論壇

初の夫婦別姓を“認めよ”裁判を追う

地裁から最高裁まで―21世紀日本のできごと

茨城大学名誉教授 酒井 はるみ

はじめに

2015年12月16日最高裁判所で日本初の夫婦別姓裁判「夫婦別姓国家賠償請求訴訟」の判決が言い渡された。「夫婦同姓しか認めない民法750条は違憲であり、国連の女性差別撤廃条約にも違反」しているという訴えであったが、全面敗訴に終わった。

原告は日本各地からの5人(女性4人・男性1人)。東京地裁での2011年5月25日第1回口頭弁論を皮切りに、地裁5回、東京高裁3回、最高裁2回開かれ、4年半を要した。

この裁判については専門家をはじめ多くの批評がなされてきた。筆者は家族社会学・ジェンダー学を専門としており、家族法やジェンダー法学関係の文献等はある程度読んできたはずであるが、初めて触れた“サイバンショ語”は全く別物であった。筆者は口頭弁論のほとんどを傍聴し、閉廷後の集会にも出て裁判のプロセスに参加してきたが、慣れない“サイバンショ語”の世界を手探りで進むことになった。市井の私人がそこで何に接し何を考えたのかを率直に書かせていただくこととしたい。

なお、判決の全内容を紹介するのは理想だが訴状も判決文も長文である。主観は避けたい。そこで内容のうち機微に触れない部分は筆者が要約または紹介し、重要と思われる部分は原文のまま「  」をつけて記載することとした。

1.東京地方裁判所への訴状 2011(平23)年5月25日

訴状では冒頭部分に国が夫婦の氏について法制化したり、法制化に向けた取り組みを行ってきたことを記述している。以下は筆者の訴状冒頭部分の要約である。 

新憲法制定に伴い、家族の法は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨とする法になった。その後の取り組みは、1976(S.51)年婚氏続称制度新設、1985年女性差別撤廃条約批准、1992年から法制審議会「婚姻及び離婚制度に関する中間報告」や「民法改正要綱試案」、1996年法務省「夫婦別姓を認める民法改正の法律案要綱」(国会不提出)、1999年「男女共同参画社会基本法」、5年毎策定の「男女共同参画基本計画」などである。その上で、夫婦同氏を強制する民法750条は違憲であると主張、その理由を、1.憲法13条違反、2.憲法24条違反、3.女性差別撤廃条約違反、4.国会の立法不作為の違法性に求めた内容となった。

以上が訴状冒頭の要約で、以下は訴状の内容概要である。

(1)憲法13条違反

氏名は、アイデンティティの基礎、個人として尊重される基礎であり、個人の人格の象徴である。個人は自分の意思に反して自分の氏名を奪われない権利である「氏名保持権」を有すると考えられる。憲法13条は、すべて国民は個人として尊重され、幸福追求に関する国民の権利は、国政の上で最大の尊重を必要とすると定めている。

氏名保持権は人の生存に不可欠の権利として憲法13条で保障されると考えられるが、結婚に際し夫婦どちらか一方はその氏を否定され、同姓を強制される。今日、社会状況の変化や人々の意識の変化、女性の社会進出に伴い、氏名保持権の保障の必要性はかつてなく高まっている。民法750条は、自己の意思に反して自分の氏名を奪われない権利を保障する憲法13条に違反することは明らかである。

(2)憲法24条違反

憲法24条は「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」すると「婚姻の自由」を保障しており、基本的人権であることは明らかにされている。民法750条は、夫または妻に改姓を強要する点で「婚姻の自由」を侵害し、婚姻時に「氏名保持権」と「婚姻の自由」という基本的人権のいずれかの放棄を強制している。 

民法750条は、現在も夫婦の96.3%は妻が改姓する異常な実質的不平等をもたらしており、憲法24条が保障している婚姻における夫婦の同等の権利と、家族生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を侵害している。

(3)女性差別撤廃条約違反

条約は(2条、16条1項b、g)で「男女の平等を基礎として」、「自由かつ完全な合意のみにより婚姻をする同一の権利」と、姓を選択する権利を含む「夫及び妻の同一の個人的権利」を確保し、女性差別を撤廃するため既存の法律を修正する措置を取るよう締約国に義務付けている。女性が姓の選択権を享有し又は行使することを害しており、民法750条は「女性に対する差別」にあたる。

