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特集 次の時代 次の思考

連載(1)君は日本を知っているか?

「知っている」という思い込みの危うさ

神奈川大学名誉教授 橘川 俊忠



自己認識と自己防衛

思い込みは排他的優越主義の基

同質化の強制と個性の尊重との対立関係


こんな経験をしたことはないだろうか。外国へ旅行に行って、その国の事をその国の人に尋ねた時、「私は知らない」と言われるようなことである。そういう時に、人は、どう思うだろうか。「なんだ、知らないのか」というところが普通であろう。まして、それがガイドブックに載っているような場所やものだったりすれば、なおのことそう思うのが人情というものである。どうやらわれわれは、その国の人はその国の事を知っているはずだ、少なくとも外国人である自分よりも知っているに違いないという思い込みがあるらしい。

自己認識と自己防衛

逆に、こんなケースはどうだろうか。外国人から日本の事を尋ねられて、その事を知らなかったり、場合によっては外国人の方がよく知っていたりする場合である。知らないのを恥ずかしいと思う人もいるだろうし、そんな事は知らなくてもいいのだと居直りに似た感情を持つ人もいるであろう。あるいは、そんな事は知らなくても、自分は日本の本当の事を知っているが、外国人は上面の単なる知識を知っているにすぎないと、自己納得の世界に閉じこもる人もいるであろう。恥ずかしく思うか、自己納得の世界に閉じこもるかのいずれにしても、自分は自国の事を知っていなければならない、あるいは知っているはずだという思いが潜在的に存在している事は否定できない。

もちろん、外国人に自分が知らなかった事を教えられて、素直に有難く思う人もいないわけではないだろう。しかし、外国人との関係において、自分は自国の本質が分かっている、外国人には所詮本質は理解できないと思い込む人の方が多いという現実は認めざるをえないだろう。自分は、何々人であるという自己認識は、国家や民族という単位が実際に存在し、現実を動かしうる観念である以上、自己のアイデンティティーのよりどころとして重要な意味を持つ。そういう自己認識にとって、自分よりも自国の事をよく知っている外国人の存在は一つの危機である。自分が知っているはずにもかかわらず、実は少しも分かっていないのだと自覚させられるかもしれないからだ。したがって、自分より自国の事をよく知っている外国人を「そんなことまでよく知っているねェ」と驚いて見せたり、「よくお調べになった」などと過剰に誉めるのも、一種の自己防衛に違いない。

こういう反応は、潜在的な心理の中で起こっているのが普通であって、意識の上では、せいぜいちょっとした心の綾とか、引っかかった感じというようなレベルにとどまり、すぐに忘れてしまう程度の事にすぎないだろう。また、専門的研究者でも、そうでない者にでも共通に現れる反応でもあろう。だから、それがほんの些細な段階にとどまっていれば何の問題も無い。

思い込みは排他的優越主義の基

しかし、それが、排他的な自民族優越主義の培養基の役割を果たす事もありうるという事を忘れるわけにはいかない。自分の方が分かっているはずだという思い込みは、本当に自分は分かっているのか、知っているのかという問い自身を抑圧してしまう傾向がある。そして、それが無意識のうちにそうしてしまうというところに恐ろしさがある。外国との関係が友好的で安定している場合には、そういう危険性が社会的な規模で顕在化してくる可能性は低い。

ところが、対外関係が不安定化し、悪化してくるとそうはいかない。一般に、対外関係が緊張すればするほど国家や民族への一体化の意識は高まるし、それを要求する声も大きくなる。そういう同調圧力が強まった時、「分かっている」という意識はその圧力への抵抗力を失わせる。「分かっている」という意識が、外から来るものに対して自己防衛的に働くからである。「分かっている」分かり合える者同士と外から来る「分かっていない」奴等、という二項対立の図式の中で、自己認識のための意識は、排他的・排外的独善の意識へと変化する。

その場合、「分かっている」「知っている」中身は、厳密に検討され、事実そのものと突き合わされる事は無い。「分かっている」という漠然とした感覚だけが共有されていれば、分かり合える関係が成立するのに十分なのである。しかし、それが錯覚に過ぎないという保証はどこにも無い。

