論壇

日本の戦後公教育のゆらぎと確立

戦後教育を問う(その2)―文部省の延命のいきさつ

前こども教育宝仙大学学長 池田 祥子

はじめに

戦後教育を問う(その1)で、わたしは、米国の提示する日本の教育の民主主義化の重要な柱としての「公選制教育委員会制度」の発足の経緯を辿り、その制度化の過程で、なぜ文部省が「解体」ではなく見事に復権してきたのかを問うてきた。しかし、その作業はいまだ粗削りのままで終わっている。

しかも、今年は1945年8月15日から70年、ということで「日本の戦後とは何であったのか」が改めて問われている。たとえば、白井聡の『永続敗戦論』(太田出版)は大きな論議を巻き起こしているし、アメリカで機密解除された公文書をもとに、1952年以降、「片面講和」であれ、独立をはたしたはずの日本の日米安保体制(および日米行政協定、1960年以降は日米地位協定)の詳細な事実が明らかにされている(矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」をとめられないのか』(集英社インターナショナル)。さらにまた、佐伯啓思は、「45年8月15日は敗戦を認めた、いわば「敗戦の日」であり、52年4月28日が正式な「終戦の日」ということになる」と述べて、日本国憲法公布は占領期であり、いまだ主権国家になりえていない時期だ、と問題提起している(「朝日新聞」2015.4.3)。

このような中で、今回もう少し丁寧に、日本の敗戦直後の動きに焦点を当て、政治の荒々しい変動に否応なく翻弄される日本の公教育と、それを統べる文部省の危機と再建の動きとを、再度追ってみたいと思う。

ただ、本論に入る前に二つのことを確認しておこう。一つは、世界はもちろん、日本もまた、せっかくの戦争終結のはずである「戦後」が、またぞろ新しい熾烈な冷戦のただなかに置かれたということである。戦争の終わりが、戦争の始まりでもあった、そういう皮肉な「戦後」だったということである。

いま一つは、日本がポツダム宣言受諾の際に、無条件降伏であるにもかかわらず、「国体護持」という絶対的な条件を固持した、ということである。

ただ、前者についてみると、アメリカと同じ連合国同士であったソ連が、極東日本の占領問題よりも、遅れをとった原爆開発のウラン確保のため、ルーマニア・ブルガリアなどの東欧圏支配を優先させていたという事情が介在する(下斗米伸夫『日本冷戦史』岩波書店)。そのため、日本占領当初は、ソ連不在のまま、アメリカ主導による日本国家の民主主義化、平和化(武装放棄)の徹底が、「本気」でなされた稀有な時期となった。もちろん、そうはいっても、チャーチルが、1946年3月、「欧州大陸を東西に分ける鉄のカーテンが下ろされた」と語ったように、冷戦体制は早くもシビアに顕在化していたことを忘れるわけにはいかない。したがって、朝鮮半島の分断(1948年8月、9月)、そして中華人民共和国の成立(1949年10月)、さらには朝鮮戦争勃発(1950年6月)と相次ぐや、日本もまた激しい冷戦体制の前線領域に位置づくことになるのである。

一方後者の、日本指導層の悲痛なまでの「国体護持」という切望は、実は、幣原喜重郎を初めとする政治家、あるいは憲法学者や大学総長のほとんどが、「国体」とはすなわち「天皇主権」であると確信し、8月15日以降も、戦前の帝国憲法を変える必要をいささかも感じていなかったというのが真相である(「朝日新聞」2015.4.10)。

しかも、東久邇内閣の後、組閣した幣原喜重郎は、その首相就任挨拶において(10月9日)、「政府は五箇条御誓文の精神に則って国民の基本的権利を尊重し、言論集会結社の自由を完全に恢復して民主主義政治の確立を期せんとするものです」と述べている。ここでも明らかなように、当時の支配層の多くが、ポツダム宣言に謳う「民主主義」とは、天皇主権や明治維新の五箇条の御誓文と両立しうると考えていたのである(『幣原喜重郎』幣原平和財団、1955年、鈴木英一『教育行政』東大出版会、1970年 p.129参照)。

