この一冊

『星をかすめる風』(イ・ジョンミョン著、鴨良子訳、論創社、2019年1月、2376円)

ミステリー風小説で描く尹東柱最期の日々

自由業 日高 有志

(イ・ジョンミョン著、鴨良子訳、論創社、2019年1月、2376円)

本誌読者のみなさんは、尹東柱(ユン・ドンジュ)をご存じだろうか。近代の韓国を代表する詩人だが、詩人として亡くなったわけではない。日本が朝鮮を植民地支配していた時代に間島(カンド)と呼ばれた現在の中国東北部に生まれ(現在は延辺と呼ばれる朝鮮族自治州)、植民地下の教育を受け、立教大学、同志社大学で学んだが、治安維持法違反で逮捕され、福岡の刑務所で亡くなった。つまり、学生で思想犯として生を終えた。

みずみずしい叙情と若くして悲劇的な最期をとげたせいもあるのか、韓国のみならず、日本でもいまだに人気は衰えない。それは、彼の死後に出版された詩集『空と風と星と詩』が、韓国ではいまでも書店の詩のコーナーの目立つところに置かれ、日本では翻訳がすでに3種類も刊行されていることをみても明らかだ。

冒頭の詩、「序詩」をめぐる翻訳論も興味深い。「序詩」の翻訳に限れば、出版されている3種類に限らず、さらに多くの翻訳がなされている。なにせ、序詩の冒頭の一節からして「死ぬ日まで」から「召される日まで」まで……、詩の翻訳とはかくもむずかしいものなのだろう。

  ★  ★   

さて、その尹東柱を主人公に書かれた韓国の小説が翻訳出版された。福岡刑務所で尹がどう生き、死んで(「天に召された」としなければならないか?)いったかを大胆な物語にした一冊だ。はじめに断っておかなければならないのは、この本は空想の物語であり、尹の死にまつわる事実を検証するものではない。

物語は、囚人の監視役にして、すべての手紙(獄中に届く、獄中から出て行く)や持ち込まれた本の検閲官の杉山が無惨な方法で殺されている現場からはじまる。満洲地域でのソ連軍との戦闘で功績をあげたという杉山は、やたらと暴力をふるって囚人たちを監視し、蛇蝎のごとくきらわれ、恐れられていた。そこから事件の犯人捜しを命じられた若い監視役・渡辺(招集された学生、監獄での勤務を命じられた)が事件の真相を暴いていくというミステリー仕立ての話が動きはじめる。

粗暴な杉山の姿から当然のように囚人たちによる怨恨の線で捜査ははじまる。やがて朝鮮独立運動・武装組織のリーダーだった囚人による犯行と結論づけられ、死刑が執行されるのだが、結論に納得がいかない渡辺の調査はなおも続いて、とうとう九州大学医学部の人体実験にからんだ事件という予想外の真相が暴かれていく。これ以上書くとネタを明かしてしまうことになるので、やめておこう。

物語のなかの尹東柱は、囚人たちの日本語の手紙(朝鮮語は禁止されている)を検閲の目をくぐりぬけるように代筆し、彼の文にふれる検閲官の心まで動かす。詩やことばによって人やまわりの世界を変える詩人としての活躍がいきいきと描かれる。

物語の作者は音楽好きなのだろう。物語の横糸に監獄でのシューベルトの冬の旅コンサートという予想外の舞台装置を登場させ、そのほかにもヴェルディの合唱曲など、いろいろな音楽が鳴り響く。監獄と詩と音楽という意外な組みあわせが想像の翼を大きく広げるところもこの作品の魅力といえるだろう。

★  ★

さきほど、ミステリー仕立てと書いたが、犯人捜しが主要な関心の推理小説とは異なる。むしろ、戦争中の日本社会の狂気とそのなかでも真摯に生きようとする人びとを描くこの作品は、あえてジャンル分けすれば、歴史小説にはいるのだろう。しかし、細かい史実の整合性にこだわる日本の歴史小説とはちがう。だいたんな舞台設定、ほとんどは架空の登場人物による物語であり、昔風にいえば、「見てきたような嘘」の世界だ。しかし、著者は、「史実や事実よりも美しい虚構を書きたい。それを読んだ人がこれが本当に真実ならば……と思うような虚構を書いていきたい」と語っているという(訳者解説から)。

戦車の鉄板の厚さのようなこまかい歴史事実にこだわりつつ、「明るい明治と暗い昭和」という歴史からまったくかけはなれたファンタジー(植民地獲得に血道をあげ、大逆事件を起こした明治が明るいはずがない)をつくりあげてしまう日本の歴史小説との対比で読み比べてみるのも面白いかもしれない。韓国文学の翻訳というと、純文学作品に傾きがちだが、こうしたジャンルの作品の翻訳がもう少し広がってもいいだろう。韓国の歴史ものの面白さは、日本でも紹介されたドラマでも証明済みではないか。だいたんな空想の世界(そうあってほしい歴史)を楽しむのもいい。

距離的に近いとはいえ、韓国語を日本語に訳すのはかんたんではない。二人称ひとつとりあげてもどう訳すかは、それこそ序詩のようにいくつものバリエーションが考えられよう。戦争中の日本社会という背景を考慮した訳者の苦労の跡がうかがわれる。ついでにいうと、韓国人の著者には分かりにくかっただろう戦争中の日本の制度(徴兵にかんするものなど)の誤解については、訳者の仕事をサポートした人たちによってまちがいがただされていることをつけ加えておこう。

ひだか・ゆうし

1962年生まれ。活字関連業界で働く自由業。

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