この一冊

『渡来の民と日本文化』(沖浦和光・川上隆志著 現代書館、2008)

古代、東アジアはボーダレスだった

継承したい沖浦和光さんの仮説提起力

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

わたしが、また、わたしたちが沖浦和光さんを敬愛するのは、沖浦さんが政治的にラディカルであったことにあわせて、大胆な仮説を提起し、新しいものの見方や構想を示してくれた先輩だからである。たとえば、「福沢諭吉が使った『脱亜』という単語に『入欧』を加えて、『脱亜入欧』という4文字熟語を使い始めたのは俺だ」と語ってくれたことがある。そのとき、一座のものは信じられないという顔をしたが、わたしが「活字にしてもいいですか」と尋ねると、「いいよ」という御返事だった。そういえば丸山真男も、「脱亜入欧」ということばが、福沢諭吉の思想として喧伝され始めたのはたかだか1950年代からであると書いている。そしてなによりも、現在の『季刊・現代の理論』(第3次)があるのも、沖浦さんが「お前たち全共闘世代が人生の最後にできることは、『現代の理論』の復刊だ」とおっしゃってくれたからである。

沖浦さんの日本文化論は、社会主義思想史、「賤民」文化論、原始・古代東アジア文化論に加えて、インドネシアとの関係論に広がる。

その沖浦さんが最後に残してくれた本が、沖浦塾のメンバーで、岩波書店の編集部員として沖浦さんを担当されていた川上隆志さん(現専修大学教授)との共著である『渡来の民と日本文化』(現代書館、2008)である。

日本文化における渡来人の役割

沖浦さんの「古代日本の『国家』と渡来人」の第1章「東アジア文化圏と日本」、川上さんの「いくつもの播磨へ」の第3章「日本文化史における秦氏」は、いずれも季刊『現代の理論』(vol.72006春)に執筆していただいた論稿であり、また書き下ろしも含まれている。

お二人の問題意識は、東アジアが一体化していく現代において、日本列島の文化を、固有のものとするのではなく、東アジアの交流のなかで存在する、各地から影響を受けた多様な要素を持ったもの、川上さんによれば「いくつもの日本」という発想である。注目するのは古代日本の政治をふくめた文化について、渡来人が果たした役割が大きかったことである。 

まず、渡来人とは何か。常識的には大和朝廷が成立してから、朝鮮・中国などから日本列島に渡ってきた人びとということだろう。しかし沖浦さんは、まず弥生時代人を「①在来系の縄文人の形質をそのまま保持している先住民のグループ、②縄文人と大陸からの渡来人とが混血したグループ、③縄文人にはなかった弥生系の形質をストレートにもっているグループ」とし、渡来人も「北方騎馬民族系、長江から北に住んでいた漢人系、南方系の倭人と三つに大別される」とする。一般的に「倭人」というと「日本人」がイメージされるのであろうが、学術的には日本列島西部から南中国にかけて分布していた人びとを指し、中世の後期倭寇の9割は南部中国人だったとされている。

「弥生時代」というと、学校教科書ではいまだに紀元前3世紀から紀元3世紀までとされているが、国立歴史民俗学博物館グル―プの同位元素を用いた研究によれば、弥生式土器の古いものは紀元前10世紀にさかのぼるということである。

書評の議論からははずれるが、土を焼いて器を作るという営みを地球で最初に始めたのは極東シベリアから日本列島にかけて住んでいた東北アジア人であった。日本ではそれを縄文土器と呼んでいる。それまで人間は、食物を生で食べるか、焼いて食べるかしかなかったのだが、土器を用いて煮て食べるということを最初に始めたのが東北アジア人、縄文人なのである。縄文人がクッキーにして食べていたどんぐりは生では渋く、米は生で食べると腹を下す。土器の発明は人類史における最大級の革命であった。右翼の人びとはこのことを自慢にしてよいと思うのだが、残念ながら、縄文人は天皇の祖先ではなかった。

