コラム/沖縄発

従兄妹<いとこ>たちの最期の声

戦後70年、「6・23慰霊の日」に

出版舎Mugen代表 上間 常道

きょう6月23日は「慰霊の日」だ。毎年この時期になると、普段はあまり意識に上らない従兄姉のことが頭に浮かび、沖縄戦とは何だったのか、考えさせられる。ことしは特に気にかかっている。おそらく「戦後70年」の暗澹たる状況への苛立ちもあるのだろう。沖縄戦の死者たちは、今を生きる者たちに、傷つき斃れたおのれの最期の姿を思い起こすことを求め、今こそ、あの戦争の本質を突き詰め、歴史の想像力を喚起して、現在のありようを根底から再構築することを迫っている。

半世紀ほど前、現代の理論社で編集の学生アルバイトをしていた、大阪・西成に生まれ育った私は、ある日突然、どうしても父母の故郷である沖縄に行かなければならないという強迫観念にとり憑かれた。「復帰問題」が具体的なかたちをとり始めていた時代が背景にあったことは確かだが、なにか誰かに呼びかけられているような感覚のうちに、父や兄の反対を押し切って初めて沖縄に渡り、初めて肌で ‟沖縄” を感じ取った。その時の経験は、帰京後すぐエッセイにして『現代の理論』41号(1967年6月号)にしたためた。その中に、《「ひめゆりの塔」の前に立ち、娘の名を彫った銅板に指をおしあてて、涙を流しながら「戦争はもういやだ……」と伯父がつぶやくのを聞きながら、いく人とも数えることのできない傷兵とともに、命を絶ったであろういちども見ぬいとこの顔を、シダやツタのおい繁った壕のなかの暗闇のなかに浮かべたりした》と記した一節がある。戦死した従姉に初めて言及した箇所である。

そう記して以降、その後沖縄に移住してからも、さまざまな情報がもたらされたが、戦死した従兄妹たちについて語ることは避けてきた。それを記録し語るにふさわしい人がいたし、デラシネのウチナンチュごときがそれを物語ることに後ろめたさがあったからにほかならない。その書き残すにふさわしい人だった、死者たちの弟が、昨夏、身罷った。

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従姉の最期は、ひめゆり部隊の引率教師 仲宗根政善の編著『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(現行版:角川ソフィア文庫、2013年)に収められた「上原当美子の手記」に、次のように描かれている。

《(6月17日)やがて日も暮れかかって、夕食の準備に数名の学友が壕(伊原第一外科壕)の入口に出てたち働いていた。古波蔵満子さんは、病院勤務についてから病気がちで、最近はまったく食欲がなくなっていた。衰弱しきっている満子さんにあげようと、牧志鶴子さんと二人で、砂糖キビをとりに出かけた。/二、三本の砂糖キビをかついで壕にはいった瞬間であった。轟然と直撃弾が洞窟の入口に破裂し、硝煙が壕にたちこめた。

「当美ちゃん! 私の脚がないの!」と牧志さんが叫ぶ。/ふり返ると大腿部からすっかりもぎとられて、血だるまになって横たわっていた。古波蔵さんは寝たきりで息が絶えていた。」

これが私より16歳年上の従姉 古波蔵満子の最期の姿である。1927年4月生まれ、沖縄師範学校女子部予科3年生のとき動員され、球18803部隊に配属され、看護婦として従軍した。上原の手記は続ける。

《戦争がすんで三年もたったある日、大嶺政寬先生はこんな話をしておられた。

「忘れようとしても忘れることのできないのは、古波蔵満子の死に顔であった。私はあんな美しい顔を見たことがなかった。古波蔵はかすり傷一つ受けていなかった。一滴の血も流さず、一瞬にして他界し、口もとには微笑さえ浮かべていた。なんという美しい顔であったろう。これが死んでいる乙女の顔とは思えなかった。ところが、あの顔に硝煙が少しついていた。あのとき、私はどうしてあの一点の硝煙をふいてあげなかったろうかと、いまだに気になる」と語っておられた。》

大嶺政寬は赤瓦の屋根の風景画で知られ、戦後の沖縄美術界をリードした画家のひとりで、当時は師範学校の美術の先生だった。

古波蔵満子は仲宗根政善の歌集『蚊帳のホタル』(沖縄タイムス社、1988年) にも登場する。この直筆の影印本は政善氏の教え子である仲程昌徳(『沖縄の戦記』〈朝日選書、1982年〉などの著者、当時、琉球大学教授)が企画し、政善氏の娘婿にあたる画家の真喜志勉が装丁を引き受け、私が刊行業務にあたった。染色家である娘の民子さんが織った布で表装した特装本も刊行した。思い出深い本である。その中で、「古波蔵満子」の見出しのもとに次の歌が詠まれている。

