特集 ● 歴史はどう刻むか2・8総選挙

昭和のプリズム-西村真琴手塚治虫その時代

連載・第7回――北の大地で生きるー『緑の王国』に魅せられてー

ジャーナリスト 池田 知隆

西村真琴は、6年間に及んだ欧米での研究生活を終えて1921(大正10)年9月、帰国した。10月には北海道帝国大学水産専門部(現・北海道大学水産学部)の教授に就任した。当時、38歳。札幌市内に居を定め、満州に残していた妻子と、郷里の長野県松本市から母せつを呼び寄せ、家族6人の一家団らんの生活を始めた。2年後には次男晃(後の映画俳優、西村晃)が生まれる。北の大地でマリモが生息する環境を「緑の王国」と名付け、植物学から生態系へと関心領域を広げ、さらにジャーナリズムに挑戦していく。

北大紛争の嵐のあと

北海道大学

西村が北海道帝国大学で担当したのは水産植物学講座。新渡戸稲造の推薦で赴任する直前まで学内には大きな騒乱の嵐が吹き荒れていた。

その講座の前任者・遠藤吉三郎教授は、東京帝国大学理科大学動植物学科を卒業し、札幌農学校教授に赴任して以来、優れた学究として重きをなしていたが、西村が着任する約半年前の3月、死去していた。大学を去ったのは病気や定年に伴ってのことではない。学問の自由や教授の権利について大学運営に大きな波紋を投げかけ、いまも北大の裏面史として語り継がれる「遠藤事件」の当事者だった。その遠藤教授の死は、当時の学生や同僚たちに大きな衝撃を与え、学内にはその名残が色濃く漂っていた。

北大時代の西村真琴

事の起こりは、同僚による文部省科学研究費の不正受給問題だった。札幌農学校を前身とする北海道帝国大学農科大学は1918(大正7)年4月、東北帝大から独立し、それまでの水産学科を「北海道帝国大学農科大学附属水産専門部」に改組した。同年9月、水産専門部主事が他の教官に無断で研究費を受け取っていたことが明らかになった。

この不正受給問題を追及する急先鋒となったのが遠藤教授。「僕の家」と題して大学運営を痛烈に風刺する文章が翌年1月の北海タイムス紙に掲載されたのだ。これを大学への攻撃文と受けとめた当局は、遠藤教授を休職処分にした。学生たちに人気のあった遠藤教授の復職運動が直ちに起こり、学生たちの集団退学届の提出、同講座助教授の義憤による辞職、文部大臣への復職の陳情、そのあげくに一学生が自殺を図るという騒動にまで発展した。

教授が自由に意見を表明できる大学の環境をいかに守るのか。学問の自由、学生の権利をめぐる問題は北大だけではない。他の大学でもそのことを広く再認識させるきっかけとなった。帝国議会で取り上げられたが、遠藤教授は復職することなく、仙台の大学病院で肺結核のため48歳で死去した。

学生たちの人気が高く、不遇のままに亡くなった遠藤教授の後任となった西村は、いわば外様的存在。それだけに気苦労も絶えなかっただろう。新渡戸稲造の推薦があったとはいえ、西村が広島高師の出身で、帝国大学卒業でない。従来の学閥人事からはずれ、海外での研究実績しかなかったことで彼の学識、人柄に厳しい目が注がれた。「とにかく大学運営は大変だった」と西村は述懐していたが、学内での地位を固めるために新渡戸からは東京帝国大学に博士論文の提出を強く勧められた。

マリモとの出会い

西村がマリモに出あったのは、北海道で最初に泊まった札幌の宿でのこと。宿の主人がいろんな珍品を収集し、なかでも金魚鉢に浮いていた玉の緑の藻を興行師めいた口調で自慢げに語っていた。

「東西東西(とざいとーざい)、これは天気予報藻でございます。この藻は、天気の好い時には浮き上がり、雨天時には沈んでまた元の水底にかえる……」

マリモと呼ばれる手鞠のような緑の藻は、北海道の奥山、阿寒湖にのみ生息していることを知り、西村は学術的な興味をそそられた。

「私は漫ろに想像の翼を伸ばした……。昔倭人の住み得なかった蝦夷山中に於て、アイヌ達は神と崇めたことであろうなどなど。そうしてそこに一種の憧れを意識するに至った」(『水の湧くまで』所収「緑の王国」)