しかし、この事実にGHQは動転し、急きょ彼らの手で憲法草案を作成し、それを指針として日本に示すことを決意したといわれる(詳細はなお不明であるが)。その結果、憲法9条と国民主権による象徴天皇制が創設されたのである。日本の軍国主義の一掃、および日本への効果的な支配の貫徹のため、マッカーサーにとって、憲法9条の武装放棄と、「国体の民主化」という苦肉の策による「天皇」の戦争責任の免除および在位の継続が必要だったのであろう。(もちろん、昭和天皇自身の願いも加味されていた。)

1946年3月6日、政府が憲法改正案の骨子である草案要綱を発表した直後、たとえば南日本新聞(共同通信)には次のような記事が掲載されている。

― (草案要綱は)世界の一部輿論が日本の天皇制をもつて軍国主義の象徴であるかに看做しその廃止を要望しつつあつたに応へ、天皇こそは国民統合の象徴であり日本国民の愛敬の的であることを明示し、一方戦争抛棄の国是を定めることにより軍国主義と天皇の地位とに何等の関連もないことを明らかにしたものであって極めて注目される(「朝日新聞」2015.4.21)。

つまりは、国民主権と象徴天皇制、および憲法9条(武装放棄)は、日本の軍国主義の一掃と民主主義化を求めるGHQの使命と、国体の護持を掲げつつ戦後に生き延びようとする日本の支配層との合作であり、しかもそれは結果として、昭和天皇を祀り上げながら、もっとも痛手の少ない戦前から戦後への通過儀礼の役割を果たしたのである。

しかし、日本国憲法が制定されて後、東京裁判の進行中(1948年8月26日)、国際法を専門とする東大教授横田喜三郎は、次のような基本的な問題を指摘し、「天皇退位論」を掲載している(「読売新聞」)。

― かずかずの侵略戦争に最終的な承認を与えた天皇が、そのまま、平和国家を建設しようとする新しい日本の象徴として残るということは、理論的に不可解であり、実際的にも不可能である(「朝日新聞」2015.5.12)。

こうして、日本の戦後は、「理論的に不可解」「実際的に不可能な」はずの、「冷戦体制下での武装放棄」と「国民主権と象徴天皇制」とを二つながらに掲げつつ出発した、奇怪な事態であったことを、改めて確認すべきであろう。

1 日本の文部省 ― 戦前および敗戦直後

日本の近代公教育が制度化されるのは、明治維新による近代国家創設と同時である。江戸時代にみられた各藩ごとの政治・経済の自立の体制や、下層武士と庶民の子弟とで自由に営まれていた寺子屋という教育文化は、すべて中央集権的な(中央→地方の)政治体制と国家主導の公教育体制によって駆逐されていった。

文部省は、学制公布(1872・明治5年)の1年前に創置された。文部省には、視学官・督学官がおかれ、それらは、学事の視察・監督・学校の検閲などを職務とした。

ともあれ、遅れて近代国家の仲間入りをよぎなくされた日本の公教育は、当初より「有能なエリートづくり」と、「心を一つにした国民づくり」とをともに担わされるものであった。こうして変わることのない「心を同じくする」国民づくりが優先するゆえに、日本の公教育は、もともと不安定な議会の関与を受けるものではなく、天皇の独立命令による勅令主義の形式下に置かれてきた。大日本帝国憲法発布の翌年(1890・明治23年)には、さらに重ねて「教育勅語」が天皇から臣民へのじきじきの「お言葉」として下賜された。

そして、とりわけ教育内容に関しては国家事務とされ、文部大臣の指揮監督権は強力であり、府県知事および市町村長は国からの機関委任事務として教育行政の遂行にあたった。

ただし、教育費負担や施設設備管理は市町村に課せられていたのである。と同時に、公教育の授業料も基本的に「受益者負担」であり、やがて小学校が4年制の義務化(1900・明治33年)、6年制の義務化(1907・明治40年)と制度化されるに及んで、臣民=国民教育の徹底のために、授業料のみが無償化される。もっとも、この授業料無償の義務教育段階においても、家庭の経済力の差が子どもたちの教育力(進学・学習)に著しく影響を及ぼしたのはいうまでもない。

文部省の敗戦後の驚くばかりの素早い動きを見よう。

8月15日の天皇の終戦詔書を受けて、同日、太田耕造文部大臣の名前による文部省訓令5号が出されている。それは、敗戦という由々しき事態に立ち至ったのは「皇国教学ノ神髄ヲ発揚スルニ未ダシキモノ有リシニ由ル」として、その反省に立ちながら、今後は「各位ハ深ク此ノ大詔ノ聖旨ヲ体シ奉リ国体護持ノ一念ニ徹シ・・・」日本の再建に努めるよう、と説いている。

