特集●総選挙 戦い済んで

先生、ロシア革命について教えて下さい

ロシア革命100年:ある大学院生との問答

成蹊大学名誉教授 富田 武

はじめに

今年はロシア革命100年にちなんで論文を書き、講演する機会があった。「ロシア革命と日本人―1世紀前どう報じられ、受けとめられたか」(『思想』7月号)であり、成蹊大学2017年度後期公開講座第1回「ロシア革命はクーデタか革命か、スムータ(動乱)か―論争史を整理する」(10月7日)である。また11月中旬には『日本人記者が観た赤いロシア 1917-1945年」(岩波現代全書)も刊行される。スターリン時代の専門家ではあっても、ロシア革命そのものは書いてこなかった私としては、やや異例なことである。保守化する日本の政治と学界に対する危機意識によるのかもしれないし、学問研究の「終活」期に入りつつあるという自覚のためかもしれない。

ここでは、先の講演を聴講した教え子の某大学院生との問答形式で、①ロシア革命研究の現状、②ロシア革命研究の歴史、③私の現在のロシア革命観を語ってみたい。

1 ロシア革命研究の現状

院生先生はロシア革命50周年とか、○○周年とかを体験されたのでしょう。まずは、そのお話から伺います。

富田50周年=1967年の時は大学生でした。いいだもも、安東仁兵衛といった構造改革系党派の記念集会に出たのを覚えています。スターリン主義は批判していましたが、ロシア革命そのものは正しかったのだという立場でした。70周年=1987年はペレストロイカの最中でしたが、8月にレニングラードで十月革命の砲声を鳴らした巡洋艦オーロラ号を見学し、水兵たちが「大十月社会主義革命万歳」を唱えていたのを覚えています。まだ十月革命の正統性が信じられていた、しかし10年単位で数える最後の○○周年でした。余談ですが、翌年日本の学者の訪問団に加わってモスクワへ行った折、「知識普及協会」という共産党御用団体との懇親会でロシア人学者に「僕はインターナショナルをロシア語で歌えるんだけど」と言ったとき、実に素っ気ない反応に驚き、共産主義イデオロギーの衰退を感じ取ったものでした。

院生今年の9月にはモスクワに行かれ、100周年間近のロシアの雰囲気を感じ、学者と話し合ったのでしょう。その辺をお聞かせください。

富田まず本屋でロシア革命に関する本を3冊ほど購入して読みました。1冊目は、欧米では伝統的なロシア革命=陰謀論(フリーメーソン、ユダヤ人、ドイツやイギリス)の焼き直しで、得るものはありませんでした。2冊目は、ボリシェヴィズムはロシアの近代化を実現した「ネオ・プロテスタンティズム」(西欧資本主義勃興の精神となったカルヴァン派のようなもの)だという思いつき的な議論で、これも得るものなし。3番目は『ロシアを救った1917年革命』で、表紙のレーニンと併せてマルクス主義者健在と思ったのですが、読んでみると豈図らんや。レーニンは、崩壊しかかったロシア国家を救済してソ連邦にまとめた指導者で、マルクス主義言説を用いた「左翼愛国主義者」だというわけです。これは、プーチン政権が、ソ連時代のロシア革命=社会主義革命論には否定的ではあるものの、ロシア国家の一体性と愛国主義を強調するのと相通ずるものがあります。

これらの本の評価をロシア人の友人や池田嘉郎さんに電子メールで訊いたところ「偏っているし、学術的ではない」と言われました(3番目の本は註がない)。そこで『歴史の諸問題』や『ロシア史』などの雑誌類の最新号をロシア国立図書館でコピーし、読みました(日本に届くには2ヶ月はかかるので)。こうした権威ある学術誌は、伝統的な学説と新しい学説をバランスよく(悪く言えば折衷的に)紹介しているからです。

院生学術研究の中心はどの辺にあるのですか。10月(11月)革命には否定的だとすると、2月(3月)革命ですか。

富田その通りです。池田さんが、ブルダコーフらロシア人の研究状況を踏まえて今年1月に出した『ロシア革命 破局の8か月』(岩波新書)は、サブ・タイトルが示すように、2月革命はなぜ失敗したのかがメイン・テーマです。この本は「語り」が出色で、教えられる点も多いのですが、一例だけ挙げましょう。9月のコルニーロフの反乱は、当初はケレンスキー首相とコルニーロフ将軍がボリシェヴィキの武装蜂起を協力して封じ込めるはずだったのが、「場違いな仲介者」リヴォフ公によって両者の思惑の違いが出てきて、コルニーロフの政権に対する反乱になってしまったという指摘です。