阿寒湖のマリモ

マリモは淡水性の緑藻の一種で、その一個体は小さな糸状の繊維(糸状体)からなる。多くの生息地では球状の集合体を作らないが、阿寒湖に生育するマリモは、美しい球状体を作るため特別天然記念物に指定されている。

1753年に植物分類学者のカール・フォン・リンネがスウェーデンのダンネモラ湖からマリモを採取して学名をつけた。日本では1897(明治30)年に札幌農学校の川上瀧彌が阿寒湖で発見し、その形から「マリモ(毬藻)」という和名をつけた。国内では富山県の「タテヤママリモ」、本栖湖などの「モトスマリモ」などが確認されている。 マリモが「スイス、アメリカ、ロシアの一部にのみに其生存が限られている」ことが西村には不思議でならなかった。

「何故此湖にのみ生存を許されたのであろう。斯かる遠隔の世界の所々に散在するまり藻と此阿寒湖のまり藻との系統は果たしていかなる時代に迄遡って其連絡相関を指摘することが出来るであろうか。又、何故斯くも東西遠く相別れたのであろう? 空飛ぶ鳥の脚に掛かって運ばれたものか。」(同)

その謎は2011年12月、釧路市教育委員会マリモ研究室が発表した研究などによって解明されてきている。北半球のマリモの全てが日本の湖のマリモを起源とし、渡り鳥などが食べて、他の地域へと運んだ可能性が高いというのだ。阿寒湖はマリモが現存する国内の湖の中で形成時期が最も古いが、長い歴史の中で消滅した湖もあり、国内のどこの湖が起源かを特定するのは困難とのことである。

摂政宮にマリモを台覧

マリモの生息調査をする西村(左から2人目)

北海道全域の生物調査に従事していた西村は2年後の1923(大正12)年6月、マリモ採取のために阿寒湖へ向かった。摂政宮(後の昭和天皇)が北海道を訪問することになり、その際の台覧品としてマリモが選ばれたためである。

西村はリュックサックを背負い、助手を連れて釧路の舌辛(したから)村からトロッコに乗った。さらに徒歩で山道をルベシベの宿まで歩き、そこで一泊。翌日は馬に乗って一路阿寒湖へ向かった。同行した測量夫や馬子からアイヌの話などを聞きながら、夕ぐれ近く阿寒湖畔に到着した。

翌朝、見渡す湖面には靄が濃く立ち込め、二丁の擢で舟をゆっくりと進めた。その時の情景をこう書き綴っている。

「朝靄のベールが一呼吸ごとに引き上げられると、その下に展開し出したのは湖の鏡の舞台面。
 平静閑寂 この朝凪!
 踏まば惜し踏まねばいけぬ 今朝の霜
という句のごとく、心なき舟行もて此の水面を攪乱することを悲しまずにはいられないほど感じた」

水中にはヒメマスの列がつづき、ウゴイが光る腹をみせて躍る。ヤイタイモシリという小さな島の横を通り過ぎてまもなく、舟の舳にたっていた者が「マリモ」と叫んだ。

「この声を耳にした刹那思わず、私は眼を閉じて嬉しきものを見る前の楽しみをしばしのばすのであった。やがて徐々として眼を開きつつ湖底に透視の瞳を放てばーー
 見渡す限り緑の玉石が累々として神秘の世界を見せている。
 鶏卵大の物、拳大の物、雀卵大の物、更に小粒なるは、一握の大豆をばら蒔き散らしたるが如きもあって……全く之迄の経験界になかった未知境に生ずる敬度の念に打たれてしまった。
 認識界の一大開拓。
 さて其色は緑、其形は円玉、其性は水産植物、其環境は夫婦山の間に擁護せらるる阿寒湖であって誠や日本唯一否東洋中にも他に見出されざる珍草なるべきを痛感せしむる何物かがある。
 ……その光栄を思うよりも、先ず斯かる希有の珍藻が聖代に於いて、世に交渉を持つ事を歓び、まり藻なる玉敷の座の上に緑の王国の祝福するのであった。」