沖浦さんは古代日本の国家形成に渡来人が重要な役割を果たしたと述べる。紀元前10世紀から、中国大陸と朝鮮半島から多くの人びとが陸続と日本列島に渡ってきていたのだが、その最大の波は7世紀であった。新羅と唐の攻撃によって百済が滅亡し、その官人をはじめとして多数の百済人が日本列島に逃れてくる。百済を軍事的に支援した大和朝廷、天智天皇は、報復を恐れて都を大和から近江に移す。政治と社会的諸技術に先進的な能力を持っていた百済人は、近江朝廷の運営に重要な役割を果たした。

天智朝は大海人皇子、すなわち弟の天武天皇によって滅ぼされたが、朝鮮半島からの「難民」の大量流入は続いた。もともと朝鮮半島でも、沖浦さんによれば、「土着の部族」のほかに、「大陸から入ってきた北方騎馬民族系、漢人系、倭人系が複雑に混交」していたという。さらに沖浦さんは「百済の王侯貴族には、もともと高句麗系だった家系も含まれていた。だが、百済の民衆には多分に南方系の倭人の血が流れて、高句麗系とは民族的形質もかなり違っていた」とする。王族・貴族は朝廷で外交のためにも重用され、庶民も東日本も含めて、開発のために全国に配置された。

わたしたちが日本史上でよく知っている人びとが、渡来人であることを、沖浦さんは指摘する。延喜14年(914年)、全国・地方行政の改革案として「意見十二箇条」を提出した三善清行は、文章博士・大学頭、式部大輔を歴任した百済系氏族であった。紹介するのはきりがないのでやめておくが、古代史の政治・外交・技術面で活躍した渡来系の人びとは数多く、本書を読むと、古代日本は大陸系の人びとによって運営されていたのだと思い知らされる。

沖浦さんが強調するのは、陰陽師、医術の分野である。安倍清明の家系は、外交・軍事面でも活躍した。技術・医術系のなりわいは、古代・中世にはいやしいものとして位置づけられてきたが、それを担ったのも渡来系の人びとであった。沖浦さんの渡来文化論は、ここで賤民文化論と接続していく。

部落間差別について、もっとも否定されてきたのは民族起源論である。同じ民族なのに差別するのは許されないという論理である。民族という概念が、近世、さらに現代において、変遷していることをふまえて、わたしは民族起源論を持ち出すつもりはないが、古代・中世において技術・医療系の仕事を渡来人が担当し、それを理由に差別されていたとすれば、部落間差別についての民族起源論批判の内容の質を深化させる必要がある。沖浦さんの論理を延長すれば、部落民は渡来人だということになるからである。

その問題意識は川上さんにも共通する。川上さんの第4章「日本の皮革地帯―姫路・龍野と木下川(きねがわ)を中心に―」にも共通しており、播州姫路・龍野の牛皮なめしの技術が渡来文化であることを紹介している。中世以降、皮なめしは「賤民」の代表的生業である。東京都墨田区の木下川は、日本の豚皮のほとんどを生産している被差別部落であるが、姫路はともかく、木下川に30年近く通い続けているわたしとしては、渡来文化との関係をもう少し論じてほしかった。

日本には固有の文化があるという固定観念に警鐘

沖浦さんは、渡来人が活躍した地域として播磨に注目する。全部は残されていない『播磨風土記』ではあるが、現在の兵庫県南西部では渡来人が大活躍していた。

そのことをさらに深めたのが、本書後半を執筆した川上隆志さんである。渡来人最大のグループである秦氏について、大和岩雄と加藤健吉の研究によりながら、「両氏の研究によれば、秦氏とは、5世紀後半から断続的・波状的に渡来してきた集団を母体にし、日本人の在地の農民なども組み入れながら成立した擬制的集団である」とする。

大和朝廷時代から山城地域を開発していた秦氏は、平安京を建設した主体であった。初代天皇は天武天皇だというのが圧倒的多数派説である。それは天皇一家支配を正当化するために、天武天皇の妻である持統天皇と、蘇我氏を滅ぼしたクーデターを実行した中臣鎌足の子である藤原不比等の作った物語であって、初代天皇は、平安京を開いた桓武天皇だという説もある。ただ、少数派学者たちは、伊勢神宮からのにらみをおそれて、積極的に発言しづらいということである。 