10月のロシア史研究会大会「共通論題:1917年の革命」も池田さんが組織し、ロシアから招いたガイダさんは、リベラルの立憲民主党(カデット)やこれを中心とする「進歩ブロック」の弱さを指摘しました。池田さんは、臨時政府が革命と戦争(継続)の二つの課題を担いきれなかった弱さ、イギリス大使との連絡やウクライナ自治をめぐる分裂を指摘し、すでに1968年に2月革命論を書き、近く本を出される大御所の和田春樹さんが鋭い質問、批判をしていましたね。

院生いま話に出たブルダコーフは『ロシア革命とソ連の世紀』(岩波書店、5巻本)第1巻にも、論文「赤い動乱 十月革命とは何だったのか」を書いていますね。たしか、同じ名の本を1997年に出して話題を呼んだ学者ですよね。

富田そうです。何で評判になったかというと、ソ連時代のロシア革命観が、革命は必然的である上、レーニンとボリシェヴィキの指導によって整然と計画的に行われた革命というものでしたから、それは違う、民衆の革命的エネルギーは党も統制できないほどで、歴史を遡れば、17世紀初頭の(ボリス・ゴドノフによる王権簒奪から1613年のロマノフ朝成立までの)スムータ=動乱に匹敵するものだと主張したわけです。貴族の反抗あり、農民反乱あり、ポーランドの干渉戦争ありの大動乱だったのです。

そう言えば、長谷川毅さんの『ロシア革命下ペトログラードの市民生活』(中公新書、1989年)は、君も読んだでしょう。ロシア革命は、フランス革命がそうであったように「祝祭」の面と「アナーキーな暴力」の面を持ち、後者の現れとして市民が私的制裁=リンチに走ったことを描いていますね。ブルダコーフは『赤いスムータ』で、農民の暴力、長い間の抑圧に対する不満が爆発したかのように地主の屋敷を焼き払い、その土地を占拠したことを描いています。

院生先生はブルダコーフをどう評価されますか。

富田ロシア革命の社会史的解釈として画期的だったと思います。むろんソ連史学の下でも「自然発生性」(スチヒーヤ)自体は知られていたのですが(ロシア史を彩る農民反乱がその例とされた)、「目的意識性」=ボリシェヴィキの指導に従うものとされていたのです(前の時代はそれがないから敗北と説明)。ブルダコーフの議論で気になるのは、農民は共同体農民の「本性」をさらけ出したばかりか、労働者も共同体農民の尻尾をつけていたということだと、ロシア革命は「反近代化」革命になってしまう点です。スターリンの工業化、農業集団化がそれを反転させる上からの「近代化」革命だったという解釈なのでしょうか。

2 ロシア革命研究の歴史

院生現状は大体わかりましたが、先生がお若い頃からのロシア革命研究の進展を教えてください。

富田3年前の最終講義でも述べましたが、日本のロシア・ソ連研究がソ連一辺倒から変わり始めたのが1956年のスターリン批判で、まさにその時「ロシア史研究会」が発足しました。ソ連の歴史家たちの公式史観に対する挑戦の成果の摂取も含めて、会員有力メンバーの研究成果が実を結んだのが、1968年の江口朴郎編の論文集『ロシア革命の研究』でした。ボリシェヴィキ中心史観から一歩抜け出し、労働者、兵士、農民の運動に光を当てたのが、和田さんの「二月革命」、長尾久さんの「二月革命から十月革命へ」ですが、肝腎の「十月革命」が欠けていました(菊地昌典さんが前年の『ロシア革命』を批判されて書けなくなったため)。総じてマルクス主義の歴史観(資本主義から社会主義へ、階級闘争)が前提とされ、その後の内戦・干渉戦争への、ましてやスターリン体制への展望を欠いた「十月革命終着駅」史観(1917年10月以前のすべての出来事は革命に収斂される)ともいうべきものでした。

もう一つ指摘したいのは、1960年代はアメリカのロストウに代表される近代化論が浸透してきたため、これに対抗し「資本主義と社会主義の収斂」論に反発して、日本の左翼知識人は社会主義に固執しました。また、当時のヴェトナム反戦運動や大学闘争などを反映してソヴィエト(労働者・兵士の運動体)が美化され、また、60年代末から70年代初めにかけてロシアの農村共同体、これを土台にした社会主義移行の可能性、ナロードニキと左翼社会革命党に関心が集中しました。

