コラム/歴史断章

戦後日本共産党史の見直しを

成蹊大学名誉教授 富田 武

戦後70年の今年、集団的自衛権行使容認の安保法制論議と一体に、安倍首相サイドの「戦後レジーム」見直し論と反対論の論争も高まっている。「ポツダム体制」(押しつけ憲法等)と「サンフランシスコ体制」(冷戦下の対米協力)を意図的に切り離す論法で、非軍事化と民主化の意義を低めようとする議論、さらには吉田茂の「軽武装(安保ただ乗り)経済重視」路線は保守本流ではなく、鳩山一郎・岸信介の「自主憲法」制定論こそ真の保守だったとする議論も浮上している。この意味で日本戦後史研究も真価を問われているのだが、白井聡の『永続敗戦論』のような大胆な問題提起は別として、歴史実証研究に見るべきものが少ない印象である。

2015年度「読売・吉野作造賞」を受けた福永文夫『日本占領史 1945−1952 東京・ワシントン・沖縄』(中公新書、2014年)は、沖縄問題の重要性に焦点を当てた意義はあるものの、狭義の政治外交史の著作であって、戦後の政治・社会運動に副次的な位置しか与えていない。他方、政治・社会運動を重視した五十嵐仁編『「戦後革新勢力」の源流 占領前期政治・社会運動史論1945−1948』(大月書店、2007年)、同『「戦後革新勢力」の奔流 占領後期政治・社会運動史論1948−1950』(大月書店、2011年)は、日本共産党の評価に何ら新味がなく、同党分裂の1950年で終わっている。

どうやら戦後日本共産党史は、保守派が無視するだけではなく、当の日本共産党がコミンフォルム批判を発端とする武装闘争路線の過去を抹消するために沈黙する(党内的には『日本共産党の八十年』に見られる野坂参三・徳田球一の大国追随的・家父長制的指導への批判で納得させる)ことによっても、研究対象から外されている。しかも、「50年分裂」を経験した当事者たちが鬼籍に入りつつあるため、証言を集める努力も困難になっている。

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筆者が戦後日本共産党史を見直すべきだと思った契機は、2006年の論文「スターリン批判と日本の左翼知識人 フルシチョフ秘密報告50年によせて」(季刊『現代の理論』第9号/06秋)にある。日本では、スターリン批判は前年の六全協における徳田「家父長制的指導」批判で済んだとする宮本顕治はむろん、後に彼と袂を分かつことになる指導者もフルシチョフ流の「国際共産主義運動の総路線」に拘束されていた。ましてや、ソ連による日本軍将兵らのシベリア抑留―日本人にとってのスターリン主義の最大の体験―に対する批判など、誰ひとり口にしなかったのである。

2010年以降シベリア抑留の本格的研究に進んだ筆者は、1946−50年に抑留問題に取り組んだのは野坂、徳田らであり、彼らは遠慮がちではあれ、ソ連に対して抑留の真相を伝え、送還計画を明らかにせよと要求していたこと、反対に、後の国際派こそソ連ベッタリで、党分裂後徳田指導下の引揚促進運動自体が反ソ的で誤っていたかのように主張し、抑留者運動を平和擁護闘争に解消しようとしていたことを知った(『シベリア抑留者たちの戦後 冷戦下の世論と運動1945−1956』人文書院、2013年)。所感派と国際派の対立は従来専ら理論面で捉えられてきたが、運動面にも及んでいたのであり、国際派が主導した学生運動以外の分野の検討があらためて求められている(たんなる「指導の対象」ではないものとして)。

道場親信は『占領と平和 <戦後>という経験』(青土社、2005年)の中で、戦後平和運動における絶対平和主義的潮流と反帝国主義的潮流を区別し、後者に属する共産党の平和擁護闘争を位置づけている。朝鮮戦争時には米国による冷戦主導と「逆コース」のために反米的な全面講和運動と民族解放の武装闘争とが渾然一体となっていたが、朝鮮戦争後の原水爆禁止運動においては反帝国主義の主張はソ連の核実験肯定となって現れた。それに対抗したのは絶対平和主義的な潮流、日本の広島・長崎・ビキニ(第五福竜丸)体験に根ざし、社会主義国家の権力性をも批判する思想であった。今日でこそ日本共産党は憲法第9条擁護を唱えているが、憲法制定時には、ソ連国家と軍隊を肯定する論理をとるため、「自衛権」を規定すべきだと主張していた(国会での野坂と吉田首相との問答)。帝国主義(資本主義)と社会主義の対立においては、後者のすべてが肯定されていたのである。 

