連載●池明観日記─第30回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

≫ボーヴォワールのアメリカ紀行≪

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『アメリカその日その日』(1967年、二宮フサ訳)を読んだ。1947年のアメリカ紀行だから、ヨーロッパは戦乱後まだ貧しく混乱していたし、アメリカはかなり安定して夜にでもなればネオンの明りがきらめく時であった。そして何よりもアメリカ社会の中には古いピューリタン的な規則が至る所に残っていた。ボーヴォワールはアメリカの暗いところをあれこれ指摘したが、アメリカの自然と人間をとても愛した。華麗な名文であり、ほんとうに美しい紀行文である。そのような意味ではこれまで読んだトクヴィルとかディケンズのアメリカ紀行文とはまったく異なるものであるといえよう。何よりも彼らの紀行文とは100年以上も隔たりのある文章である。いま私がながめているアメリカはまたボーヴォワールの場合よりも67年も進んできたアメリカであるわけだが。

アメリカには広い土地、人間創造以前の土地、人間の手がとどいていない自然が残っていた。ボーヴォワールは「一台の車もない」「一人の通行人も見当たらない道を見渡しながら」「フランスの中世と同じくらい遠い」といったではないか。彼女はほんとうにアメリカで原始を感じた。「まわりじゅう、あらゆる線は無限の彼方まで続き、地平線は目まいがするほど広大である。人間の跡は全くない」。それにもかかわらずアメリカはニューヨークやシカゴのような巨大な都市が見られるように目が廻るように早く動く社会であった。それは原始と現代がためらうことなく同居しているほんとうに多様な社会であるとボーヴォワールは感じた。つぎのようなアメリカ人の姿勢だけでも彼女を驚かしてあまりあるものであった。

「ほんの行きずりに会っただけの人びとでさえ、多くはその鷹揚さ、即座に示すあたたかさ、真心のこもった素朴さで私を感動させ、この三週間を通じて私をたえず驚かせた」

それにもかかわらず彼ら特に南部アメリカ人たちが見せる黒人差別は言うにいわれないものであった。ボーヴォワールは「アメリカ的善意もここには働く余地がない」といったではないか。バスに乗る時も黒人たちを押しのけて行きながら白人たちは「黒ん坊の女を先に乗せたりしないでくださいよ」と叫んだりするというのである。

「黒人たちは最後部の座席につつましく押しこめられ、なるべく目立たないようにしている」

ボーヴォワールは「彼らの70パーセント以上には白人の血が、約20パーセントにはインディアンの血が入っている」といった。それにもかかわらず白人たちは、黒人差別をかたくなに主張した。それにまたユダヤ人差別も続いていた。そこでアメリカの自然と歴史は世界史を縮小したかのように続けられてきたといえる。アメリカは人種問題においても世界史的な課題を前にしてさまよってきた。ボーヴォワールがつぎのようなバーナード・ショウの皮肉ったことばを引用したことは興味あることであると。

「お高くとまったアメリカの国民は……、黒人を靴磨きをしないでは暮らせないようにしておいて、そのあとで、靴磨きであることは黒人が肉体的、精神的に劣っている証拠だという」

このように、黒人問題を提起しながらもボーヴォワールはアメリカの良心がついにそれに耐えられないであろうと展望した。彼女はニューヨークを見廻してはニューヨークはアメリカにありながらも、すでにアメリカではないとつぎのように語った。

「自分だけにとじこもっていい気になるのは、ちっぽけな町、ちっぽけな国だけである。真の大都市は国境からはみだすものである」

『「韓国からの通信」の時代』(影書房、2017年)

私はここでふと保守主義を固執する日本の東京を思わざるをえなかった。そして韓国にも吹き荒れている保守主義を思いながらも、ソウルがそれでも毅然とした姿勢を示しているのではなかろうかと思った。韓国の場合は国民が保守的であるというよりは野党のほうがあまりにも退廃しているためではなかろうか。多分これは与野党の問題であるというよりは、国民と政治勢力との関係であるといえるのではなかろうか。退廃した政治勢力を前にして多くの人びとが投票に興味を感じないという今日の状況というべきであろう。