この後の東久邇稔彦首相の国民への放送(8月18日)も、「聖断ひと度下らば・・・われら臣民己を捨てて・・・これに帰一し奉る事実こそ、わが国体の精華」であると、自ら感涙し、また「わが国再建のためには、全国民の総ざんげ」が第一歩であると説いている。

続く8月28日、「時局変転ニ伴フ学校教育ニ関スル件」が指示され、平常授業への復帰と9月中旬からの授業再開が求められている。広島、長崎はいうまでもなく、全国各地の爆撃後の惨状や、家族離散の実態を考えると驚くほどの素早さであるが、しかし、この期に及んでなお残る、文部省の「国の教育」に対する律儀な責任意識なのかもしれない。

そして、敗戦1か月後の9月15日、文部省は「新日本建設の教育方針」を公にする。「国体護持」のためにも、軍国主義を一掃し、文化国家、平和国家を建設することが課題となるという筋道は変わることはない。

― 従来ノ戦争遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家、道義国家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ実行ニ努メテヰル

― 今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途(として)文部省機構ヲ改革スル
(『近代日本教育制度史料』第16巻 講談社、1957年 前掲、鈴木英一『教育行政』参照)

「国体護持」を掲げながらの軍国主義一掃、文化国家・平和国家の建設方針は、見るからに安易な、あるいは中途半端な文部省の敗戦後の姿勢ではあるが、GHQの文部省に対する強い批判をかわしたのは、東久邇・幣原両内閣の文部大臣を務めた前田多門の力によるものだったとも言われる。いわゆる政治家や文部官僚ではない教育の専門家・学者が文部大臣を務めるという「中立性」を一つの理論的・実態的な武器としたのである。

「アメリカが日本の中心をすべて叩くために文部省も占領行政の間につぶしてしまえというのです。それを前田さんがねばって、存続を司令部に頼み、どうやらこうやらつぶすことはやめてしまった。」(松村謙三の言「文教の恩人前田さん」、前田多門『その文・その人』、前掲『教育行政』p.586) 

しかし、日本側の憲法草案の「主権在君」案に業を煮やしたのと同様、GHQはこのような文部省は無視して、より手厳しい「4大指令」を直接に相次いで打ち出すこととなる。

「日本教育制度ニ関スル管理政策」(1945年10月22日)

「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」(同10月30日)

「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(同12月15日)

「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(同12月31日)

これらは、いわゆる「墨塗り教科書」で有名な、GHQの徹底した皇国史観および超国家主義・軍国主義への批判であり、それらに基づいた戦前日本の教育制度や教育内容のチェックと排除への命令である。

この4大指令を受けて、文部省全体は、初めて根底的な衝撃を受けたのであろうか。1945年秋には、教育者・学者がこの指令内容に沿いつつ対応を検討し、さらなる新しい教育方針の試案をGHQ・CIE(民間情報教育局)がチェックし補足し、翌1946年4月6日、分厚い文部省の『新教育指針』として示されることになった。その内容は、すでに(その1)で示した通りであるが、「軍国主義及び極端な国家主義の除去」「平和的文化国家の建設」「民主主義の徹底」が、これまで以上に掘り下げられている。GHQの意向を忖度しながら、かつ文部省の存廃を賭けての最大限真摯な方針の提示となっている。しかし、それでもなお、戦前の戦争責任はひとえに一部の極端な軍国主義者や国家主義者に帰して、文部省の戦前の著作『国体の本義』や『臣民の道』への反省はみられない。むしろ「自主的態度をもって国体を自覚し、国史を尊重し、国民性の長所を生かして、特色ある文化を発展させ、世界人類のためにつくそうとするものであるかぎり、正しい運動であった」とまで述べている。

それにつけても、1945年11月24日幣原喜重郎内閣の下で発足させられた「大東亜戦争調査会」(のちに「戦争調査会」)の廃止が悔やまれる。なぜなら、それは、日本人自ら戦争の教訓を引き出し、憲法9条の意味づけを行おうとして設けられたものだからである。しかし、ソ連や英連邦が「戦争責任は極東軍事裁判で裁くべきもの」と懸念を示し、結局GHQの意向を受けて1946年9月30日、吉田茂首相はそれを廃止した(「朝日新聞」2015.3.30)。