国連の女性差別撤廃委員会は2003年と2009年の日本審査で、国に対し「民法に依然として存在する差別的な法規制を廃止し、法や行政上の措置を条約に沿ったものとする」勧告をしたが、国はいずれもこれを放置した。被告が民法750条を改正しないことは、女性差別撤廃条約が締約国に課している義務に違反する。

(4)国会の立法不作為の違法性

国民に憲法上若しくは条約上保障されている権利の行使を確保するため、民法750条を改正し、夫婦同氏に加えて夫婦別姓という選択肢を新たに設けることが必要不可欠である。女性差別撤廃条約発効から26年、法律案要綱公表から15年を経たが、国は正当な理由なく長期にわたり民法750条の立法措置を怠ってきた。被告の立法不作為は、国家賠償法1条1項に該当する違法な行為というべきで損害賠償合計600万円請求する。

(5)損害

5人の原告は二つの姓の間でのアイデンティティの葛藤、また職業上でも日常生活でも二つの姓の使い分け、その繁雑さゆえのペーパー離婚など多大な損害を被っており、別姓での法律婚を心から望んでいる。

以上が東京地裁への訴状の概要である。これは夫婦別姓選択を勝ち取るための初の訴訟で、民法750条を違憲とする論理が示された。国民が国政に対して求める憲法は、前文で国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を原理として掲げる憲法である。原告たちはこの憲法に希望を託し、国に対して真っ向勝負で臨んだことが理解できる訴えの内容である。

この裁判のキイ・ワードはアイデンティティと「氏名保持権」である。5人の原告が経験した多大な損害について、第2回口頭弁論だったかで、原告代表塚田協子は出産の度に結婚・離婚を繰り返したり、職場での居心地の悪さや非難(協力者もいたけれど)を経験するなど、50年間の別姓生活を守るための努力と苦労を話した。同様の経験者やそれぞれの心痛、共感の思いで傍聴席は熱くなってしまった。

2.東京地方裁判所の判決 2013(平25)年5月29日

主文は、「原告らの請求をいずれも棄却する」であった。

3.東京高等裁判所の判決 2014(平26)年3月28日

主文は、「(1)本件控訴をいずれも棄却する。(2)控訴費用は控訴人らの負担とする」であった。

筆者は、紙幅の制限から両判決文の採録を断念し、裁判の過程で重要と思われる点のみを記すこととする。地裁、高裁いずれも本件に関連する法律条項を探し、整合性が成立しない場合に違憲や効力の否定とした。ここでは原告が提起した「氏名保持権」の扱い方に注目する。地裁判決では「婚姻当事者の双方が婚姻前の氏を称することができる権利」、高裁判決では「氏の変更を強制されない権利」と言い換えて使用された。地裁はその理由を示していないが、高裁は氏名のうち「氏は、法制度に立脚したものであるから・・・法制度を離れた生来的、自然的な自由権として憲法で保障されているものではない」からと名を外した。「氏名保持権」は使用したくない用語であることが窺える。 

4.最高裁判所大法廷判決 2015(平27)年12月16日

1) 主文

大法廷判決の主文は「本件上告を棄却する。上告費用は上告人らの負担とする」であった。

2)判決理由

(1)憲法13条違反

上告人の訴える「氏名保持権」を次の理由で却下した。氏名は人格権の一内容を構成しているが、氏は「婚姻及び家族に関する法制度の一部として法律が具体的な内容を規律している」具体的な法制度がない現在、氏が変更されること自体を捉えて「直ちに人格権を侵害し違憲を論ずることは相当ではない」

氏には個人の呼称とともに家族の呼称としての意義もある。「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位」であり、「個人の呼称の一部である氏をその個人の属する集団・・・として一つに定めることにも」合理性がある。「自らの意思のみによって自由に定めたり、又は改めたりすることを認めることは本来の性質に沿わない」   

氏を改める者にとって、人格権の一内容とまではいえないが、アイデンティティの喪失感や「個人の信用、評価、名誉感情等を婚姻後も維持する」についての不利益は「人格的利益」として法制度の在り方を検討するに当たり考慮すべきといえる。

(2)憲法14条違反

憲法14条1項法の下の平等は「法的な差別的取扱いを禁止する趣旨」で、この点で検討すると「夫婦がいずれの氏を称するかを夫婦となろうとする者の間の協議に委ねているので・・・本件規定の定める夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない」。協議により夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数でも、民法750条から生じた結果とはいえず、「750条は憲法14条1項に違反するものではない」(本条は最高裁で初出)。