ボーヴォワールのアメリカに対する印象をたどって見るといいながらも、このように私はすぐ国内政治のことを考えるようになる。実際ボーヴォワールも第二次大戦によって荒廃したどん底から立ち上がろうと身悶えしているフランスを考えながらアメリカをながめる自身をどうすることもできなかった。彼女はアメリカの大学教授についてもつぎのように語っている。

「大学教授はここではフランスよりもなお一層影の薄い存在である。しかし、それはまさに彼らが一向に精神的指導者の役割を演じようとしないことからきているのではなかろうか」

そこでボーヴォワールは「巨大な鯨」のようだといいながら「東部というごく小さな脳と、際限もなく大きな体をもっている」というアメリカ人のことばを引用しながら「知的敗北主義の伝統が確立している」といった。実際アメリカでは名の知られている作家ですらとても孤独であった。そのためにも当時アメリカには疎外された左翼知識人がかなりいたようである。

ボーヴォワールはアメリカ人を軽蔑するフランス人に対しては辛辣に批判した。「フランス人の顔をぴくぴくさせる例の知的な顔筋痙攣より」はアメリカ人の「木彫りのような顔のほうが好ましい」という。アメリカにおいては「独身生活がヨーロッパよりもはるかに蔑視されている」といいながらも「男と女が愛しあっていない」といった。広い土地でみんながあまりにも遠く離れているし、みんながおのおの自分の仕事に没頭していたからではなかろうか。彼らはみな孤独であるといいながら彼女はつぎのようにつけ加えた。

「アメリカ人は、心底から共鳴して加入しない限り、容易に集団的規制に従わせることができない国民だと私は思う」

『韓国近現代史ー1905年から現代』(明石書店、2010年)

アメリカの複合性。自然も原始から現代まであり人権的にも思想的にもほんとうに多様である。ここでアメリカ社会の歴史が世界の歴史でありうるし、その姿が世界史の未来を見せてくれるといえるのではなかろうか。ボーヴォワールが1947年に見たアメリカの姿はわれわれの身近に迫ってきた世界の姿ではなかろうか。ところがいまは世界がわが国において見られるようにアメリカの自然と社会が見せてくれるような多様性よりは対立しあう酷薄な現代社会をせおいつつ走りながら衝突しあっているような気がしてならない。私がいまアメリカの社会のなかで経験する余裕というのは私の老年ということのせいだけではないだろう。アメリカに対してつぎのように語ったボーヴォワールのことばを誰が否定しうるだろうか。

「時間において縮約され、空間を通じて堂堂と拡散しているこの国の歴史は、ひとつの世界の創造の歴史である」

その歴史の中で時には疲れる「心臓病」になりながらアメリカ人は「諸価値と真理の根源を自己の内には見ないで事物の中に見る」というのであるが、今はそれはアメリカ人に限ったことではなく、今日の世界のすべての人間に対していわざるをえないことばとなった。このような意味ではわれわれは皆アメリカナイズされてきたといえるかもしれない。それでもアメリカはその広大なる自然、原始の自然と現代の文明がともにあるような多様性と寛大さを備えて自制と平和と親切の余裕をもたらしている。多くのことばはさて置いて、ボーヴォワールがフランスへと向かいながら呟いたことばをいくつかここに引用してみたい。

「どうしてこの国を去ることが私はこれほど辛いのだろう?」
「私たちはアメリカ人とは違った形で不幸であり、まやかしなのだ」
「ここは人類の将来が賭かっている世界の一地点なのである」
「パリはまるで凍えたようだ」

ボーヴォワールがこの長い紀行文を結んだ最後のことばはつぎの一句であった。

「私はこれからフランスを学び直し、もとの私に戻らねばなるまい」

このようにボーヴォワールはアメリカを見てフランスと自身を再発見したのであった。(2014年3月20日)

 