院生先生たちがロシア・ソ連研究に入った頃はどうだったのでしょうか。

富田1970年代になると、ソルジェニーツィン『収容所群島』やロイ・メドヴェージェフ『共産主義とは何か』にも刺激されて、1948年前後生まれの大学院生が数多くロシア・ソ連史研究に入り、70年代後半から労働者、農民、諸民族の運動に関する論文、あるいは内戦期やネップ期に関する論文を発表し始めました。和田さんは1970年に、フランス革命史家ルフェーブルの「複合革命論」をロシア革命に適用する議論を提示しました。ブルジョアジーの革命、労働者・兵士の革命、農民の革命、そして民族革命ですが、それはソ連の労農同盟=予定調和的な労農革命説に対するアンチ・テーゼでした。労働者と農民の矛盾(やがて内戦期に表面化)など革命の構造に着目するもので、院生たちの個別研究を全体的に位置付ける意味を持ちました。

和田さんはさらに1983年の論文「ロシア革命に関する考察」で、現代史の始まりは公式史観のいうロシア革命ではなく、第一次世界大戦であり、「世界戦争の中でのロシア革命」(総力戦が強いた国家資本主義を社会主義革命の前提とせざるを得ない:レーニン)という視点を提示しました。そしてロシア革命のイメージを世界に伝えたジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』とエイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』を挙げて次のように記しました。「私は、ロシア革命を美化したのは、ロシア人以外のわれわれであったのではないか、われわれはロシア革命の理想化したイメージをつくり上げて、それによって自分たちを支えようとしたのではないか、と思うようになった」。痛切な反省であり、深く共感するものです。

院生ペレストロイカの時期にソ連でも、日本でもロシア革命観は変わったと聞いていますが。

富田ペレストロイカの中で、歴史の見直しがフルシチョフ期より大規模に、深くなされました。スターリンによる大テロル(粛清)の実態が公文書の一部開示により、かなりの程度明らかにされました。またロシア・ソ連史全般では、オルタナティヴ論(別の選択があり得たのではないかという研究)が盛んになり、当初はブハーリンが党内闘争に勝利していたら、あれほど強引な工業化、乱暴な農業集団化はなかったのではないか、から始まり、ネップがもう少し早く着手されていたら、と次々に遡っていくものでした。ロシア革命で言えば、十月革命直後の「同質社会主義政府」(エスエル、メンシェヴィキを含めた連立政権)提案にレーニンが同意していたら、ケレンスキーが七月事件の後ボリシェヴィキを徹底的に弾圧していたら、二月革命が失敗せず欧米型議会制の道を歩んでいたら、等々です。「歴史にイフは禁物」と言われますが、ソ連のように共産党が歴史学を支配している国では、イフを立てることによって従来無視されてきた史実を見出し、歴史を豊かに再生する意味があったのです。

むろん、そこにはレーニンと十月革命自体を否定したい人々の政治的思惑も働いていました。実際、1988年くらいから民族紛争が活発化し、経済が悪化してゴルバチョフ政権が保守派と急進民主派に挟み撃ちされるようになると、十月革命否定論が公然と登場しました。欧米の伝統的なロシア革命論も採り入れられて、十月革命はロシアを欧米的近代化の道から外し、全体主義に導いたとする議論で、独裁国家をつくったのはスターリンではなく、レーニンその人だというわけです。日本の研究者は、一部の欧米同様の論者は別として、この事態に当惑しながら注視しているうちに、1991年末のソ連崩壊に直面したのです。

院生それから四半世紀以上経ちますが、この間の研究をどう総括されますか。

富田ソ連崩壊で研究者は大なり小なり衝撃を受けましたが、研究は二つの流れになりました。一つは、ソ連崩壊を総括し、歴史に位置付ける「大きな物語」で、著作としては和田春樹『歴史としての社会主義』(岩波新書、1992年)、塩川伸明『ソ連とは何だったか』『社会主義とは何だったか』(勁草書房、1994年)、石井規衛『文明としてのソ連』(山川出版社、1995年)が挙げられます。もう一つは、ソ連崩壊でかなり開放された公文書を用いて、従来制約が大きかった実証研究を進めようとする私やほぼ同世代の研究者、さらにはペレストロイカ期にソ連に留学した若手研究者です。両者は対立するものではなく、前者も実証研究はするし、私などは実証研究の本を二、三冊出してから「大きな物語」を書こうと思っていました。ちなみに、私はソ連崩壊の直前に、「社会民主主義か、脱社会主義か」「市場・人権なき国家社会主義は終わった」の2論文を『世界週報』に発表しています。