大和朝廷時代も、平安京建設も、渡来人は重要な役割を果たした。なによりも桓武天皇の母は、百済系の高野新笠であった。

非常勤講師をつとめている都内中規模女子大学の授業感想文に、このようなものがあった。高校時代に、歴史の先生から、天皇には朝鮮人の血が混じっていると教わった、そんなことを日本人みんなが知れば、日本という国は大混乱に陥るのではないかと心配しているのである。

しかし、天皇に朝鮮系の血が混じっていることは、誰もが知っていることではないか。明仁天皇自身が2001年の誕生日記者会見で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言した。新聞を読まない、テレビニュースも見ない大学生を除けば、誰でも知っていることである。

にもかかわらず、天皇に朝鮮系の血が含まれていることを、ほとんどの「日本人」が知っていて知らないふりをしている。みんなで知らないふりをするというのが、アメリカとの戦争に負けていることを知らないふりをした、天皇制の本質である。

川上隆志さんは、沖浦さんの問題意識を受けて、播磨の渡来人に注目し、秦氏が今でいう山陽道で、どれほどの存在感を持っていたかを本書の後半で展開した。詳細を紹介できないのは残念だが、播州赤穂生まれのわたしにとって、自分を育てた地域の文化の古層を知ることができた。

日本列島の文化が大陸と切り離せないことは、あまりにも当然である。そのことを忘れている現代日本人に対して警鐘を鳴らすのが本書の意義である。

しかしわたしが疑問に思ったのは、渡来人を渡来人と呼ぶことそのものにある。沖浦さんは『新撰姓氏録』についてたびたび言及し、古代氏族の「神別」「皇別」「蕃別」を論じて、渡来系の「蕃別」に注目すべきだと主張する。「蕃別」は秦氏などの渡来系、「皇別」は源氏、平氏など天皇から別れた家系、「神別」は藤原氏など、皇族から別れた家系をさす。渡来系が大陸から様々な文化をもたらしたことはまちがいない。

これまでの歴史イメージでは、「神別」と「皇別」が「日本人」で、「蕃別」は外から来た人びととされてきた。しかしその区別はどこにあるのか。天皇自体が弥生系であり、縄文人が住んでいた日本列島に攻め込んできた侵略者、渡来人の頭目である。「神別」「皇別」「蕃別」の区別にほとんど意味はない。

卑弥呼の外交といえば、『魏志倭人伝』から、三国の魏ばかりが注目される。しかし卑弥呼がもっとも重視していたのは、中国南部の呉であった。また、卑弥呼は鉄を中国東北部の公孫氏から輸入していた。当時、呉と公孫氏が同盟して魏と戦おうとしていたが、その前に公孫氏が魏に滅ぼされ、卑弥呼は魏と結ばざるをえなくなった。卑弥呼の時代の人びとは、大陸をわが故郷と考えていたのではないかというのがわたしの妄想である。卑弥呼時代の東アジア外交は、現代以上に複雑であった。日本列島の政治と文化は、東アジア全体の中に位置づいていたのである。そう考えれば、「日本文化」に渡来文化が影響を与えたという発想自体を問いなおさなければならない。日本列島の文化は、縄文時代をふくめて、ボーダレスだったのである。

とはいえ本書が、日本には固有の文化があるという国民主義的固定観念に警鐘を鳴らした意義は大きい。沖浦さんはわたしたちに、「仮説」設定の重要さを教えてくれた。インターネットの沖浦さんの紹介に、「社会学者、民俗学者」とされていることは、沖浦さんへのこれ以上ない侮辱である。沖浦さんは革命家であり、文学者であった。沖浦さんが投げかけた大胆な仮説は、歴史学徒が責任を持って実証しなければならないし、また歴史学徒は沖浦さん以上の仮説を提示する義務がある。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て今春より名誉教授。日本国公立大学高専教職員組合特別執行委員。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『伝統・文化のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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