マリモをとりまく自然界の厳粛さ。その時の感動を込めてこんな一首を詠んだ。

水青き阿寒のまり藻秋に会いて 日嗣の御子を拝むかしこさ

摂政宮は幼少期から自然に親しむ環境で育ち、イギリス留学で自然史博物館に通い、生物学への興味を深めたといわれるが、西村が説明するマリモを見て、どんな感想をもったのだろうか。

摂政宮(昭和天皇)に説明する西村

一時、歴史にも関心を寄せたといわれる摂政宮は側近から生物学の研究を勧められていた。「研究者が少なく、競合しない」というアドバイスもあり、海洋生物の中でも特にヒドロ虫類の研究に打ち込んでいく。神聖視される存在である天皇としての時代の重圧から逃れるために、自然と触れ合うことの重要さを認識していたようだ。地味な分野は天皇の公務の合間に研究するのに適しており、生物学の研究は、彼にとって心の安定をもたらす活動となった。その伝統は、上皇(平成天皇)のハゼの研究など天皇家に長く引き継がれている。

超高感度の眼

その夏、南洋諸島に出張し、海産浮遊生物の調査研究に従事している。さまざまな調査で自然に触れたときの光景描写はすばらしい。まるで超高感度カメラで撮影しているかのように、持ち前の文才をフルに発揮し、興奮と感動が鮮やかに描かれている。例えば、こんな文章がある。

南洋の海。舟を操って夜の浮遊生物(プランクトン)を採集していたとき、スコールがやってきて、一面、闇の世界につつまれた。「黒雲、黒雨、黒風は天空から攻め寄せる。黒い波と黒い岩に相打ちて砕ける陰惨なる響き」のなかで、舟は翻弄された。

やがて陸にたどり着き、絹の網を引き揚げると、網の底に採集物が輝いていた。

「……『そは単細胞動物プロトゾーアの一種夜光虫なり』と、これは誠に闇の世界に生まれ出でたる神の詩ーー神秘の焔である。……暗黒の天地に唯この一燈を囲んで空と海との万籟はいまや荘厳なるコーラスとなって聞こえ出した。」(『水の湧くまで』)

「赤道下の船にて」と題したエッセイの、インド洋で暮れゆく光景の描写も見事だ。

「……最早、日は西に傾きました。夕映の空は紅に燃えて、熱帯によくある団雲が蹴鞠の如く散らされて或いは低く海に陥るかと気遣わせるものもあれば、或いは高く飛んで白馬の天に駆け交わうかと驚かすようなのもあります。
 陽は其陰にかくれて雲影が紫紅に透いたり、金色に縁とられて居ります。又射影が海に落ちたあたりは千丈の金襴を敷きつめたように燦き渡ります。
 之等濃艶なる陽座を離れると、色調が段々と移って紅は紅でありますが朱を帯んで来ます。黄金は黄金でありますが、緑を浮かべてきます。薄れゆく紫雲の端は一望ただ靉靆(あいたい)として懐かし味と哀れ味とを我胸に湧かしめます。」(同)

船上ではイスラム教徒たちが聖地メッカに向けて祈り、波間ではイルカの一群が出没していた。鏡のように映る月の美しさに見とれ、西村は船長から望遠鏡を借りた。蝋燭の明かりで望遠鏡の月を写生しながら、西村は思う。

「……我等の地球が月の様に冷却したとすれば、地上の生霊は如何になり行く事でしょう。
 人間は其時生きんと努力するでしょうか……それとも死なんとして時を待つでしょうか。自己と頼む者は生きんと努力する事でしょう。無限の力を信じる者は其力に抱かるる事を考えるでしょう。前者はゾラ(エミール・ゾラ、フランスの作家)の所謂全力を尽くして働いて其処に人間の幸福と安神(ママ)とを得んとする人であって、最後まで戦うでしょう。
 後者は死!!を如何に待つべきかを考察するでしょう。此様な間際には、人智の表現が有らゆる方面に対して極致に迄達するでしょう。在来残った大問題のうちで明瞭に解決を与えられるものが少なくない事でしょう。あの空の無数の星斗の中には、既に右の様な事を解決したものが多々あるかも知れません。我等は之を知るに由ありません。毎夜々々星は謎の如く光って居る許りです。
 エマーソン(19世紀アメリカの思想家・詩人)は、自らの謎を自ら解けとスフインクスに命じております。」(同)

