この一冊

『グラムシとフレイレ――対抗ヘゲモニー文化の形成と成人教育』(ピーター・メイヨー著、里見実訳、太郎次郎社エディタス、2014年)

変革を志向する社会教育の思想と今日的課題

グラムシ研究者 松田 博

著者のメイヨーはマルタ共和国出身の1955年生まれの教育社会学、成人教育の優れた研究者であるが、本書はグラムシ(1891-1937)、フレイレ(1921-1997)に精通した著者ならではの充実した力作である(原著は1999刊)。

第1章(序論)において著者の問題意識が示されるが、それは資本主義的グローバル化の「全面的な進展」を支えるヘゲモニーとしての「新自由主義的イデオロギー」の圧倒的な影響力のもとでの「ヘゲモニー装置としての成人教育」の諸問題を二人の思想家を基点として考察することにある。著者は「ネオリベ的思考」、つまり新自由主義的イデオロギーは軽視されるべきではなく、ヘゲモニックな言説として構築されている点を重視している。というのは「かつては敵対物であった思想や発想を己の懐に取り込んで徐々に希釈化し、支配的言説の一部に変質させてしまう」資本主義の「底力」の一つであるからである。さらにそれは本来民主主義の核心であるべき「草の根のエンパワーメント」さえも「エンパワーメント」や「アクティブ・シティズンシップ」の内実が変質させられ「社会的責任を家族、個人、地域社会におっかぶせる手口」として悪用されている。

さらにポストモダン論者のなかにはフレイレ等の議論を「ラディカリズムの袋小路」と批判する傾向が存在するが、それらは「主体の内破、あるいは主体を言説のたんなる機能に還元すること、たえず自己増殖する記号の海を目的もなくただ漂うだけの存在に浮動化する」ことに他ならない。著者は「大きな物語の終焉」というポストモダン的言説に批判的であるが、それはこの言説の背後には「人は人間解放をめざして共同で何かをおこなうことができるという思想への否定の意思が潜んでいる」からである。

著者は「変革志向型、解放志向型の成人教育のありよう」の検討を本書の主題に据え、フレイレの「解放の教育」の視点およびグラムシの「ヘゲモニー論」、「陣地戦論」の視点を「総合」することによって「変革志向型の成人教育」の理論的展望を提示しようとしていることが本書の大きな「魅力」となっている。なおこの章にはグラムシとフレイレの簡潔ながら要点をおさえた略伝が含まれており、本書の理解にとって有益である。

第2章の主題は、グラムシの「革命戦略と成人教育」である。グラムシはヘゲモニー関係における教育的関係の重要性を強調する『獄中ノート』草稿を少なからず記しているが(「第12ノート」の知識人論、「第25ノート」の従属的社会集団論=サバルタン論など)、著者は「陣地戦」的社会変革構想においてグラムシが「成人たちの教育・文化活動のなかに、対抗ヘゲモニックな行動を創出するカギがあると看取していた」と指摘している。これは一見当然のようであるが重要な指摘である。というのはグラムシのヘゲモニー論の一般的理解においては狭義の「政治的ヘゲモニー」が重視されることが多く、グラムシのヘゲモニー概念が「縮減」されることが少なくないからである。

著者はグラムシの仕事を「ラディカルな成人教育理論の発展にとってみすごすことのできない重要な遺産」として評価しているが、著者のグラムシ理解は、狭義の政治主義的なヘゲモニー論の限界を超えたものであることを指摘しておきたい。というのはグラムシ的ヘゲモニー論を政治主義的に「縮小」して理解する傾向が往々にして見られるからである。著者が強調するのは、教育的・文化的ヘゲモニーつまり人間形成に直結する広義の知的ヘゲモニーの独自の重要性であり、またそれと内在的に関連する広義の政治的ヘゲモニーの意義である。したがって前者は後者の副次的契機ではなく、後者はまた前者とは乖離するものではない。著者は社会変革志向型の成人教育の戦略を発展させるために「グラムシの洞察を自らの足場として活かすこと」を強調している。

第3章の主題は、フレイレの「批判教育学と成人教育」である。著者はフレイレの実践(プラクシス)概念が「学習者が批判的なリテラシーを獲得し、『語と世界』の読みを推し進めていく活動の手立て」となると強調している。グラムシも実践概念を重視したが、フレイレはそれを成人教育論の中心的概念とした。またそれは必然的に「教育活動の政治性」つまり「教育と権力」との関係性の問題へと展開する。というのは「批判的なリテラシー」の獲得は、一定の社会的文化的環境のもとでの抑圧の問題にたいする「鋭敏な感受性」の形成にほかならないからである。