(3)憲法24条違反

憲法24条は「婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻するかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨」と解される。民法750条は「婚姻の効力の一つとして夫婦が夫又は妻の氏を称することを定めたもので・・・婚姻することについての直接の制約を定めたものではない」から、直ちに750条が婚姻することについて憲法24条1項の趣旨に沿わない制約を課したとの評価はできない。

憲法24条は「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべき・・・とする要請、指針を明示している」もので、両性の形式的な平等が保たれればそれで足りるのではなく、「憲法上直接保障された権利とまではいえない人格的利益をも尊重すべきこと、両性の実質的な平等が保たれるように図ること、婚姻制度の内容により婚姻をすることが事実上不当に制約されることのないように図ることなどについても十分に配慮した法律の制定を求めるものである」

婚姻及び家族に関する事項は「それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断によって定められるべきもので人格的利益や実質的平等は・・・その時々における社会的条件、国民生活の状況、家族の在り方等との関係において決められるべきものである」

婚姻前の氏の通称使用は許されないわけではなく、「氏の通称使用が広まることにより一定程度は緩和され得る」

「夫婦同氏制が直ちに個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠く制度とは認めることはできない」したがって、「憲法24条に違反するものではない」

なお、女性差別撤廃条約違反は法令違反でしかない。

(4)結論

「本件規定を改廃する立法措置を取らない立法不作為は、国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではない」」「上告人らの請求を棄却すべきものとした原審の判断は是認することができる。論旨は採用することができない。よって、裁判官山浦善樹の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文の通り判決する。なお、裁判官寺田逸郎の補足意見、裁判官山浦善樹の反対意見、裁判官櫻井龍子、同岡部喜代子、同鬼丸かおる、同木内道祥の各意見がある」

3)判決に対する意見と反対意見

最高裁は裁判官全員一致で上告を棄却する判決を下したが、周知のように5人の裁判官の少数意見があり、4人は、民法750条が憲法24条違反ではないという判断に対する異議であった。

裁判官岡部喜代子は次のように反論する。民法750条は「夫婦が家から独立し各自が独立した法主体として協議し」氏を「決定するという形式的平等を規定した点に意義があり、・・・昭和22年当時には・・・合理性のある規定で、・・・24条に適合した。その後の大きな社会変化と女性の社会進出の過程で、その合理性が揺らぎ、婚姻前後で氏の変更があると業績や信用の継続性が認識されないなど法的利益を損ないかねず、同一性識別のために婚姻前の氏使用を希望することには十分な合理的理由がある」

現在は「夫婦が別の氏を称することを認めない点で個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超える状態に至っており、憲法24条に違反するものと言わざるを得ない」。96%もの夫婦が夫の氏を名乗るという大きな偏りは「女性の社会的経済的な立場の弱さ、家庭生活における立場の弱さ、・・・様々な要因のもたらすところであるといえ、・・・夫の氏を称することが妻の意思に基づくものだとしても、その意思決定の過程に現実の不平等と力関係が作用しているのである」「この状態で夫婦同氏に例外を設けないことは、多くの場合妻となった者のみが個人の尊厳の基礎である個人識別機能を損ねられ、自己喪失といった負担を負うことになり、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度とはいえない」と反対意見を述べた。

多数意見が、「氏が家族を構成する一因であることを公示し識別する機能、またそれを実感することの意義等を強調する」ことに対して、岡部は、「それは全く例外を許さないことの根拠になるものではない」し、「家族形態が多様化している現在、氏が果たす家族の呼称という意義や機能をそれほどまでに重視することはできない」と批判した。また、通称使用が広まると改姓の不利益は緩和され得ると多数意見はいうが、通称は欠陥がある上、「通称名と戸籍名との新たな問題を惹起する」改姓による「不利益が一定程度緩和されるからといって夫婦が別の氏を称することを全く認めないことに合理性は認められない」と述べた。

以上の通り、民法750条は「少なくとも現時点においては、夫婦が別の氏を称することを認めないものである点において、個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超える状態に至っており、憲法24条に違反するものといわざるを得ない」

750条違憲については、法制審議会の「民法の一部を改正する法律案要綱」答申で「個人の氏に対する人格的利益を法制上保護すべき時期が到来している」と説明されているが、「本件規定が違憲であることを前提とした議論がされた結果作成されたものとはうかがわれない」。750条について「違憲の問題が生ずるとの司法判断がされてこなかった状況下において、24条に違反することが明白であるということは困難で」、国会が改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはでき」ず、「本件上告を棄却すべきであると考える」とした。裁判官櫻井龍子、同鬼丸かおるも、この意見に同調するとした。