8月上旬、南洋での調査を終えて中国・広東に到着。下旬に東京を回って、久しぶりに札幌に戻った。その数日後の9月1日、関東大震災が起きた。南洋庁および文部省の委託で研究した膨大な研究資料と報告書はすべて焼失してしまった。

牧野富太郎

西村は、震災にあった植物学者の牧野富太郎(1862~1957)が大著『日本植物図鑑』の編纂にあたって、実際の標本がなくて苦労していることを知り、西村が保存する膨大な標本や資料を無料で提供した。「植物は人間がいなくても、少しも構わずに生活することができるが、人間は植物がなくては一日も生活することができない」といっていた牧野。震災発生時、渋谷の自宅で植物標本を調べていたが、標本を守るために練馬区の東大泉に移り住み、植物園や標本館を作ろうという夢をはぐくんでいた。

牧野が大著を完成させていく陰に西村の知られざる力添えがあったという。そのころ、西村は植物学から、地球の動植物群、それを支配している空気、水、土壌、地形を含めた生態系へと研究領域を広げていた。

マリモの環境保全を

1926(大正15)元旦。大阪毎日新聞、東京日日新聞が「50年後の太平洋」と題した懸賞論文を募集する。50年後の1976(昭和51)年を想定し、日本と米国の間によこたわる太平洋はどうなっているのか、市民から広く論文を求めた。そのことを知った西村はさっそく欧米での体験をもとに論文を執筆して応募。本連載第2回目で述べたように佳作に選ばれ、西村の科学的な見識に着目した大阪毎日新聞社は著作の出版と新聞社への入社を強く勧めることになる。

その年5月、十勝岳が爆発した。

阿寒湖の水温上昇によってマリモが影響を受けていないだろうか。マリモは水温12~16度を適温とする植物である。もしも高温の温泉が流れこんで水温が16度を超えると、マリモは全滅してしまう恐れがある。西村はマリモを他の湖水に移植すべきことを北海道庁長官に具申し、急いで阿寒湖へ向かった。

「環境を味わうという事は平和の心の上に生まれるのであって、今や水温の上昇乃至は水質の変化が毬藻の生理上に如何なる悪影響を来しつつあるかを案じている頭には、阿寒夫婦岳の景観すら何等の意義にも値しなかった」

水温計は13・2度。不安の霧は少し晴れてきた。しかし、採取したマリモに褐色になったものが多く、「頭は針をぞくぞく刺されるように感じた」。拡大鏡でよく観察すると、数種類のダイヤトーム(珪藻類)がマリモの表面にぎっしりと付着し、緑の藻が見えなくなっていた。珪藻は水中で振り動かしたぐらいでは取り除けない。また無理に除去すれば、マリモそのものを枯死させてしまうかもしれない。

マリモの寄生物には有害寄生物を蚕食する善玉もいる。事は簡単に解決できない。しかし、このまま放置しておけば、緑色を失ったマリモは同化作用ができなくなり、消えてしまう。いったいどうしたらよいのか。西村は、死線を超えて生き抜こうとするマリモの生命力を祈った。そして「緑の王国」と名付けた群生するマリモの王国を荒らした元凶は「心なき二脚獣」、つまり人間であることを痛感させられる。

北海道帝国大学の同僚たちと

「かつてある時心なき二脚獣が自己の生存の為にとてこの王国に灌注する川の上流において石を流し土を崩し非情な狼籍を働いた為に(略)この王国は見渡す限り泥土に埋れて怖るべき流行病さえも蔓延したのであった。実際この結果毬藻の数千の群落は生色を失うに至ったのである。」

この「緑の王国」を襲う外来の力、個々の細胞の生存と環境、マリモの組成と消長盛衰……を通して集団と社会について考え、国家論を展開していく。

「国民に比すべき細胞があり、内憂外患に当たるべき寄生物があり、食糧問題としての水なる養分と太陽光線が時々恐慌をも惹起する。……自然の配剤について大に考えさせられ、偶々現代に於ける社会問題にすら一筋の連想を起さしめて更に深慮に価(あた)えするものがあった」。