第4章は、グラムシとフレイレの「共鳴と相違」が主題である。両者の共通性の解明が本書前半の基調となっていることは明らかであろう。つまり「教育活動の政治的性格、教育活動という市民社会の制度が社会変革においてはたす役割の重視」がそれである。またそれは「人間を客体から主体に変える教育」の探究でもあった。グラムシが従属的社会集団論(サバルタン論)を主題とした「第25ノート」においてサバルタン集団の既成ヘゲモニーからの自立性、自律性獲得の問題を理論的・歴史的に探究したのも、著者がいうように「客体から主体への転換」が基軸であったが、成人教育論という次元では「フレイレの錘はグラムシのそれよりも深い」ということができる。グラムシの場合この問題は「支離滅裂」な「コモンセンス(常識)」(客体化された未分化の意識)をいかに系統的で自覚的な「グッドセンス(良識)」つまり自律的な主体意識へと「転換」するかが基本的な課題として据えられていたが、著者は、両者の類似点と相補的な部分の検討をふまえて「両者の成人教育思想」を総合することを自らの課題としているが、これは本書の意義にかかわる重要な指摘といえよう。

第5章では二人の思想家の意義とともにその限界が検討される。つまりこの二人の「欠落している部分」への「批判的関与」であり、それは「この欠落を政治的に言説化していく」ことを著者は重視している。具体的にはフェミニズム、反人種差別闘争、カルチュラル・スタディーズ、批判教育学などとの対照によって成人教育理論をより多面的に「とぎすます」ことである。換言すれば今日的なアクチュアリティの視点から二人の思想家の「限界」を明らかにすることである。グラムシ研究の長い歴史においても、グラムシ万能論的な全面評価論やその反対のグラムシ否定論が主張されるケースがかつて見受けられ、今でも皆無ではないが「限界性にたいして鋭敏であること」という著者の言は鋭い。それはまたこの二人の思想家の意義についても「鋭敏である」ことと表裏一体のものといえよう。

第6章では両者の相補的関係とその総合の課題が検討されている。著者は「二人の思想の相補性と今日におけるその限界をも念頭におきながら」ラディカルな成人教育理論にとっての両者の意義を検討している。著者の視点は、このような成人教育の実践は「抑圧が多様な形態でおこなわれている事実を視野において、それらの総体と向きあう思想性を具えていなければならない」という点であり、その抑圧性とは支配的ヘゲモニーのみならず、たとえば労働者組織内部における「ジェンダーの抑圧」などの問題も含まれる。この問題はサバルタン集団内部におけるジェンダー、民族的・人種的マイノリティーなどの問題をリアルに認識し、それらの抑圧性の根源についての自覚を形成していくという重要な課題であり、変革志向型成人教育の発展にとって避けて通ることのできない課題といえよう。

第7章は結論ではあるが、結論というより著者はむしろ変革型成人教育の今後の課題を展開する。それは本書の読者や成人教育(むしろ教育一般)にかかわる人々にたいするメッセージであり、問題提起的内容である。というのは「変革の教育」は教育独自の諸実践だけで自己完結するものではなく「社会運動というコンテキストの内部で、あるいは諸運動との連携」によってこそその有効性を発揮できるからである。換言すれば成人教育は、社会的・文化的陣地戦との有機的連携において、その潜勢力を現実化できるのである。グラムシ的にいえばヘゲモニー・陣地戦・成人教育の総合的認識にもとづく諸実践の豊富化といえよう。

とりわけグローバル・ヘゲモニーのもとでの「市民社会と教育」やグローバルな「歴史的ブロック」等々国民国家論的認識枠組みだけでは把握できない現代社会の現実をふまえた検討が求められていることは確かといえよう。しかしながら著者が紹介しているホーゲイのコメントはヘゲモニー論と成人教育論との内在的関連性を指摘したものであり、また二人の思想家に共通する点でもあるので、この小文の結びをかねて紹介しておきたい。「今日の成人教育実践に大きく欠けているもの―それは、支配文化の言語を自由に使いこなす能力である。政治生活の外辺部に追いやられないためには、この能力を育てなければならないのだ」。

本書の訳文は正確かつ平明であり、初心者にも理解しやすいように配慮されている。訳者の労に感謝したい。本書が教育関係の仕事に従事している人々だけでなく、わが国の教育問題に関心のある人々、とりわけこれから教育関係の仕事に就くことを希望している若い世代に普及することを期待したい。教育という実践の厳しさ、困難性とともに、人間形成にかかわる実践としての素晴らしさを本書はリアルに伝えてくれるからである。

まつだ・ひろし

1942年福岡県出身。専攻、社会思想史、イタリア近代思想史。立命館大学名誉教授。著訳書、グラムシ著作集2冊、その他多数。

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