デュアメルが見たアメリカというべき『アメリカ、その脅威』(Georges Duhamel,America : The Menace, Scenes from the Life of the Future, 1931)を読みおえた。デュアメルはフランスの医者であったが、アメリカを見て来て、1930年にこの紀行文を書き、その翌年この本は英語に翻訳出版された。その当時のアメリカをヨーロッパ人の目で批判したものであるといわねばなるまい。耳なれていない単語が多くて私がよく理解できたかわからない。彼は自動車の氾濫、シカゴ屠殺場の様子、酒に酔った人びとなどを批判しながら、アメリカの文明があらわにしている大量生産のための機械化の前進を暗いまなざしで展望した。

デュアメルはアメリカに溢れている黒人問題に対して、これは白人の国としてはアメリカのみが抱え込んでいる問題であるといった。彼が今は600万の黒人であるが、遠からず2千万にふくらんでくるのではないかというと、案内人は白黒の混合はありえないのだから、どこか島でも買ってそこに黒人を皆運んで行くことを考えていると答えたという。その後アメリカはこの問題において実際はどちらに向いたのであろうか。アメリカのみが黒人を抱擁しなければならなかったのではなく、今は世界が異民族の移民を抱えて苦しまなくてはならないようになってきた。このことを考えると、このような異民族混合の問題においても、アメリカは世界史の先頭に立たなければならなかったというべきであろうか。

シカゴの乱雑な街に嫌悪を感じたデュアメルは、観客が4、5万人も集まってきたサッカーに対して「凄惨で野性的であり排他的」であるといいながら親しみなど感じえないと軽蔑的に書いた。それだけではなくすべてが自動化して行くアメリカをながめながら、将来は誰かが噛んで食べさせてくれることになるのではないかと皮肉った。そのような目でアメリカをながめながらも彼ははっきりとアメリカの行く道はアメリカを先頭にして世界が進んで行かざるをえない道であると考えたのであった。

「このアメリカによって私は未来に対して問うているのである。われわれが否も応もなく従って行かねばならない道を決定しようとしているのである」

そしてアメリカとロシアを比較した。1929年の恐慌の後であるから、それは実に深刻な問題であったといわねばなるまい。しかし彼はアメリカの場合を産業化の道であるといいながらロシヤはすでに専制(depotism)の道を選んだのだから敗北したではないかといった。そしてつぎのように宣言した。

「アメリカの実験は成功した。未来は確実だ。ほとんど問題になることがない。全世界がそれを尊敬している。その道を行って完成すれば、それは実験ではなく法と規定の完全な装置だ。それはある人びとにとっては方法であり、ほかの人びとにとっては福音だ」

『韓国文化史 新版』(明石書店、2011年)

そしてデュアメルはアメリカの文明が世界をおおうであろうし、革命などはないとつぎのように書き記した。

「アメリカも没落するかもしれない。しかしアメリカ文明は決して消滅することはないであろう。それはすでに世界の女主人だ」

1930年といえば、それは第2次世界大戦前夜だといわねばならないのではないか。これは恐るべき宣言というべきではなかろうか。今日これをどう読むべきかを考えねばなるまい。もしもわれわれはここで現代史の一種の終末を見なければならないとすれば、人類史をこの終末から再解釈し直さなければならないというべきであろうか。特にキリスト教的歴史観、とりわけその終末論からはどのように見なければならないかと深く考えざるをえない。どうしてフランスの知識人たちはこのようにアメリカ論に集中しなければならなかったのだろうか。迫り来るドイツの脅威の前でアメリカに期待せざるをえなかったからであるともいえようか。デュアメルはヨーロッパに対してはつぎのように語った。

「わが大陸にはフランスにおいてもほかの所と同じように古いヨーロッパの精神がなくなってしまった大きな地域がある。アメリカの精神が少しずつそのような地方、そのような都市、そのような家庭、そのような魂を植民地化している」

その暗い戦間時代にどうしてこのように世界史の未来を展望しえたのであろうか。このようにして第2次世界大戦後EUの動きがフランスから起こったことを思わざるをえない。ここにおいてもわれわれは韓国の地政学的位置とそれによる運命という立場から北東アジアにおける役割について考えなければならないという思いがしてならない。(2014年3月26日)