生命と環境、自然と社会をめぐって西村は、大学の研究室から広く社会に向けて発言することに関心を強めていく。

「象牙の塔」から世界へ

1927(昭和2)年、学位論文「毬藻及びプレスマの研究」で東京大学から理学博士の学位を授与された。阿寒湖のマリモを培養し、二本の鞭毛をもつ遊走細胞が形成されることでマリモが無性生殖する説を唱えた。このゆるぎない学問的業績によって学内における面目を保つこともできた。

しかし、大学内の水産専門部という組織そのものが不安定な立場に立たされていた。同年2月には、文部省内で水産専門部を独立させ、高等水産学校を設置する件が審議されていたのだ。(のちに1929年3月、帝国議会において高等専門学校の設置を函館に定め、同付属専門部を独立移転させることが決定した。その後も紆余曲折を続け、函館に現在の北大水産学部が設置されたのは、1949(昭和24)年5月のことである。)

そうした学内事情が変化していくなかで、西村自身、大学のありように幻滅を感じていたようである。「蟹の泡吹き」と題してこんなエッセイを書いている。

西村が大学内の幹事を務めていたとき、「某重大事件」が勃発した。事態が急を要していたため、最高幹部の判断を待つ余裕がなく、即座に独断で解決した。事が無事に納まったとき、事件の顛末を当局に報告すると、「専断の罪」を教授会で尋問された。

「火事が起こった際、早く消せば一人の力で消えるものをそれぞれの手続きを経て、関係者に知らせるために手間取っているうちに、火がすっかり廻って大火にすることを正しいと見るような愚を強うることとなってもよいのか?」

いかにも道理は道理であるが、まあよくもこれだけ理屈……という感を去り得なかった。大学教授会の尋問に承服できなかった西村はある日、海岸の岩かげに一疋の蟹がはいつくばってブツブツと泡を吹いている姿を見る。その泡を吹いている蟹に自分に重ねて、大笑いした、と振り返っている。(『大地のはらわた』)

大学が世の中の動きから離れ、「象牙の塔」と化した閉鎖的な環境にうんざりしていたとき、心が躍るような出会いがあった。6月、ノルウェーの極地探検家、ロアルド・アムンゼン(1872~1928)が札幌を訪れたのである。

ロアルド・アムンゼン

アムンゼンは1911(明治44)年12月、犬ぞりで南極点に向かい、人類史上初の南極点到達に成功。前年の1926(昭和元)年には飛行船ノルゲ号で北極点へ到達、人類史上初めて両極点への到達を果たし、報知新聞の招待で来日していた。

「八十人の手伝いがなくては着陸がむずかしいノルゲ号を私は神を信ずることによって無人の境に突破した」と、北極点到達時の生々しい体験をもとに語るアムンゼン。その世界的な探検家と握手を交わした西村は、心の奥底に眠っていた冒険心をかきたてられた。大学を離れる決意をする後押しとなったといえる。

8月、西村の最初の著書『水の湧くまで』が大阪毎日新聞社から刊行されると、予想以上の好評を博した。西村は文筆への自信を高めた。たとえ大学の内情がなかったとしても、<自由人>としての西村はアカデミズムの現場からジャーナリズムの世界に飛び立っただろう。

子どもと詩と自然

西村の活動は大学内だけに留まってはいなかった。野幌の原始林(現在の北海道立自然公園「野幌森林公園」)で「林間夏期大学」や「森の学校」を開き、子どもたちが大自然に触れながら自主的、創造的に活動するプログラムを組んでいる。

この森林には樹齢数百年という老樹が数多く見られ、樹木や野草、野鳥から昆虫まで数千種に及ぶ多彩な動植物が共生している。豊富な自然が残され、「緑の殿堂」と称したこの森で子どもたちがキャンプによって自然との共生を体験的に学べるようにした。三度の食事を自分たちでつくったり、大木の根株掘りをしたり、多くの体験を通して子どもたちを夢中にさせている。西村が若い20代のころ、短い間だったが、京都と満州で小学校長として子どもたちと触れ合ったときの楽しかった思い出がよみがえっていたのかもしれない。