750条は24条に違反していると主張する意見であっても、裁判官木内道祥の意見は異なる。「750条は夫婦の氏について24条1項の婚姻における夫婦の権利の平等を害する」と述べ、「夫婦の権利の平等が憲法上何らの制約を許さないものではない」が、「問題は、夫婦同氏制度による制約が憲法24条2項の許容する裁量を超えるか否かである」

実際「氏を改めざるを得ない当事者は・・・利益被害を被っており憲法24条にいう個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠く」、夫婦同氏の効用とされる「家族の一体感にしても、夫婦と未成熟子が同氏であるゆえ夫婦親子であることを社会的に示す」としても、「同氏であることが夫婦の証明にもならないし親子の証明にもならない」。子の育成に当たる「父母が同氏であることが保障されるのは、初婚が維持されている夫婦の子だけである」「夫婦同氏の効用という点から、同氏に例外を許さないことに合理性があるということはできない」

裁判官山浦善樹は、立法不作為を違法とする点の反対意見で、あった。

女性の社会進出が増加したことや、個人の尊厳に対する自覚が高まりをみせているなか、改姓に伴う人格的利益や夫婦間の実質的平等問題が意識されてきた。海外においてはほとんどの国で別氏制も導入されており、女子差別撤廃委員会からの改正の要請も続く昨今である。法制審議会が答申した「民法の一部を改正する法律案要綱」で「本件規定が憲法の規定に違反することが国会にとっても明白になっていたといえる」。国会が「本件規定を改廃する立法措置を取らなかった立法不作為は国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるべきものであるから、原判決を破棄して損害額の算定のため本件を差し戻すのが相当と考える」と述べた。

5.裁判が終わって思うこと

この裁判のキイ・ワードは、アイデンティティと「氏名保持権」であった。

裁判では職業に関わる人格的不利益が中心になった。これもアイデンティティの一部だが、原告塚田の証言のほとんどは、自分が自分であることのアイデンティティであったことも記憶に留めたい。原告団が憲法13条から引き出してきた「氏名保持権」には期待したが、この仕事の難しさが伝わるばかりであった。今後も挑戦してほしいと切に願っている。

様々な見解を持つ裁判官のなかであったが、裁判長は、家族法の体系の範囲内で判決文を作成した。その点では下級審と変わるところはなかった。        

本判決から筆者が受けた示唆を以下何点か取り上げ、今後の第二次別姓訴訟に繋げられればと考える。

(1)家族法と家族観

裁判長の認識する家族法は、近代家族モデルを基底に戦後間もなく改正されたものである。近代家族モデルは性別役割分業を特徴とする。性別役割分業における夫(父)には、家族を統合する役割が付与されており、夫婦関係に生じる勢力の偏在が存在した。当時この事実への関心はなく、夫婦に法の下の平等、つまり形式的平等を保障した。近代家族モデルが比較的長く有効性を維持していたためもあってか、家族法は大きな変化を受けることなく現在に至っている。

法律上の仕組みとしての婚姻夫婦も、「社会の構成員一般からみてもそう複雑でないものとして捉えることができるよう規格化された形で作られていて、個々の当事者の多様な意思に沿って変容させることに対して抑圧的」という特徴もあると判長は述べている。家族の法は変化に対して保守的な特徴を持ってきたことが窺える。地裁や高裁の判決文の印象からも、家族に関する裁判では、家族の法を民法改正時以来の伝統的な解釈や論理構成で運用してきたと思われる。

家族観ではたとえば、「嫡出子であることを示すために子が両親双方と同氏である仕組みを確保する意義」や「同一の氏を称することで家族の一員であることを実感する意義」は現行民法から引き出された意義ではあるが、このような裁判長の家族観や現代の家族への眼差しはどのようなものなのだろう。裁判官岡部、裁判官木内らから離婚、再婚などの家族形態の多様化で氏が果たす家族の呼称という意義や機能をそれほどまでに重視することはできない、同氏であることは夫婦の証明にも親子の証明にもならないなどの反論が出てしまう。

「個人の意思に反して自分の氏名を奪われないという権利を保持すると結婚できない障害」になるとの上告人の訴えなど、現代の家族の問題が捉えられていないという批判でもあった。

