動によって人びとに届けられていた。

我が家でネコと遊ぶ脱走兵キャル(1968年3月撮影)

日本政府はアメリカに全面的に協力し、自衛隊こそ派遣しなかったものの(集団的自衛権が認められない時代だった)、基地使用、物資、薬品など、便宜供与を行ない、日本経済はベトナム特需で潤う。日本がベトナム戦争に加担していることへの批判が高まり、反戦運動が広がっていった。65年には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が生まれ、脱走兵を国外に脱出させるための「ジャテック」(アメリカ人脱走兵援助技術委員会)もできた。67年10月に空母イントレピッドから脱出した4人の水兵が大きく報道されたあと、ベ平連への脱走米兵からの連絡が多くなった。

キャルもそのひとりだ。68年2月に横須賀の基地から脱走したあと、2ヵ月余り、関西で過ごした。ぼくの実家に泊ったのは3月2日から3日間だった。

脱走兵の生活を撮影

キャルが実家にいた間、ぼくはキャルの日常、キャルとの討論などを16ミリ撮影機で記録し、録音もした。実はメモをとらないよう指示されていたのだが、いずれ役に立つという気がして、動画で撮影することにしたのだ。ぼくはフィルムを安全な場所に隠し、長く封印してきたのだが、15年1月、京都・伏見で古い映像を上映している「町家シネマ」の学生たちに頼まれてそのフィルムを上映することにした。47年後の初めての上映だった。

ベトナム戦争を知らない学生たちには、脱走兵は、ホームステイする外国人のように見えたようだ。女子大生からは「イケメンだから、わたしも預かろうかな」という声さえあった。脱走兵を預かったおそらく千人を超える市民たちは誰ひとり密告せず、その後も沈黙しているその連帯のあり方について、ぼくは若者たちに話した。

キャルからの手紙

アメリカ上院に提出された米軍の資料によると、キャルは68年、脱走した年の8月にスエーデンからアメリカに帰り、日本での逃亡ルートを供述している。横須賀の基地から脱走し、2ヵ月余り、関西地方で10数カ所、泊ったところを詳しく明かしている。

軍への供述のせいか、キャルは他の脱走兵とも疎遠になり、その行方はわからなかったが、ドキュメンタリーを作りたいという毎日放送の協力も得て、15年4月、やっと住んでいるところがわかった。ぼくは手紙を書き、キャルの記憶を喚び起こすべく、昔の想い出を詳しく書いて送った。手紙を出して1ヵ月後の5月、キャルから返事が届いた。便せん4枚にぎっしり書き込まれていた。

「親愛なる友よ、ずっと昔の、ずっと遠くの友よ! ずっと前の、ぼくたちが一緒にいたときのことを思い起こすのは難しい。君から手紙をもらうなんて、なんという驚きだろう、そしてまた大きな喜びだ」

「もっと手紙がほしい」と書く一方で「不幸な人生を送った」という記述もあり、気にかかった。

なんどか手紙を交換したあと、ぼくはテレビクルーとともに、キャルが住むカリフォルニア州のサンタクルーズに向かった。

脱走兵の厳しい環境

サンタクルーズはカモメが舞う温暖な港町だった。久し振りに会ったキャルの頭は白く、背中が曲がっていたが、青い眼は昔の面影を残していた。彼は自分の家を持たず、老人の看護をしながら暮らす生活だった。67歳になっていた。

カルフォルニアのキャル(2015年6月撮影)

キャルの話によると、彼はスエーデンに渡った直後、2歳下の女性と仲良くなったが、父親に命令されて帰国し、アメリカで軍の刑務所に入った。しかしそのスエーデン女性の奔走で、刑務所を出てスエーデンで結婚することになった。翌69年には娘も生まれた。

ところが、キャルは軍隊で覚えた麻薬から逃れられず、スエーデンで犯罪を犯し、刑務所生活を送る。1歳の娘を抱いたキャルの写真を見ると、その眼は虚ろだ。キャルは離婚して、またアメリカに戻り、バーテンや道路工夫など不安定な仕事を繰り返し、再婚と離婚、ホームレスも経験した。

アメリカには良心的兵役拒否の制度があるが、脱走兵に対する視線は厳しい。「臆病もの」「裏切り者」「反米主義者」扱いする人たちは多く、就職も難しい。

「あの頃のぼくは自分を見失っていた。肉体的にも精神的にも病んでいた」とキャルは語った。

彼もベトナムで深く傷ついたひとりだった。

父親を誇りに思う娘

ワシントンのベトナム戦争の記念公園に行った。そこには5万8千人の戦死者の名前を刻む巨大な石碑がある。キャルも、脱走せずに戦場に留まっていたら、この石碑に名前が刻まれることになったかもしれない。

今、キャルには3人の娘と、9人の孫がいる。脱走兵にとって、アメリカ社会がどんなに住みにくいところであっても、キャルは生きていてよかった。

スエーデンにいる娘、エレーヌ(46歳)と電話で話すことができた。エレーヌの母は、キャルと別れたあと、学びながらひとり娘を育て、精神医になったが、数年前、病気で亡くなったという。エレーヌにキャルの脱走のことをどう思うかと尋ねた。

「いいことをしたと思います。父のことを誇りに思っています。戦争は恐ろしいものです。父は平和を求めたのだと思います」

父親を誇りに思うというエレーヌの言葉を聞いてほっとした。戦争、脱走、それらのすべてを、後の世代が知り、受け継いで欲しいと思う。                    

(昔の映像とキャルとの再会を描いた毎日放送の『映像15・わが家にやってきた脱走兵〜ベトナム反戦運動・47年目の真実』は15年度文化庁芸術祭でテレビドキュメンタリー部門の優秀賞を受賞した)。なお同番組は、2月7日の深夜12時45分から毎日放送の「映像’16」で再放送される。

こやま・おさひと

映像ジャーナリスト。自由ジャーナリストクラブ代表理事。著書に「市民がメディアになるとき」(書肆クラルテ)、共編書に「非営利放送とは何か」(ミネルヴァ書房)。

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