他方、筆者は2014年8月に亡くなった佐藤経明氏の業績を検討する作業の中で、1949年頃日本共産党東大細胞の中に、野坂平和革命論・地域人民闘争論に対しては反帝国主義闘争を強調しつつも、それはコミンフォルム批判後の野坂・徳田「反帝・民族独立」武装闘争のような方向ではなく、全面講和実現による米軍撤退が平和革命の可能性をもたらすという戦略構想があったこと(提唱者は力石定一)に気づかされた(本誌第3号拙稿「歴史断章」―社会主義研究に生きた構造改革論)。

換言すれば、スターリン批判後の日本におけるトロツキスト的「新左翼」潮流の登場は画期的でも何でもなく、50年反帝武装闘争の焼き直しでしかなかったのではないか(二段階革命が一段階の社会主義革命になっただけ)、むしろ、上記の力石的発想を継承した構造改革派こそ、先進国における社会主義への平和的移行を追求する正統的な位置を占めるべきだったのではないか、占められなかったのは何故かという問題意識が生まれたのである。

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この点でどうしても問わざるを得ないのは、不破哲三(上田建二郎)の思想的立場である。なぜなら、彼は東大細胞期に国際派に属し、力石、佐藤らと同志であったばかりでなく、綱領論争が行われた第7回大会(1958年)の頃『現代マルクス主義』に論文「社会主義への民主主義的な道」を書いて構造改革論を唱えていたからである。ロシア革命モデルに対し、人民戦線政府の経験を挙げて先進国における社会主義への平和的移行の可能性を検討したこの論文は、当時としてはマルクス・レーニン主義の枠内ではギリギリの理論的営為として評価されるものだった(宮本らの、平和的移行は「敵の出方次第」だとする議論も批判)。しかし、彼は兄の上田耕一郎とともに党内闘争で宮本主流派につき、以後この論文がなかったかの如く振る舞ってきた。

その後の日本共産党の「議会主義政党」への純化(「敵の出方」論による平和革命留保のなし崩し的放棄)、「自主独立の党」(ソ連及び中国共産党追随からの自立)への変身は、不破(書記局長、次いで委員長)主導によるところが大きい。1976年の大会では「プロ執権」(「プロレタリアート独裁」を一時期言い換えていた)、「マルクス・レーニン主義」概念を放棄したが、それを「人民的議会主義」、「科学的社会主義」で説明して理論的な体裁を整えるのが彼の役割だった。ソ連崩壊後には「スターリンの独裁と大国主義的干渉」批判を展開し、その過程で入手したソ連文書に基づき、野坂をスパイと断じて除名するにまで至った(和田春樹が論じているように根拠なし)。

筆者は、1990年代以降の新自由主義の跋扈と右翼ナショナリズムの台頭の中で共産党が果たしてきた役割を認め、左派の大同団結を訴える立場である。しかし、この党が独善的で、指導部の「無謬性」を維持している点は根本的に反省してもらいたい。2000年に「前衛」規定も廃止するに至ったが、スパイ事由による除名はスターリン主義そのものである。また、歴史を都合良く書き換えてきた点も根本的に反省すべきである。1950年のコミンフォルム批判ののち宮本らは野坂・徳田以上にソ連に忠実だったことは事実であり、1960年代前半には中国共産党寄りで、イタリア共産党の構造改革論やフルシチョフの対米平和共存政策を批判していたことは、ある世代以上の人々はみな記憶している。

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戦後日本共産党史は、かつてのような綱領・戦略論争史の繰り返しではもはや何の意味もない。幸い、若手の研究者の中には、戦後の尼崎労働運動に即して共産党の役割や分裂、再結集を見直す仕事(聞き書き:杉本昭典『時代に抗する―ある「活動者」の戦後期』、航思社、2014年)、東京南部のサークル活動に即して共産党の「民族主義」路線下の文化活動を浮き彫りにする仕事(道場「下丸子文化集団とその時代―50年代東京南部サークル運動研究序説」、『現代思想』2007年12月臨時増刊)などが生まれている。こうした社会運動との交錯、相互作用の中で共産党の肯定的・否定的役割と存在意義を明らかにすることが今後の課題である。

とみた・たけし

1945年生まれ。東京大学法学部卒。1988年成蹊大学法学部助教授、法学部長などを経て2014年名誉教授。本誌編集委員。著書に、『スターリニズムの統治構造』(岩波書店)、『戦間期の日ソ関係』(同)、『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院)など。

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