昭和22年当時の民法750条は24条合憲であったが、その後の大きな社会変化と女性の社会進出で、その合理性が揺らいだという岡部の指摘は裁判長には強烈な打撃だったのではなかったか。“現行法”に則った家族法からの判決では750条が24条違反であるというこの論理まではたどり着けないのではないだろうか。また、96%もの女性が夫の氏を名乗るという男女の大きな格差に、単なる数値ではなく女性の立場の弱さ、不平等などという意味を付与し、女性問題を潜り込ませたのも岡部であった。地・高裁判決ではともに認められない意味付与であった。

それにしても、裁判長ら多数意見がより支配的な裁判の場合、岡部らのような視点や論理は果たして提起されえたであろうか。

“現行法”に基づく判決にも関わらず、「古色蒼然」、「時代遅れ」という感想がマスコミをにぎわしてしまう所以は、70年前から続く変化の少ない家族法の解釈や適用の仕方、そして社会変動と家族関連法との関連づけを成しきれないか、関心がないことの結果だと筆者には思えるのである。  

(2)形式的平等と実質的平等

憲法は両性の形式的平等を保障しているが、実質的平等は実現されていない。

裁判長は「人格的利益や実質的平等は・・・その時々における社会的条件、国民生活の状況、家族の在り方等との関係において決められるべきものである」と考えている。憲法上保障されない人格的利益を可視化させ価値を与えることで、両性の実質的平等を充実させる。それにより、婚姻における個人の尊厳と両性の本質的平等の実現を謳ったとみることができる。その実現については、「法律の制定を求めるものである」

裁判長のこのような記述は、法の論理と整合性で書かれた地裁・高裁判決に比し相当な意外性を感じさせられる。確かに最高裁も家族法の体系の範囲内の法や理論を用いた判決であった。しかし、最高裁においては家族法の体系の外にある「憲法上直接保障された権利とまではいえない人格的利益」や両性の実質的平等が様々に書き込まれていたからである。「判決文は・・・なぜかすらすらと読めなかった。読みながら妙に引っかかるのである」と筆者が感じたのは、新旧の家族(観)が整理しきれず混合し、論理上の一貫性を貫けなかった揺らぎというものだったように思われる。

(3)重要な少数意見 

男性からの反論や反対意見があったのだから軽々には言えないが、今回は女性3人の反論の影響が大きかったと言いたい。多様な視点や考えを持つ裁判官が参加することで、憲法も家族法も新しい力を得ていけることだろう。

(4)「立法に訴える」意味と私たち国民

筆者は最高裁判決にはひどく不満だった。さらに輪をかけたのが、国会に丸投げというマスコミ報道だった。「司法よお前もか!」と怒り心頭だった人はさぞ多かったことだろう。

今回の判決文や裁判長の補足意見、少数意見などを読み、裁判の全体像が見えてきた。そのなかで裁判長は、氏の合理的なあり方について次のように記していた。「多数意見に示された本質的な性格をふまえつつ、社会生活上の意義を勘案して広く検討する」のが望ましいのだろうが、それでは「同法の枠を超えた社会生活に係る諸事情の見方を問う政策的な性格を強めたものとならざるを得ないであろう」、それは「司法の場における審査の限界を超える」と、そこまでは踏み込まず家族法の範囲内で取り組む姿勢である。

しかし続けて、「むしろ国民的議論、すなわち民主主義的なプロセスに委ねることによって合理的な仕組みの在り方を幅広く検討して決める・・・ことこそ、事の性格にふさわしい解決」と思えるとした。これが”丸投げ”を意味したのかもしれない。

裁判長は現在の法律制度のほぼ枠内で判決を下したことを妥当としているようだ。だから評判も悪かったのだが、国民的議論をするよう提案しているところをみると、現在の司法の場における限界を実感しての提案だったと考えてよい。実際問題提起になったものもあった。 “丸投げ”ほどではなかったことを信じておこうかと、今は思う。

時代の激しく早い変化のなかで、LGBTが24条に関わる問題になる日はすぐそこまで来ている。70年前以来の家族法だが、現代の婚姻や姓、性(ジェンダー)、家族の変容やライフスタイルの変化など現代にふさわしい“家族”問題を視野に、一人ひとりを包摂できる法にして(させて)いかなければならないのは誰にとっても課題である。

さかい・はるみ

1941年広島市生まれ。茨城大学名誉教授。お茶の水女子大学から東京都立大学大学院修士課程修了。お茶の水女子大学助手、茨城大学助教授、教授。家族社会学、ジェンダー学専攻。著書『教科書が書いた家族と女性の戦後50年』(労働教育センター)、共著『ネットワークとしての家族』(ミネルヴァ書房)

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