たとえば、ある日本人は、猛々しい武士の在り方こそが日本人の本来の姿だと思っているかもしれないが、別の日本人は、たおやかな雅な平安貴族の在り方こそが日本人の真の姿だと思っているかもしれない。それぞれが、本来の、あるいは真の日本人の在り方について全く異なるイメージを抱いているにもかかわらず、同じ日本人として共感できるというようなこと起こるのである。もっとも、花を愛でる心と刀を貴ぶ心とを矛盾を意識することなく共存させているのが日本文化の特質だ、とルース・ベネディクトが日本論の古典となった『菊と刀』で書いているが、そうであるとすれば、矛盾しそうなものを意識することなく受け入れ、矛盾しそうなものを抱えながら共感できても悪いとは言えないという議論もできそうではあるが。

それはともかく、同国人ならば分かり合えるという事は本当なのだろうか。筆者には、こんな経験がある。筆者が、大学院で、ある外国人留学生を指導していた時の事である。その留学生の同国人の研究者が来るというので、「同じ国の研究者が来るから、会いませんか」と勧めたところ、意外にも「遠慮します」という答だった。異国で一人で研究しているのでさびしいだろう、時には分かり合える同国人と話してみるのもいいのではないか、と思ってのことだったが、あっさりと断られたのである。「何故」と聞いたところ、「同じ国の人でも好きな気の合う人もいれば、嫌いな気の合わない人もいます」という、至極まっとうな答が返ってきた。同国人だから気心が知れているだろうというのは、こちらの思い込みに過ぎないことを思い知らされた。

同質化の強制と個性の尊重との対立関係

もっとも、同国人なら分かり合えるだろうという推測にも全く根拠が無いわけではない。言葉は同じ、ないし通じるし、生活している環境も同質だし、与えられる情報も一致しているとすれば、感覚的なレベルで同質化が起こっていても不思議ではない。しかし、同質化の進行が速まるのは、近代以降の現象である。産業・技術の進歩によって、人・物・情報の移動・交流は飛躍的に活発になり、国民国家形成のために全国一律に適用される制度が整備され、国民としての自覚を求めるという名目で同質化のための教育が施され、知識・情報の操作が行われる。そういう操作の過程で、過去から同質化に適合した知識・情報が選択され、あるいは捏造される。

こうして、同国人なら分かり合える、あるいは分かり合えるはずだという「神話」が作られる事になるが、現実にはそう簡単にはいかない。地域差や個人差は、そう簡単には消えないし、画一化が進めば、個性を求める欲求も強まる。変化の速度が速すぎれば、世代間の違いだって大きくなる。また、外国との接触によって新しい異質な文化も入ってくる。どこまでいっても「十人十色」の世界は消える事は無い。だから、国民国家という枠組みの中では、同質化の強制と個性の尊重との対立関係は繰り返し再生産されるのである。

こう見てくると、問題は、「知っている」「分かっている」という無意識に近い意識にあると言わざるをえない。何を、どう知っているのか、分かっているのか、知っている、分かっているというのはどういうことなのか、それを客観的かつ厳密に問い直してみる事、国家や民族という集合表象の問題を考える時に必要なのは、そういう内省を含んだ少しばかりつらい作業である。

これは、専門研究者ではない、普通の人にだけ問い直しが要求されているという事ではない。かえって専門研究者の方が問い直しが困難であると言ってもいいかもしれない。専門研究者といえども全てを知っているわけではないし、「理論や実証」で武装した「常識」にとらわれている可能性が高いからである。いわば、専門研究者の方が、より分厚い色眼鏡を掛けていると言ってもよいのである。したがって、タイトルとした「君は日本を知っているか」の「君」は、一応日本の思想史を専門とする研究者である筆者自身の事でもあるし、少なくとも筆者自身も含まれているというようにご理解いただきたい。筆者の内省作業に付き合っていただければ幸いである。

きつかわ・としただ 前本誌編集委員長