その「戦争調査会」の委員に任命された鈴木文四郎(朝日新聞顧問)は次のように発言している。「戦争に負けたわけは、戦争を始めたからであると思う。一番大事なことは、どうしてこういう戦争を始めたかということ。・・・明治以来の日本の教育そのものに大きな原因が伏在しているのではないか」と。

日本人自身の手による日本の教育そのものへのふり返りと反省が、この時点でなされる可能性があったということ、歴史を巻き戻せないことは辛い。

2 米国教育使節団報告書の文部省批判とその後

上記の文部省の『新教育指針』が作成されている間の1946年3月、第一次米国教育使節団が来日し、その月末に報告書が提出された。

この米国教育使節団報告書では、次のような文部省への批判が述べられている。

― 文部省は、日本の精神界を支配した人々の、権力の中心であった。

― この官庁の権力は悪用されないとも限らないから、これを防ぐために、われわれはその行政的管理権の削減を提案する。

そして、具体的には、カリキュラム、教授法、教材、および人事に関する多くの文部省(文部大臣)の管理権を、ことごとく都道府県、市町村の学校行政単位に移管すべきである、というのである。教育行政の地方分権化であり、いわゆる地方教育委員会制度の提示であった。

この教育使節団報告書の提案に従って、この後、学校教育法(1947年3月)、内務省の廃止(1947年12月)、教育委員会法(1948年7月)、さらに文部省設置法(1949年5月)が制定・実現されていく。教育委員会制度については、(その1)で見てきた通りであるが、この間、文部省は、この占領下での最低限の存在保障、すなわち廃止ではなく存続・改組の路線に成功している。そして、「報告書」が「行政的管理権の削減」に留まっていることに安堵し、戦前の教育の歪みの責任をことごとく内務省に帰し、文部省は悪くなかった、ただ利用されただけであった、という筋書きによる自己救済を図ったのである。

しかし、そのためには、公選制教育委員会制度の施行は必須条件であり、いま一つ、文部省は「指揮監督権」を持たない、あくまでも「専門的な指導助言」を行うにすぎない「サービス・ビューロー」(前掲『教育行政』P.560)であるという自己規定は守らざるをえなかった。しかし、一方では、教育基本法案の作成に従事していた教育刷新委員会内部では、1946年12月から文部省設置法が制定(1949年5月)されるまでの間、かなり熱心に文部省改革案が審議され続けている。

その一つは、公選制の地方教育委員会が制度化されるならば、中央にも同じような公選制の中央教育委員会を設けるべきだという構想。いま一つは、「文部省」の改革に当たっては、まずはその名称の変更が必須である、という意見が強かった。具体的には、例えば委員の入江俊郎案では、文化省・文事省・文教省・芸文省・学芸省、その他にも、文政省、文務省、文治省、教育文化省、文化教育省、教育文芸省、教育科学文化省、などが上げられている。その内、文化省(学芸省)に絞られていくが、CIEが、文化省という名称は「ナチの文化宣伝省のようだ」と指摘したために、最後は「学芸省」に落ち着いたと言われる(前掲『教育行政』p.576)。

だが、このような文部省の廃止、あるいは改組の審議が続けられていながら、ついに実現することなく潰えてしまったのは、一つには、報告書も現場のCIEもまた、文部省そのものの廃止への意向は持ち合わせていなかった、ということ。いま一つは、1946年から47年にかけて、「教育基本法」および「学校教育法」の制定に当たって、実際問題として文部省官僚の事務的な能力は、きわめて有能であり、大きな役割を果たした、ということがあったためであろう。

文部省が、敗戦直後の1945年11月20日に、自らの改革案である「画一教育改革要綱(案)」を公にしているが、その中には、「文部省ノ政治力ヲ強化ス」の一項がある。

文部省が中心に位置し、国全体の教育を統べて行く・・・この体質は、とりわけ文部省内では変わりようもなかったのであろう。それに加えて、教育基本法案制定に力を発揮した田中耕太郎文相(1950~60年は最高裁長官)の「教育権の独立」という理念もまた、内務省の廃止以降、縦系列の行政機構の中、ますます中央の文部省と地方の教育委員会を強固に結びつけて行く方向に拍車をかけたといえる。