ロシア革命自体については、ロシアではミローノフ、ブルダコーフらの社会史的研究が目立ちます。日本では梶川伸一『飢餓の革命』以下三部作(1997−2004年)が、内戦期の農民の悲惨さを公文書に基づいて活写したものとして衝撃を与えました。池田『革命ロシアの共和国とネイション』(2007年)は、革命ロシアの国民国家形成という斬新なテーマでした。このほか民族地域の革命についても、優れた研究をしている若手がいます(『ロシア革命とソ連の世紀』全5巻参照)。和田さんは近く二月革命の大著を出され、石井さんも大著(テーマ不明)を準備中とのことです。

3 私のロシア革命観

院生最後に、先生のロシア革命観をお聞かせください。

富田ロシア革命が生み出したもの、ソ連が歴史に残したものは、民族解放運動の促進のほかは「後見的福祉」だと考えています。長いこと社会主義の特徴とされた一党独裁と国有計画経済のうち、後者は大恐慌の資本主義に対抗するものとして意味があり、修正資本主義への変容を促しましたが、やがて可能性を汲み尽くしました。残った唯一のメリットが、住宅・医療・学校教育など広義の社会保障が(少なくとも量的に)充実している点でした。

しかもソ連の社会保障は、西欧のように個人的諸権利の保障を前提とした社会的諸権利の保障というものではなく、ドイツ帝国ビスマルクが創設した社会保険制度=「後見的福祉」(いわゆる「飴と鞭」の飴)の延長線上にあるものと言ってよいものです。このことは、1918年7月のロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法における権利規定(国家目的による制限付き+労働義務)と、まもなくドイツ帝国にとって代わったワイマール共和国の憲法の権利規定(個人の自由権+労働権、生存権)を比較すれば、一目瞭然です。

むろん、ロシア革命直後から様々な社会政策が打ち出されましたが、社会保障に関する規程であれ、女性解放のための離婚・中絶の自由と家事・育児の社会化の方策であれ、戦時共産主義の条件下では実現が財政的に困難でした。むろん、こうした社会政策が労働者、女性の要求や運動に根ざしていたことは事実ですが、それは彼ら彼女らの権利意識の発展には繋がりませんでした。1920−30年代に労働保護、母性保護、社会保険などの制度が整備され(労働人民委員部の管轄下、但し同人民委員部は33年全ソ労働組合評議会に吸収)、学校教育も広く行き渡りましたが、それはソヴィエト国家の成果、共産党の指導のおかげとして強調されたのです(30年代の「家族強化」のように社会主義理念からの後退もありました)。

経済的に後進的で、市民社会も幼弱だったロシアには、この「後見的福祉」しかなかったのであり、それは第二次大戦後に生まれた中国を始めとする一層後進的な国々の社会主義でもモデルとされました。このように、ロシア革命とソ連国家が生み出し、曲がりなりにも長続きしたのは「後見的福祉」だったのです。

最後に付言します。一部の人たちは今でも、ソ連はマルクスのいう「生産者の協同社会」が実現されなかったから社会主義ではないと言いますが、1917年から18年にかけて地方レベルで「コミューン」が一時的に成立したことはあっても、国民国家レベルではソ連はむろん、中国でも東欧でも「一党独裁と国有計画経済」が社会主義と観念されたのです。これは歴史的事実として認めざるを得ないもので、マルクスの理念はついに実現されなかったのだと理解すべきです。

とみた・たけし

1945年生まれ。東京大学法学部卒。1988年成蹊大学法学部助教授、法学部長などを経て2014年名誉教授。シベリア抑留研究会代表世話人。本誌編集委員。著書に、『スターリニズムの統治構造』(岩波書店)、『戦間期の日ソ関係』(同)、『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院)。『シベリア抑留―スターリン独裁下、「収容所群島」の実像」(中公新書―2017年度アジア・太平洋賞特別賞)、近刊に『日本人記者が観た赤いロシア1917-1945年』(岩波現代全書)など。

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