絵画にも異才を発揮(西村の作品から)

そして油絵にも親しんだ。かつて、札幌農学校に在任した作家有島武郎(1878~1923)らによって創設された学生・教師を会員とする美術サークル「黒百合会」に属し、彼の画才は異彩を放った。

それだけではない。1925年6月に創刊された詩と版画の雑誌『さとぽろ』(札幌詩学協会)にも詩、版画をたくさん発表している。「サトポロ」というのは、「札幌」という地名の由来となったアイヌ語で、「乾いた広場」を意味する。同人の多くは北大予科の学生だった。

この札幌詩学協会の演劇部として劇団「夢幻座」があり、西村はその「精神的、経済的な中心」でもあった。この劇団には、同人でもあった吉田好正(筆名「杉本良吉」)もいた。10余年後の1938(昭和13)年1月、女優の岡田嘉子とともに樺太国境を越えてソビエトに入国した劇団演出家だ。吉田は北大予科を中退して早稲田大学文学部露文科に入学、中退。演劇評論や翻訳で活躍するが、共産党に入党後に検挙され、懲役2年(執行猶予5年)の判決を受けた。ソビエト入国のとき、32歳。入国の数年後、銃殺されている。

この若い学生たちのグループに入った西村は、第3巻第4号(通巻14号、1926年12月)からは、みずから編集・発行人となっている。西村が発表した木版画は14点。寓話や宗教的な祈りをテーマにした作品が多く、版画のほかにも表紙絵や水彩画、詩を10篇(内1篇は英詩)発表している。短歌、漢詩、エッセイも書くという多才ぶりだ。思索にふけり、詩やエッセイ、版画や水彩画に描く「表現者」として多彩な才能を発揮している。

北海道帝国大学を辞し、12月、大阪毎日新聞社に入社することになった西村との別れを惜しんだ雑誌『さとぼろ』同人のこんな文章もある。

「私が陵山泊(梁山泊)と呼んだ先生のお宅の一室を思い浮かべる。扉を排すれば一面の西陽。腰の高い西の障子窓から、葡萄の大きな葉の重なりと、大輪の日まわり草が見える。(中略)先生は目を閉じて静かに机の前に正座しておられる。目を閉じる時生々活発なる想片が泉の如く湧いて来るのだ。渇む時がない。そのために先生の手の届くあたりにはきっと物書くための紙片があり、版木があり、カンヴァスがあった。
 私はその部屋の壁を見廻す。
 セダンの要塞付近の堕壕から拾い上げられた勇士の鉄のヘルメットがある。南洋の鬼面がある。支那人の端正な書軸がある。露人の描けるカンヴァスがある。又隣の部屋に通ずる扉面には彩色せられた重厚なキリンの図。
 先生は世界の心を心とされる、と私は思う。」(相川正義、雑誌『さとぼろ』第19号、1927年12月)

北海道帝国大学の教え子たちと(2列目中央)

西村は、親子のような年齢差のある若者たちにまじって詩を書き、絵を描いた。豊かな創造力、森羅万象への旺盛な探求心を持ち続けた西村の人間性に触れ、若い同人たちが多くのものを吸収していたことが見て取れる。

札幌を立ち去る直前、西村がそれまで描いてきた絵画作品を一堂に集めた「西村真琴作品展覧会」が開かれた。12月3日から5日までの3目間、札幌丸井百貨店で展示されたのは油絵20数点、水彩画・スケッチが30余点、版画数点。好評を博し、絵も数多く売れて思いがけない収益があり、高額の1000円の収益のすべてをアイヌの貧民救済のために寄付した。

多芸多才な生物学者、西村真琴。26歳で日本を離れ、満州で6年、欧米で6年、そして北海道帝国大学で約6年過ごし、44歳になっていた。その多彩な経験をもとに、ジャーナリズムに新たな活動の場を求めていく。

いけだ・ともたか

大阪自由大学主宰 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008~10年大阪市教育委員長。著書に『謀略の影法師-日中国交正常化の黒幕・小日向白朗の生涯』(宝島社)、『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

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