また、1947年3月、教育基本法と相次いで制定された学校教育法は、戦後の6・3・3・4の新制学校制度を創立し、管理・運営していく基本的な法律である。この中には、たとえば、設置監督行政、就学監督行政、教育課程基準行政、教員免許行政など、学校教育の根幹を網羅する内容が定められているが、これらの内容や基準を定めるのは、すべて「監督庁」となっている。文部省の作成した要綱案の中では、ここは当たり前に「文部大臣」となっていたのを、その都度CIEによって「監督庁」に直されたという。

しかし、教育委員会制度が未だ制度化される前だったため、とりあえず106条に「監督庁は、当分の間、これを文部大臣とする。但し、文部大臣は、その権限を他の監督庁に委任することができる」という読み替え規定が設けられるに至った。

学校教育法制定の審議の過程で、佐々木惣一議員が次のような質問を発している。「日本国全般の児童と云うものに共通の知識訓育を与へると云うことが小学校の小学校たる所以の一つではないか」と。それに対して、劔木享弘政府委員は、「全国的に統一しなければならぬ場合は、相当或る程度文部大臣に(権限が:引用者)残ります」と答えている(前掲『教育行政』p.565)。

以上のように、文部省は、1947年3月の教育基本法および学校教育法という二つの重要な法案作成過程において、CIEの信頼や共同作業という恩恵もあり、早くも戦後公教育の実質的な監督権を揺るぎないものとして獲得したといえる。文部当局者の一人である内藤誉三郎の次の発言は、その端的な例といえるだろう。

― 正しい行政権の作用、例えば学校教育法に規定する監督庁が、その正当な権限により定めた規定などに服すべきは、法治国における立憲政治の下においては、当然過ぎる程当然なことである。(『学校教育法解説』ひかり出版社、1947年、前掲『教育行政』p.565)

このような形式的な民主主義、法治主義、立憲主義の建て前の下で、日本の戦後の公教育もまた、いったん定められた法律に「服する」ことが国民(教員)の当然の義務となり、それを管理し、監督する文部省が、名前もそのままに、そっくり復元されたことが分かる。

最後に、米国教育使節団報告書の一節を、改めて引用しておこう。

― 教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ十分発揮される。この空気をつくり出すことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくることではない。子どもがもつ、はかり知れない資質は、自由主義という日光の下においてのみ豊かな実を結ぶものである。この自由主義の光をあてることが、教師の仕事なのであって、その反対のものを与えることではない。

この一節に、明るい未来と希望を見出し、涙した学者・教師も少なくなかったと聞いている。牧歌的、理想主義的に聞こえるかもしれないが、ここにはアメリカの民主主義教育の最良の原点が差し出されている。敗戦後しばらく、文部省の体制が整う前、食べるものも着るものも乏しく、教科書もお下がりの、まさにナイナイ尽くしの中で、逆に、教師と子どもたちは「自由と自治」そのままに、教育の原型を楽しく試行していたことを忘れてはならないだろう。教育原論もまた、ここから深く、静かに構築されなければならないのかもしれない。

3 文部省設置法 ― 戦後の第二ステージ

先に見たように、1947年の教育基本法および学校教育法の制定によって、文部省は実質的に復権し、「指揮・監督権限」ではなく「指導・助言」を行う非権力的な行政サービスを施行するという名目の下、その「監督権限」を留保していた。

しかもこのような形での文部省の権限留保を、GHQ=CIEもまたあえて批判することはなくなっていた。それは、「はじめに」でも述べた通り、戦後の冷戦体制が次第にシビアになってきたこともあり、また、国内でも労働運動や日本共産党の活動との激しい対立が抜き差しならなくなっていたからである。いわば、「国内での冷戦体制」である。

1947年2月1日の全官庁共闘による無期限スト、いわゆる「2・1ゼネスト」がマッカーサーの指令で中止された。そして、1948年の1月、米陸軍長官が「日本を共産主義の防壁とする」と声明を発している。占領政策の明らかな転換である。しかも同年7月3日、「政令201号」によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。

その1(拙稿)で見たように、教育委員会法はこの48年7月に制定され、「教育の民主化」「教育の地方分権化」を銘打つ第一回の教育委員(公選)の選挙が10月5日施行されている。しかし、それはすでに、文部省と日教組という激しい政治対決のただ中でのことであった。