 

今日、日本国際交流基金で長いこと働いた辻本勇夫という方が編集して出版した『変わらない空』という短歌集を読みおえて、彼に感謝の書信を送った。この本は2011年3月11日に起きた東日本大地震を経験した日本人55名が詠んだ短歌とその翻訳が入っているものである。私は書信に地震を直接体験して詠んだつぎのような歌が特に胸に響いたといった。

「ただいま」と 主なき家に 声かける  懐かしき匂いに 声あげて泣く
入学式の 返事の中に 低い声  遺影を抱いた 母親の声
起立する 子等のうしろに 遺影抱く  入学式に 二人の母よ

このように短歌三首を引用しながら特につぎの短歌は私の若かった頃の忘れられない追憶をよみがえらせてくれると伝えた。

救援の 車列に涙 こみ上げて  合掌すれば 敬礼返る

私の自伝『境界線を超える旅』に記録したつぎのような情景が今も私の目の前に浮んでくるからであった。それは今は帰ることのできない北方の故郷の地で国民学校教員をしていた若い頃の話であるが、少し引用してみたい。

「……よく田植などに動員された。ある日田植えをしながら、遠く線路の方を見ると出征軍人をのせた列車が鴨緑江へと向かっていた。高等科の女子のクラスを担当していた江頭という女の先生もその列車に目をこらしていたが、急に私に向かって『この戦争に、竹槍で勝てるでしょうか』と問うてくるのであった。
 私はこの思想的に難しい問にどう答えていいのかわからなかった。国会ですら日本の首相が『われに大和魂あり。何をか恐れんや』と叫んでいることを思い出して、しばらく私は沈黙していたが、正直に『私も難しいと思いますが…』と口ごもった。彼女も『私もそうだと思いますが…』といっては力なく遠い空をながめるのであった」

日本が敗戦を受け入れる、4カ月ほど前であったであろうか。もちろんその時の同僚の日本人女教師は不穏なことばを口にしたと私を告発することなどありえなかった。はるかあとで私は日本に戻った彼女を訪ねてその時の思い出を語りあった。辻本氏にこの時のことを思い出して詳細に書き送ってはいない。なぜかその時のあの記憶があまりにも鮮明に浮かんで来て、人生とはまた政治とは戦争とはと自らに問わざるをえなかったのである。

その時のわれわれが交わした見すぼらしい懐疑の声はまさに素朴な国民の心であったし、政治を営む指導者たちというのは国家的な建前をかざして国民を抑圧しそれに罰を加えていたではないか。今でも目の前にその線路が浮かび上がり、周辺ののどかな春の日ざしがからだにしみ込むようである。このような見すぼらしい記憶のせいで私は政治に対して根本的に懐疑的であったのではなかろうかという思いがする。なぜその時、軍人輸送列車は駅でもないのにそこに止まって休んでいたのであろうか。運ばれて行く彼らはどこに行き、その中でどれほどの兵隊が生きて帰り、人生をまっとうすることができたであろうか。いくら考えても政治権力と国民というのはもともとこのような関係にあるという思いを打ち消すことができない。そして短歌とはその時のそのような情景を歌うのであるが、永遠なる人生の姿をそこに浮かばせるものだと私は考える。

日本人はそのように繊細で多情多感であるが、戦争に動員されると、その反対の極に走るという極端な人生を生きてきたのではなかろうか。このような両者の相克の中で日本人を理解すべきなのかもしれない。それが日本の伝統的な社会であった武士社会の根源的な姿であったのではないか。ここに日本の短歌という特異な韻文の世界が成立したのではなかろうか。(2014年3月31日)

 

池明観さん逝去

本誌に連載中の「池明観日記―終末に向けての政治ノート」の筆者、池明観さんが2022年1月1日、韓国京畿道南楊州市の病院で死去された。97歳。

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)。2022年1月1日、死去。

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