手榴弾を先生はいらぬかと/ゑまひつつ示しし乙女ごついに帰らず  

同書にはもう一か所「二十年六月十七日 古波蔵満子等数名第一外科壕入口に爆弾落ちて即死、また重傷を負ふ」と題して、同種の歌が掲げられている。

とすれば、「手榴弾を先生はいらぬか」こそが、従姉の最期の肉声だった可能性は高い。「先生、先生! 手榴弾はいらないのですか?」――部屋の明かりを暗くして、遠くの方に耳を傾けると、従姉の声音がかすかに聞こえてきた。

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「上原当美子の手記」は満子の兄についても触れている。

《満子さんの兄英一さんは男子部の二年生であった。野田校長のおともをして、六月十九日、摩文仁軍司令部の壕を出たが、ついにそのあとの消息はわからなかった。》

従兄 古波蔵英一については大田昌秀・外間守善共編『沖縄健児隊』(日本出版協同㈱、1953年) に、比較的詳しく描かれている。これによると、動員されたのは沖縄師範男子部本科3年生のときであり、陸軍二等兵として軍司令部の直接防衛を任務とした特別編成中隊に配属され、伝令として師範学校校長 野田貞雄と行動を共にし、摩文仁の壕を出たのは6月20日午前0時半だったことがわかる。

とくに師範学校教授 秦四津生「噫、野田校長」は、次のように詳細に記録している。

《校長先生の居られた本部の壕は、入口を艦砲の砲撃でつぶされてしまった。自活隊の壕が安全だと聞いたからといって、井口中尉に付添われた先生が小さい風呂敷包を持ってひょっくり私達の洞窟へやって来られた。六月十八日の暮れ方だった。

私達は飛び上るような嬉しい思いで先生をお迎えした。早速柴や草の葉が集められ、その上に毛布を敷いて先生の席をお作りした。その頃はすでに八時を廻っていた。そのとき、
「伝令!」
と云って、本部伝令古波蔵英一君が飛び込んで来た。かれは息をはずませながら続けた。

「軍司令官閣下は、敵中を突破して国頭地方へ脱出せよ。而して皇国軍の再挙を図れとの命を出されました」/野田校長先生は端坐してそれを聴いておられた。沈黙が続いた。ややあって姿勢を正された先生は、……その他万般の注意を伝令に託された。……/校長先生は風呂敷包を前へ投げ出された。米が四、五合入っていたろう。/「最後の晩餐だ。しっかり腹ごしらえをして、元気で国頭へ突破するんだね」/……食事を終えて間もなく、私達は三、四名ずつ三組に分散した。

校長先生には井口中尉が付き添い、古波蔵英一君等がお供した。……校長先生の一行は壕外に出た。岩礁にとりすがりつつ、匍匐前進する一行の黒い影が月の明かりの下に次第に遠ざかり、岩陰から現れたと思うとまた岩にかくれた。そのたびに小さくなっていった。
「校長先生危い! こちらです」
そんな声も遠くの方から聞こえて来た。やがて一行の姿は闇に呑みこまれてしまった。》

長い引用になったが、最期に近づいた英一の姿が彷彿とする。ひょっとすれば、「校長先生危い! こちらです」と叫んだのは英一だったのかもしれない。もしそうなら、それがいとこ兄さんの最期の肉声の記録だったことになる。

満子にしろ英一にしろ、戦場での最期の肉声であったかもしれない叫びが恩師への気遣いにあったことに、縁戚の一人として、なんともいえない感慨を覚える。少なくとも「天皇陛下万歳!」ではなかったらしいことに。

同書に収められた大田昌秀「沖縄師範学校長野田貞雄先生」には、その後の動きが次のように記録されている。

《色々と最後の任務を終えられた先生は、六月二十日午前〇時半、配属将校井口中尉、本科三年生古波蔵英一君(後に予科二年武文昭・比嘉弘・髙江洲義永の三君これに加わる)と共に敵中突破を目指して摩文仁の壕を出られた。その時先生は、二箇の手榴弾をしっかりと腰に結び、背後に部下生徒の祈りを残して振返り振返り砲撃の下をくぐって行かれた。然るに翌六月二十一日夜、不運にも摩文仁と具志頭との中間、ギーザバンタ海岸で熾烈な砲撃を受けて、古波蔵・武両君と共にあえない最期を遂げられたのである。(生存者高江州・比嘉両君の証言に依る)》

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兄妹だったふたりのいとこの最期をこのように描くことができることに、少しは救われるような気がしないでもないが、いつどこで死没したかさえわからない沖縄戦の多くの死者たちのことを考えると、それ以上は黙せざるを得ない。

従姉(ねえ)さんの死から6日後、従兄(にい)さんの死から2日後――それが私の「6月23日」である。

うえま・つねみち

東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、河出書房を経て沖縄タイムスに入る。2006年より出版舎Mugenを主宰。

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