それに先立って、日本の行政組織の整備過程を振り返っておこう。

日本国憲法(1946年11月3日)、内閣法(1947年1月16日)を経て、国の行政組織は戦前のような勅令主義ではなく法律主義に基づくべきことが理解はされた。しかし、これまでの各官庁の見直しや民主化が丁寧に検討される暇もなく、これまで通りの諸官庁がそのまま継続する形の行政官庁法(1947年5月3日)が出され、さらに1948年7月10日、国家行政組織法として法定される。いわば、上意下達の官僚主義的体質は、「勅令」から「法律」への単純移動のまま、基本的には温存されたといえる。オランダ出身のカレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』などでの一貫した批判の通りであろう。

そしてこの国家行政組織法に基づいて、文部省設置法案の審議が始まる。

CIEの指導のもとで当然ではあるが、廃止されることなく生き残った文部省は、もちろん法律による各領域の基準設定を行い、それに基づく専門的指導助言を行うこととされる。ただし、「その内容の指導助言については、権力行使を伴う強制に陥る一切の行為を排除すること」と基本方針に明記されている。

しかし、この審議過程で、文部省は、「文部大臣が、教育、学術、文化の主任大臣であること」や「教科書検定権の削除は再考慮してほしい」旨、CIEに反駁しつつ要望している。だが文部省の要望は入れられないまま、1949年5月31日、文部省設置法が成立する。その第5条「文部省の権限」第2項には、「文部省は、その権限の行使に当って、法律(これにもとづく命令を含む)に別段の定がある場合を除いては、行政上及び運営上の監督を行わないものとする」と規定されている。一見、文部省の権力的支配を強く牽制しているかのようにも読めるが、やや平静に眺めれば、「法律(これにもとづく命令)」に従う権限行使は正当に認められていることになる。

先に引用した内藤誉三郎の発言に倣えば、「法治国の立憲政治である以上、法律に基づく行政権の行使は正当であり、何人もそれに服するべきである」ということであろう。これ以降の、日教組や教育学者との教育基本法第10条をめぐる「不当な支配」論争でも、文部省の権限行使は、法律に基づく限り常に「正当な支配である」と強弁し続けたゆえんである。

とはいえ、行政官庁法に基づく文部省官制の改正(1948年)では、地方教育委員会に対する「技術的・専門的な」「助言・指導」を行う、とあったものを、この文部省設置法では、「専門的、技術的な指導と助言を与える」になっている。誰も気づきようもない微妙な変更ではあるが、「技術的・専門的」から「専門的・技術的」へ、「助言・指導」から「指導・助言」への言葉の入れ替えは、そこに執拗なまでの文部省の統治権へのこだわりが見て取れよう(新藤宗幸『教育委員会』岩波新書、p102 参照)。

この年1949年10月、中華人民共和国が成立する。翌50年6月には朝鮮戦争が始まる。言葉の正確な意味では、この時すでに「戦後」という言葉自体が変質しているのであろうが、日本だけは一貫して「戦後」である。

1951年9月、サンフランシスコ講和条約および日米安保条約の締結後まもなく、吉田茂首相の諮問機関「政令諮問委員会」は、「教育制度改革に関する答申」を出し(11月)、教育委員の任命制、標準教科書の国家による作成、中等教育段階の多様化、などを提示している。あえて「戦後」という言葉を使い続けるとしても、明らかに時代は、大きく質の異なる「第二ステージ」へ突入したのである。片や、占領期の行き過ぎの是正、反対派から見れば、「逆コース」「反動化」。これ以降、教育問題が政治闘争として熾烈に闘われていく。

「戦後の教育の歴史を顧みるとき、この改革に際して文部省廃止を断行しなかったのは大失敗であり、真に千載の恨事であった」という家永三郎の言葉(『教科書検定』)、また、「そもそも中央教育委員会の機構が実現せず、文部省がサービス機関として残存したところに改革の不徹底があった」という勝田守一の言葉(『現代教育学』第5巻)、この二つともが、いま改めて胸に染み入ってくる(前掲『教育行政』p.606参照)。

日本における「民主主義としての教育」・・・大きな難題である。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、歌集『三匹の羊』(稲妻社)など。。

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